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評者◆粥川準二
「不正直」についてのスター研究者が「不正直」を指摘される――行動経済学分野で疑われる研究不正
No.3619 ・ 2023年12月16日




■研究不正事件が定期的に報じられ、SNSなどでもよく話題になる。その学問分野は生物学か医学、あるいはそれらをまとめて「バイオ」と呼ばれる分野であることが多い。しかし時折、別の分野における研究不正が明らかになることもある。
 その一つが「行動経済学」である。行動経済学とは、心理学と経済学をミックスしたもので、人間が必ずしも合理的に行動するわけではないことに着目して社会現象や経済行動を分析する学問分野である。行動経済学(や、その隣接分野の社会心理学)の本のなかにはベストセラーも多く、筆者もそのうち何冊かを興味深く読んだ。筆者がメディア論の授業で教材にしている本でも、その一章は行動経済学や社会心理学の知見を数多く紹介しながら議論を展開している(リー・マッキンタイア『ポストトゥルース』大橋完太郎監訳、人文書院、二〇二〇年)。
 デューク大学教授のダン・アリエリーは行動経済学のスター学者の一人で、『予想どおりに不合理』(熊谷淳子訳、早川書房、二〇〇八年)などベストセラーの著者であり、人気番組「TEDトーク」の常連プレゼンテーターでもある。彼はしばしば「不正直(dishonesty)」についての研究者だと紹介される。
 アリエリーの有名な研究の一つは、人々が書類の最初で「真実の宣誓」を署名すると、それが書類の最後にある場合よりも嘘をつく可能性が低くなる、というものである。この研究は、保険会社が提供したデータにもとづいて行われ、二〇一二年に『アメリカ科学アカデミー紀要』で発表された。この結果はイギリスとグァテマラで検証されたが、その結果はさまざまであったという。カナダ政府は納税の書類を変更するために数千ドルを費やした。アメリカではオバマ政権が注目し、国税庁はこの手法のおかげで政府と取引する業者から四半期で一六〇万ドルを追加徴収できたと評価している(Lee,Stephanie M. “A Big Study About Honesty Turns Out To Be Based On Fake Data.\" Buzz Feed News, 21 Aug. 2021)。
 しかし、他の研究者らがこの研究の実験の一部を再現しようと試みたところ、成功しなかったので、アリエリーをまじえて再現実験を試みたところ、やはり失敗した。彼らは「二〇一二年の論文を再現しようとしたが、最終的にはそれを否定することになった」と述べ(Kristal, Ariella, et al. “When We\'re Wrong, It\'s Our Responsibility As Scientists to Say So.\" Scientific American Blog Network, 21 Mar. 2020)、再現が失敗したことを論文にまとめた。
 こうして二〇一二年の論文は撤回された。ここまでであれば、アリエリーの態度はむしろ正直に見える。しかしながらこの研究には不正行為が含まれていることが疑われるようになった。
 そのきっかけの一つは、行動科学者ユーリ・サイモンソンらが運営するブログ『データ・コラーダ』が二〇二一年七月、アリエリーらの論文のデータを精査して、不正が行われたと指摘したことである。たとえば、自動車の年間走行距離の分布は通常、正規分布を描くはずだが、アリエリーらのデータでは、〇マイルから五万マイルまで一様に分布していた。『データ・コラーダ』は少なくとも2つの「捏造(fabrication)」がなされたと結論している(Simonsohn, Uri, et al. “[98] Evidence of Fraud in an Influential Field Experiment About Dishonesty.\"Data Colada, 17 Aug. 2021)。
 ただしサイモンソンらは誰が捏造したのかを特定できない、と述べた。アリエリーは不正行為への関与を否定し、彼らにデータを提供した保険会社を非難した。保険会社の名前は明らかにされていなかったが、『バズフィード』は、これがコネチカット州に本拠を置く自動車保険会社「ハートフォード」であることを突き止めた(Lee, Stephanie M. op.cit.)。ハートフォード社はこの時点では、アリエリーらにデータを提供したことを認めたものの、詳しいコメントを避けた。
 ところが今年七月、アメリカの公共放送局NPRは、ハートフォード社がアリエリーにデータを提供した後、この研究が発表される前に、その「データが不適切に操作され、合成または捏造されたことは明らかです」と述べたことをスクープした(Fountain, Nick, et al. “Fabricated Data in Research About Honesty. You Can\'t Make This Stuff Up.Or, Can You?\" NPR, 28 July 2023)。NPRのジェフ・グオ記者は番組でこう言った。「同社は声明の中で、ダン・アリエリーに送った元のデータセットを探し出したところ、それはアリエリーの実験で公表されたデータとは劇的に異なっているように見えた、と話しました。同社は、アリエリーに提供したのは約三七〇〇件の保険契約のデータだけだと述べました。しかし、アリエリーの論文では、一万三〇〇〇件以上の保険契約のデータを持っていると彼は主張しました。ほぼ一万の差ですよね」(NPRのこの記事は、ハートフォード社から受け取った「声明」を掲載している)。
 アリエリーはその後も不正行為への関与を否定している。
 なおアリエリーの共同研究者フランチェスカ・ジーノは今年八月二日、自分に休職処分を下したハーバード大学と前述のサイモンソンらを相手に賠償を求める訴訟を起こした。一方、アリエリーのほかの研究にも疑問の声が上がっている。彼の正直さは問われ続けている。
 その研究は一流学術誌に掲載され、著書はベストセラーになり、研究結果は実際の政策に応用されている。そんな研究者を疑うことは、凡人にはできない。しかし、『データ・コラーダ』のようなデータ探偵や、NPRや『バズフィード』のような報道機関の優れた仕事を紹介することは、正直さしか取り柄のない筆者のような凡人にもできる。
(叡啓大学准教授・社会学・生命倫理)







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