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評者◆高橋宏幸
飛躍の核心――「条件の演劇祭」(@北千住BUoY)のカンパニーたち
No.3615 ・ 2023年11月18日




■実験は、往々にして古典を媒介にする。これは、新しい動向、とくに実験的な作品群が生まれるときに起こる現象だ。アンダーグラウンド演劇の興隆を思い出せばいい。唐十郎は、歌舞伎の始原を夢見て、河原者として「特権的肉体論」を構築した。鈴木忠志にも、能や歌舞伎の影響がある。『劇的なるものをめぐって』シリーズのコラージュされた作品群には、古典も多く含まれる。また、『水の駅』で知られる太田省吾も――現在、早稲田大学演劇博物館において「太田省吾 生成する言葉と沈黙」が開催されているが――初期には鶴屋南北の『桜姫東文章』を上演した。実験や新しいものは、逆説的にどこか過去なるものを連れてくる。
 だからというわけではないだろうが、これからの演劇界を牽引するであろう四つのカンパニー、人間の条件、抗原劇場、ぺぺぺの会、ほしぷろが、歌舞伎の影響を受けることを条件とした「条件の演劇祭」を催した。影響の度合いはそれぞれだが、現代の演劇という様式、もしくは自身たちの演劇のスタイルへと歌舞伎の要素を昇華した。AプログラムとBプログラムに分かれて、二つの団体ごとの公演のなかから、ひとつずつあげてみる。
 ペペペの会は、歌舞伎の『毛抜』を取り入れた『太陽と鉄と毛抜』(作・演出宮澤大和)を上演した。むろん、『太陽と鉄』自体は、知られたとおり、三島由紀夫の自伝的な小説だ。一時間に満たない上演時間において、歌舞伎の台本と三島由紀夫をつなげた。ただし、単に物語を接続したのではなく、肉体を媒介にして二つのイメージをつなげた。
 ひとりの男が、観客席のすぐ横の隅の方で、黙々とダンベルで上腕二頭筋をトレーニングしている。舞台上では、制作者が公演中止の確認をするためにドアの前から声をかける。メタシアターの設えもありつつ、どうやら彼は劇団の主宰者らしく、台本の進捗や稽古の状況が思わしくないらしい。ドアには、ウーバーイーツの配達員、家賃のとりたてが訪れるなどするが、ひとつひとつのエピソードはたあいもないものだ。そして、観客席の横の細いマッチョな男が、ドアのなかにいる演出家であることが徐々にわかってくる。
 リテラルに話だけをなぞると寸劇のようだ。しかし、作品の底流に流れるのは、歌舞伎という古典と近代文学たる三島由紀夫、そこに蝶つがいとして肉体のイメージが放り込まれる。しかも、その肉体は、三島由紀夫の浪漫的なボディビルダーの肉体への志向ではなく、現代の流行である筋肉トレーニングをひたすらこなす身体に置き換える。いわば、近代の理想的な肉体と現代の身体性が対置される。
 歌舞伎の『毛抜』は、ミステリー風とでもいうのか、謎の解明があり、そのトリックにはモダンな磁石が使われる。この作品では、やりすぎてもダンベルを持ち上げる筋トレをやめることができず、『毛抜』の磁石が、筋トレの補助に使われる。くだらないと言えばそれまでだが、そもそも作品の基調としては、常におもしろい演出しかない。ただし、この現代の流行であるジムや筋トレというものが、現在の身体性の表象として映される。三島的な浪漫的な肉体美の指向とは違い、細マッチョな筋肉でコーティングされた身体は、同じ鍛えられた身体でも違う。ジムや筋トレ、エクササイズによって作られた現代の美しさなるものの身体は、資本主義と結託したなれの果ての身体だろう。いわば、近代の理想美として肉体に仮託した浪漫などない身体性の囚われだ。その状況をくだらなさの中に透かした。
 もう一つは、抗原劇場の『熊野ヒッチハイク・ガイド』(作・演山田カイル)だ。歌舞伎の『當世流小栗判官』から触発されたとなっているが、その素である説経節の『小栗判官』の旅における移動というエッセンスを入れた。だから、この作品も細かく物語の筋を追うことはない。しかし、移動によって起こるさまざまな出来事を描くことは、物語の王道ともいうべきことであり、その構造を基底におく。
 熊野へ行こうとする女性が、ヒッチハイクをして男の車で向かう。舞台空間はなにもなく、パイプ椅子に男女が前後に座り、場面転換のようなシーンもほぼ排除して、ときどき座る角度が変わる程度だ。ただし、そこには、それぞれが語る長大なモノローグがあり、ときに会話が交錯する。いやモノローグと会話の境が融解した、言葉の渦だけが残る。語られることは、移動による地名であったり、多少の風景の彩りであったり、心象風景など、たとえ大きな出来事かもしれなくても、淡々とした調子で語られる心理のゆらぎがある。だからこそ、言葉の量に対して、舞台空間の簡素さ、演技の木訥した感覚がコントラストとして際立つ。意味もないようなことばの羅列を含めて、次から次へと紡がれていく。
 作品の色調としては、どこか濱口竜介監督の『ドライブ・マイ・カー』を思わせる。映画におけるロードムービーの手法であり、その映画が、演劇的な演技を取り入れたと思われたことを逆手にとって、演劇で映画的な演技を再度なぞるようだ。もちろん、この演出家のスタイルとして昇華されているが、演劇においても物語の解体以後、それでも紡がれる物語や演技の所在を示している。
 もはや声高に実験を謳う時代ではなくなった。しかし、実験の時代は終わっても、可能性はなくなっていない。少なくとも、これからの演劇の地平を開拓するものたちは常に現れている。







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