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評者◆睡蓮みどり
変化を恐れるな――ジェシー・アイゼンバーグ監督『僕らの世界が交わるまで』、エスティバリス・ウレソラ・ソラグレン監督『ミツバチと私』
No.3622 ・ 2024年01月06日




■「連帯するには?」という質問を、昨年インタビューや取材で何度受けただろう。この状況で連帯できるわけがないという、なかば諦めの境地が続いている。そんな絶望的な気持ちで2023年の終わりを迎えた。2024年はどうだろう? 何か変わるだろうか? 変えられるだろうか? 2023年は、あまり積極的になれない年だった。特に映画業界からの黙殺にはダメージを受けた。これまで私がしてきた言動が、業界というところで疎まれていることはわかっている。それでも何かが変わると信じたい気持ちがずっとあった。
 2023年12月7日には、私もメンバーの一人である「映像業界における性加害・性暴力をなくす会」の記者会見を日本外国特派員協会(FCCJ)で行い、映画監督の加賀賢三さん、撮影カメラマンの早坂伸さんとともに出席した。これまでずっと訴え続けてきたことをまとめて発言する機会にはなったものの、これといって新しいことを言ったわけではない。私からは性暴力被害者が告発後に置かれている状況を主軸に話した。他にも映画業界に対する批判、メディアに対する批判をせざるを得なかった。それでも少なくともわざわざ会見の現場に足を運んでくださった記者の方々の表情や、その空気感から伝わってくるものも確かにあった。あの場を共有してくれた方々、また会見を見て連帯の意を示してくださった方々に心から感謝申し上げたい。
 会見からすぐ後には「東京ドキュメンタリー映画際」におけるトークセッションに参加した。インティマシーコーディネーターの西山もも子さん、ドキュメンタリー作家の我妻和樹さん、そして映画祭主催の佐藤寛郎さんとのセッションは、私自身も学ぶことが多くとても有意義な時間だった。あのような時間が来年は業界全体で増えていって欲しい。映画の作り手、それを評価する批評家たち、そして見る側も巻き込んで、日本映画というものが本当に面白いものになっていって欲しいという気持ちはずっと変わっていない。こつこつ地道にこのような活動をしないと変わらないなと思いつつ、私自身は被害者という立場でだけ話すことはもうやめにしたい。性暴力被害者であることは私のアイデンティティではないからだ。元々ここにも、こんなふうに苦言ばかりを呈することなく、おすすめの映画を書いていた時期があった。あの頃に、戻れるだろうか? ハッピーニューイヤー。そんなふうに心から言える年にしたい。

 少し気分を切り替えて。今回は新しい作り手たちによる映画をご紹介したい。まず一本目の『ミツバチと私』はスペインのバスク地方を舞台にした作品だ。エスティバリス・ウレソラ・ソラグレン監督による長編デビュー作である。この物語は、自分の性別に違和感を覚えている8歳のアイトール(ソフィア・オテロ)が主人公だ。アイトールは、アイトールという男の子の名前や、ココ(坊や)という呼び方をされることを嫌がっている。それを周囲にも伝えているが、周りは「なぜ?」という反応で、だからアイトールは自然と不機嫌そうな顔になってしまう。アイトールの母アネ(パトリシア・ロペス・アルナイス)、アネの母リタ(イツィアル・ラスカノ)、そして叔母のルルデス(アネ・ガバライン)はそれぞれに世代的な価値観の違いもあり、アイトールとの距離感や考え方が異なる。周囲の子どもたちの反応も個々に違う。ときには、思いがけない差別的な言葉を投げかけられる。「なぜ」という疑問は、マジョリティにとっての「普通」の感覚から発せられる言葉で、必ずしも悪意からくるものではない。そうだとしても、それがアイトールを傷つけることには変わりはない。難しい子ども。ちょっと変わった子ども。そんな目に日々さらされて生きる。それがどれだけ生やさしいものではないか。2023年、本紙で『トランスジェンダー入門』の著者、周司あきらさんと高井ゆと里さんにインタビューした。そのときにお二人から伺った生身の言葉が思い起こされ身に沁みる。
 アネは良き理解者であろうとするが、アイトールの感覚そのものがまるまる理解できるわけではなく、どうしたらいいのか日々悩み葛藤する。本作はアイトールだけに焦点を当てるのではなく、アネが母親として、そして芸術を志していたことを通して彼女自身の家族との関係も浮き彫りになる。様々な変化と受容が、この映画の豊かな濃い緑色の自然のなかに流れる穏やかな時間のなかで、チリチリとした痛みを伴いながら顕れる。
 タイトルにもあるように、叔母ルルデスの養蜂場でアイトールがミツバチと触れ合うシーンは印象的に胸に残った。ミツバチとの向き合い方をルルデスは教えてくれる。最初は恐れていた存在が、すっと「友達」に変わる。何か特別なことをするわけではない。自分のなかの思い込みや恐れの感覚を変えるのだ。最初からラストまで、この映画はとても真摯に登場人物たちと向き合い続ける。変化を恐れない。それは当事者ではなく、周囲にこそ持たれるべき大切なことだと本作は教えてくれる。

