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評者◆小野沢稔彦
「戦後」という時代を映す映画――木下惠介監督『この天の虹』
No.3614 ・ 2023年11月11日




■鉄の国家を支える「家・家族」

 どんな問題が起こっても、鉄の国家本体は問われない。それは最終的に鉄の共同体に帰属する「家」と「家族」という狭い私的関係性の裡で処理される。国家の裡に生じるすべての問題は、国家の裡に封印され、社会から切り離された「家」のなかで解決ならぬ溶解される。この見事な家・家族の物語としての映画は、日本映画の主流的潮流であり、そのメロドラマ的展開こそ、なかんずく木下映画のドラマ構造そのものである。
 その内実は『陸軍』のドラマ展開の核心であり、支柱であった公認の「家・家族」の役割とまったく軌を一にする。ここには戦争の時代を生き、戦後の時代に持続する、天皇制帝国を支え、戦後の産業構造社会をも習慣的に貫徹し続ける。その習慣的感性は所属する人間の身体性そのものとなってそこにある人間を呪縛する。自明の家という、鉄の国家の規律を身体化する「家」という思考方法こそが、すべての社会的問題を中和させる安全弁である。
 そしてこの『この天の虹』においても、笠智衆の「父」であり、田中絹代の「母」であるのだ。二人にとっての鉄の国家は、『陸軍』における天皇制帝国国家そのものと同位なのだ。
 この父母は、鉄の国家のイデオロギー的情緒を国家に代わって代行し――自ら、その精神を自分のものとし、絶対のものとし、自らもそう生き続けており、その信念は揺らぐことはない――様々に、鉄の国家内で生ずる矛盾や問題を、その問題を抱える若者の内部へ、国家への愛の情感を忍びこませることによって、国家への忠誠を「仁義」とする徳育的心情に引き寄せ溶解する。若者はこの現実の鉄の国家の矛盾や壁を前に、その人生の行く末に悩み、時にはこの鉄の国家からの脱出を企てる。
 すると、この鉄の国家の安全・安心とその絶対性を自らの生き方そのものとする、この親たち――笠や田中だけでなく、この国家に生きる大人たちはみな――は、その宗教的信念とも思える、この現実社会の肯定とそのなかにしか人間の生の条件はないことを説き続ける。
 ここでも「父」は、鉄の国家で30年に及んで生きた現実経験と、そのなかでこの鉄の国家を自らの手で育てたのだという不動の信念を若者に説き続ける――生きるとは鉄の国家のなかで、「私」の感情を棄てて、国家の一員として生きることだ、と。父は言う(台詞)。
きみは大きさに負けたんだ。無理もない。
だれだって負けそうになる。
自分が小さく惨めにおもえてね。
しかし、違うんだ。
わしは三十年やってきたよ。鉄を可愛がってね。
わしが可愛がらなければ、あのでっかい工場だって、育ちやせんよ。……

 そして「女」も、ここでも国母として、この鉄の国家から脱出しようとする我が子への、限りない愛情を信じる信念によって子を包みこみ、この国家愛情共同体から離脱しようとする(しかける)子を、彼女が信じる共同体のなかに引きこみ直すのである――『陸軍』において、最後に戦地へと、我が子を追い出したように。母は言う(台詞)。
お父さんにはお父さんの仕事がありますし、わたしにはわたしの仕事がありますからな。
生きているうちにやっておかなければならない仕事が……。

