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評者◆小野沢稔彦
「戦後」という時代を映す映画――木下惠介監督『この天の虹』
No.3613 ・ 2023年11月04日




■働き続ける機械システムは美しい

 『この天の虹』こそ、映画の機能性を最大限活かし、映画的表象の特色をいかんなく発揮した映画としてあり、そのことは次のようなことなのだ。この映画は、その映画的表象によって見事に、「鉄の国家」の巨大さと奥深さ、そこに関係するすべての人間を身心ごと拘束するその「力」、すなわちこの八幡の町のすべてを飲み込む機械的関係体系の構築による現実的国家力を誇示する。そして、この映画的表象に具現される「力」こそが、この鉄の国家に人々を導入し、この国家の運動のなかに人々を動員して、この鉄の国家を稼働する自律した運動体としてあることを、観る者に感得させるのである。このことが、映画の力なのだ。
 ここに表象される鉄の国家の現実は、まず映画という表現様式の勝利的顕現として、ファーストシーンの延々と長い「空撮」――圧倒的な物量的誇示――によって、この地域全体が私たちが認識している「工場」というイメージを超えて、機械的機能性の統合による巨大軍艦ならぬ近代工業社会の総合力を暴力的にまで感知させる。
 さてここで、「空撮」という映画的方法――今日、テレビ番組では空撮(ドローン)は日常的な手法となっている――についてもう少し詳しく見てみたい――私は、この映画のファーストシーンは実にそれまであった空撮という手法を超えてすごい、と思っている。私たちが、それまでの映画で知っていた「空撮」という方法は、きわめてシンプルにその映画の中心となる場所や人間のおかれた環境・位置を端的に見せるためにあるものであった。しかし、この映画に現出している――八幡製鉄所の全面的表象――空撮による鉄の国家の表象は、そうした私たちの認識をはるかに超えるものである。
 その方法はまず、この国家の広大さを見せるために物量戦(なにより空撮の経費をいとわず)を展開することで、いかにこの鉄の国家の領土が広く大きいか、更には建ち並ぶ工場群の堅固さを実感させる。そしてこの国家が町の「中心」にあることによって、この地域全体を戦略的におさえていることを圧倒的に見せる。
 以下、この映画の表現様式を特長づけるファーストシーンの「空撮」の内実について考えてみたい。アジア・太平洋戦争末期の東京大空襲と広島・長崎の原爆投下という「空爆戦」の戦争全体に持った意味をふまえた――木下がそのことを充分にわかっていたか、どうかはわからないが、アメリカの映画などを通して感知し、明らかにその戦時経験がここに活かされている――上で、「空撮」の高度をまったく絶妙に設定し目標を的確に捕捉することで、この空撮力はこの国家の「力」の全体的な意味を感得させるのである。
 映画の方法は「戦争」とともに意識的に進展するけれど、この空撮は、映画人の戦争経験によって生まれた――その高度とスピード――としか言いようがない。この映画の空撮は、アメリカの空爆の視線――最も効果的に「都市」を制圧するための高度・位置設定――に拠っているのだ。