 もう一本は、『ソーシャル・ネットワーク』でマーク・ザッカーバーグを演じた俳優ジェシー・アイゼンバーグの初監督作品『僕らの世界が交わるまで』。何かと話題のA24が制作・配給。ある親子の姿を描く。DVシェルターを経営する母エヴリン(ジュリアン・ムーア)と、YouTubeで2万人のフォロワーがいることが生きがいの高校生の息子ジギー(フィン・ウォルフハード)。一見すると対照的なふたりだが、エヴリンにとっての夫=ジギーにとっての父親いわく、「ふたりとも自己愛が強くてそっくり」である。
 ジギーは聡明なクラスメイトのライラ(アリーシャ・ボー)への憧れから、自分自身も「政治的」になりたいと思っている。とはいえ、彼が歌にしているのは自分の身近な友人との人間関係でしかなく、普段から社会問題や人権問題などに興味があるわけでもない。あくまでも「政治的なことを語れるオレ」になりたいのだ。彼自身も自分のそんな浅はかさに気づいている。なんとかライラの気をひこうとして彼女の書いた詩を自身の曲にのせて歌ってみせる。その後ジギーはYouTubeでその歌を披露したことを明かし「政治的なこともお金になる」と嬉しそうに言い、ライラは悲しみと怒りと侮蔑を織り交ぜた表情で彼を見る。一方で、母エヴリンはシェルターに母親と共にやってきたジギーと同い年くらいの少年カイル(ビリー・ブリック)に可能性を見出し、おせっかいなほどに大学進学を進める。母に優しく、シェルターの手伝いもしてくれる「理想の息子」のような彼に過剰に親身になろうとしてしまう。
 他者との距離感が近すぎてそれゆえに警戒される。そんなふたりは目指す方向性こそ違うものの、目の前の小世界に押しつぶされそうになる息苦しさや承認欲求の強さ、そして空回りする人間関係の構築(の出来なさ)は共通する。妙にリアルで、どこか既視感がある。これを単純にユーモアとして笑うことはできず、身につまされる思いがする。物事の本質に触れることができないまま生きる彼らはある意味ではとても薄っぺらくも見えるし、そういう意味では魅力に欠けた人々ではある。だけど必死にもがいている。それが痛いほどに伝わってくる。カメラはそんな登場人物たちに「あえて演じさせている」などという冷笑的な目で突き放すのではなく、むしろ寄り添っているということも感じさせる。だからこの映画は決して嫌味なものではない。そこに魅力がある。
 何もうまくはいかない。それがきちんと描かれる。もし、この恋がうまくいき、家族で抱き合うような偽善的なラストだったら信用できなかっただろう。ジギーが子供の頃にデモに一緒に行ったことなど、エヴリンは覚えていることをジギーは覚えていない。子供の記憶なんてそんなものだと思う一方で、いつの間にか変わってしまったように思えるもの、実際に変わったもの、そして変わりようのないものもこの映画には確かに映っていて、胸がぎゅっと苦しくなる。本作は間違いなくひとつの時代のリアルな空気感を反映させた、「今」の映画だろう。
(俳優・文筆家)







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