 ここには、あからさまのように父と母との役割分担が『陸軍』と同様に、なんの衒いもなく語られている。木下にとって、あるいはこの国のホームドラマにおいては「昭和」は持続しており、その「国家構造」はなんらの変更はないのである。
 ほとんど絶望的にある鉄の国家の矛盾と諸問題(社会主義によって解決されるわけではない。社会主義はこれらの問題を解決出来ぬことで崩壊した)は、このようにただ「家」の内部の情理で溶解される。制度としてある「父・母」という抑圧的存在が、その存在性そのものを問われることなく固定化され、「家」という制度の下に子供たちは置かれ、父母の権威的抑圧的眼差しの下で管理され続ける。
 そしてその父・母もまた、この鉄の国家の下に従属することを強いられ、そのなかに意欲的に生きることこそが、自分の生のあり方だとして親も子も生き続ける。それにしても、この映画に登場する青春群像のそれぞれは、なんと脆弱で、自律した思考を持たず、従順なのであろうか。松竹大船のドラマのなかで、1959年に大島渚によって作られる『愛と希望の街』において登場する「怒れる・反抗する」少年にとって真に自律した生き方が映画に現出するまで、日本のメロドラマの若者たちは、まったく大人たちの「手の内」にある若者たちだったことを確認したい。そして、現在のテレビ的世界の中心をなす、日本の青春をこそ木下は予知していたのだ、と笑って納得することで済ませてよいのだろうか。
 実に、木下の『陸軍』を支えたこの「家・家族」という制度は、この『この天の虹』をも貫き、戦後映画の中心的構成要素の主流となって戦前・戦後を持続しているだろう。「国家」という自明とされる「力」がむき出しのままに噴出する時代に、その国家構造の中核としてあり、その国家の幻想性を支える「家・家族」の問題を正面から見据えるために、――そして今日にまで持続する問題性を問い返すために――この木下惠介の二本の映画は見直されてよい。

■労働という桎梏

 この小論の最後に、近代国民国家という幻想の共同体とそれを支える「家」という制度性が、その構成員に要求する生活姿勢=道徳律とはなんであったか、をもう一度問い返しておきたい。
 それは『陸軍』でも『この天の虹』においても、映画の中心に自明性のように流れ続ける「労働」ということ、「働くこと」という生のあり方なのである。おそらく近代市民主義社会の成立は、そのシステムの基盤にアプリオリに「働くこと」によって、人間の暮らしと社会の構成形態は成り立つのだという虚構を成立させたことにある。
「東雲とともに  疾く起き出て
暮果つるまでも  刈らしめ給え……(讃美歌504)」
 というプロテスタンティズムの思想と資本主義の精神――日本映画の中心的担い手たちを内から規定する小自営商家の道徳律と軌を一にして――は、国民国家の成立とともに、この日本社会の自明の内的道徳律そのものとなったのだ。そして天皇制国家を根底から規定する「教育勅語」の精神とこの近代国家の「労働観」とは表裏一体のものとして国家への滅私奉公の思想を育むのだ。働くことは良き市民の務めであり、日々実践される勤勉とその精神こそがこの国を支える。
 しかし、この二本の映画を貫く、近代国民国家の自明性こそを疑うことなしに、この社会と時代に拘束され続けてある私たちの現在を問い直すことなど出来ない。私たちを呪縛する、「労働」という自明性を問い直す運動性は、私たち一人一人が「労働」から自らを解放するという問いなのだと思う。

■追記的に

 私は戦後映画における木下惠介の映画方法上の諸実践、つまりは映画そのものへの問いを大変重要な試行であると思っている。
 『笛吹川』『楢山節考』『カルメンシリーズ』など木下映画の秀作は、戦後映画の達成した成果だと思い、そうした彼の映画が再評価されることを願っている。
 しかし、今回採り上げた二本の映画を貫流する木下の資質と、同時に日本映画を貫いて流れる問題点、日本映画のアポリアこそを問うために今回の小論はあるのだ、と言っておく。
(プロデューサー)
(『この天の虹』の項、了)
――つづく
(※編集部より 本連載は、しばらく休載します)

 『この天の虹』
スタッフ
 監督・脚本 木下惠介
 製作 小梶正治
 撮影 楠田浩之
 音楽 木下忠司
 美術 梅田千代夫

キャスト
 笠智衆
 田中絹代
 小坂一也
 川津祐介
 高橋貞二
 久我美子
 大木実







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