 こうして『この天の虹』におけるファーストシーンの「空撮」=映画のシューティング(撮ること)は、シューティング(撃つこと)、すなわち空爆の思想とその具体的な視点を導入することで映画という近代文明の表現様式にふさわしく、戦争の方法を活用して、「鉄の国家」の絶対性をまず、圧倒的に表象する。この映画に限らず、この国の(世界の)戦後映画は、アジア・太平洋戦争の軍事方法(映画に結実している)に倣ったものが多く活用されていることも憶えておきたい。
 戦艦ヤマトを超える堅固な鉄の国家・ヤワタ。更には、この映画のなかで展開される松竹的小市民ドラマ(これが木下の考える「人間」のドラマだ)を圧倒的に凌駕して、次々と映しとられるその機械美・原質としての鉄(溶けた鉄の美しさ。光)の美。鉄鉱石が高温で溶かされ、輝く流動体となった鮮烈なオレンジ色の流動物質となって、ある「型」に整形・固定化され、それが一枚の鉄の薄板となってコルク状の球体として巻き上げられる。その製鉄工程にカメラは密着し、鉄の流動形態から固定形状にいたる工程を、まさに近代産業社会の「美」として見事に捉える。ドキュメンタリーという映画の初源的な方法は、機械美を直接的に表象し、そのダイナミックさを映す。
 映画だけが表象しうる近代工業社会の産み出す美。その美を謳い上げる木下の方法――例によって、美しい移動、パンニング、レンズ選択の妙。それらが一体となって鉄の美を讃える――、現場の映画人もまたこの現場に感動し、その美をいかに伝えるかに腐心している。ここでは映像という幻影の表象力を木下以下全スタッフが確信し、その力を発揮することに専心する。この映画が表象する「力」への讃仰は、実は木下だけでなく日本映画の抜き差しならない戦後的流れなのではないか。
 しかし、このとめどない機械美とそのスピード感と、そこで生産される製品の美への讃嘆はやがて、車の美、戦車の美、兵器の美、そして戦争の美の讃歌につながりはしないか――映画こそが戦争の美を讃えてきた。サルトルに倣って言うなら「ピクチュアレスクの起源は戦争にある」。
 近代工業社会の産物である映画は戦争の美を表象することが出来る。そして、この鉄の国家の表象はどんな「木下映画」をも凌駕して観る者を圧倒する。木下は『陸軍』において、侵略戦争へと向かう陸軍の行軍を兵士たちの一糸乱れぬ分列行進のなかに、集団的「美」の運動として表象した。この時、木下という映画人は、この行進の内実を問うのではなく陸軍――それも現実の――の統一的行軍としての「アクション」という即時的な表層現実に「美」を見出していた。
 結局、映画は眼前のアクションに囚われているのだ。あるいは、それぞれの時代にふさわしいアクションを採り出し、そのアクションをどう撮るかだけ(その内実は問わず)が、映画人の手腕ということになる。そのアクションの内部に、どんな情況が含まれているかを、視ることにない映画表象は、その時代の支配的思想の表現となって現われる。
 映画という表現様式は、その現実に決定的に時代の表層をしか映さない。同時に、映画人は、その表層のアクション性にのみ「美」を求める。その美の内実に対して、批判的に向き合うことのない映画的表象は、常にその時代の主流的美の運動に共感している。
 鉄の国家は、力の国家でもある。映画こそが、この近代工業制社会を表象する紛れもない表現様式であるとすれば、ではその只中で、私たちはこれまで「映画」という表現様式そのものを問うたことがなかったことを想起したい。映画は自明のままに、アプリオリにあるものではない。私たちは、映画そのものを疑うことなく映画を前提としてきたのだ。

■企業=国家であることの内実

 木下はこの映画で、映画の機能性そのものを最大限に活用し「鉄は国家」であることを謳い上げる。つまり木下にとっては、どんな形態をとろうと自明性としての「国家」は必然であり絶対性としてあり、そこに生きる人間が自らのアイデンティティを保証される永久に不滅の幻想の共同性なのだ。そして映画こそが、そのことを表象しうると思っている。そしてこのことは木下だけでなく、戦前・戦後を生きた日本人監督の自明の内実でもあるだろう。

 近代国民国家の体系は、生産現場にだけ確立されているのではない。その体系を成立させるため、きわめてシステマティックにその「管理・維持体系」が、生産現場を囲んで幾重にも張りめぐらされている。企業の中心的生産現場以上に、この管理体系は重要であり、実にそこに関係するすべての関係者のあらゆる生活現場を臨視する――文化機構・保健・保養・消費物質の供給・娯楽・教養・住対策・自然環境対策、そして警備対策と医療機関etc……そうしたサービス後援システムが「国家」を構成するために備えられてある。いわば、揺りかごから墓場まで、人間生活のための全設備が国家内に配備される。
 ここでは人間の生活過程のすべてが「国」に管理される。そしてその裡にくらす人々にとっては、そのシステムによってくらしの安全・安心が保証されると共に、人々もまた、その安全・安心のシステムによってこそ「国」への帰属の想いを強めるのだ。そして、こうした国家内付帯施設もドラマのなかで、その劇的展開に必然の場として的確に活かされる。この映画では、そのドラマ展開が「国」の外へ出ることはない。虚構としてのドラマもまた、「国」の内に拘束される。だから、この映画においては、鉄の国家の人間のドラマは、鉄の国家を称揚する見立てとしてあり、見立てでしかないのだ。
 もっとも――この映画の時代からおよそ30年後――、この戦後的資本主義システムは行き詰まり、「国家」は躊躇なく「新資本主義」へと舵を切ることになる。それらの機構や関連施設はそれぞれ独立し、一種の安心システムとしてあったそれから、それぞれの機構や施設の内実を資本とする独立した管理企業となって、今度はより積極的に資本主義的私企業として露骨な営利事業体となって強圧的にすべての人々に覆い被さる。こうしてこの新資本主義は、より強固に人々の従属同意のもとに進行し続ける。
 しかしこの映画の時代――すなわち「八幡製鉄所」のその生産体系を中心とするあらゆる付帯施設が、一つの統一的な企業体の自明のあり様として稼働していた時代――にあっても、その内部では様々な種類の労使問題・労働問題などは至るところで噴出している。発展し、成長し続ける資本主義的体制そのものは、その内部に様々な、それ自体では解決出来ない矛盾を抱えている。けれどもその現実を無視して、抑圧的な労務管理によって乗り切ることで、企業の表面的な安定を得ている。しかしその問題の影響は、ここで働く、あるいは働こうとする若者に深刻な影を落としていることは確かなのだ。そこで生きる人間はどう暮らすのか。鉄の国家の基盤は揺らいでいる。
 ここでは本社のエリート(有名大卒)社員から、下請け、孫請けの関連事業まで数万人の人々が、この生産システムを中心に暮らしを営んでいるのだから。ここには、資本主義的矛盾はもとより、あらゆる社会的関係性の問題が内包され、日常的に渦巻いている。例えば、本工と臨時工、本社工と下請け工・孫請け工、階層差間の恋愛と結婚問題、身分差問題、一般市民と社員との関係性、etc……戦後民主主義映画が主題として描き続けてきた資本主義社会の歪みがここには集中してあるのだが(この項の冒頭でも書いたが、この映画では被差別部落や「在日」、そして都市周縁民のことは除外されてある)、あらゆる問題はきわめて「私」的な関係性のレベルで解消され、企業そのものの問題となることはなく、絶対に資本主義企業の孕む問題として噴出することはない。すなわち、資本中枢が管理しつくしているこの「私企業」の鉄の国家的規律の内部問題はまったく表面に現われることはなく、働く者の裡に形成された道徳律のなかで観念的に問われるのみで、その極小の人間関係性のなかに解消され、平穏で安心・安全な「鉄の国家」はなんら問題にならないまま永遠に持続するのだ。ここでは若者たちもまた、実に従順にあり、鉄の国家内だけでしか――一方では高級社員の志向は帝国主義的再侵略が目指される――、その思考も問いも運動も行うことはない。企業の「力」はそこに生きる人間の眼差しを企業内部のみへと限定する。そこに帰属する人間は、「外」にある、起こっていることに関しては関心を向けることなく、ただ内へ向いてしか関係をとろうとしない。だから例えば、八幡の近くで起こっている「炭鉱」問題など、領域内への関心だけで「外」への関心は打ち消され、自分たちの問題と結びつけられることはない。
 木下の描く『この天の虹』という映画においては、巨大な鉄の国家は絶対であり、この国家にあってはそこにくらすすべての人間が、その国家の不可侵性を信じこみ、あらゆる問題は、その国家の幻想性のなかに融解されるのである。国家は犯してはならず、疑ってはならない絶対性である。ここでは、一瞬、問題を感じた人々こそが、その巨大な「力」に帰順し、その「力」のなかに生きることに自らのアイデンティティを見出すのだ。ここにある「力」とは『陸軍』の時代のような強制力によっているのではない。戦後の企業社会を成立させる「力」は、そこに帰属する者の自発的な参加意志と、そのなかに自己のあり様を求める主体的な参加意識によって生まれる。ここに現われた現代の――戦後的な――鉄の国家の「力」の徹底した支配力、すなわち日常生活自体が鉄の国家の「力」の場であり、それ自体が服従の叫びかけであるだろう。だから「力」のターゲットは明確に「個」のくらしの細部であるのだ。鉄の国家の内部に生きること、その現実が人間の生のすべてを呪縛し、規定し続ける。しかし、良識派の政治的・イデオロギー的観念は旧い大文字の「政治」をしか思考しえない。そしてここに露出する現実は、このことを見ることの出来なくなった権威的戦後良識派=木下惠介の映画的方法の現実であるだろう。
 「鉄の国家」とは、天皇教と似た宗教の謂いなのである。ではその宗教を支える内的構造とはどんなものだろうか。
(プロデューサー)
――つづく







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