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評者◆小野沢稔彦
木下惠介監督『この天の虹』
No.3612 ・ 2023年10月28日




■戦後という時代、特にいわゆる高度成長経済情況下――1950年代後半から70年代初期――にあっては、日本が侵略戦争を戦ったことなどまったく忘却し、日本人が社会の全領域において、ひたすらに「経済戦争」に没頭した時代であった。
 この時代にあっては、映画人もまた――この時代はまた「映画」の時代でもあった――、ひたすらにこの時代情況を全身で受け入れ、なんの衒いもなく「戦後」という「平和」の時代を表象する映画を作っていたのだ。その中心的役割を担ったのは、紛れもなく戦時にデビューし、戦争体制の翼賛映画を作った映画人であり、彼らは敗戦とともに、一転「民主主義映画」を作り、高度経済成長時代とともに、その時代を表象する映画を作ることとなる。戦争翼賛映画から反戦映画へ――この転換は、しかし、安易すぎはしないか。
 勿論、「映画」という表現様式は、間違いなくこの時代とともに生きる表現様式であるのだとはいえ、そうした映画について、その映画を内在的に見直してみる必要があるのではないか。このことは、戦争中に大作『陸軍』を作った木下惠介についても言えることで、彼は戦後も途切れることなく戦後的「名作映画」を作り続けているのだから。そして彼は、戦後映画の巨匠として、戦後を生き続けている。そのなかで作られた、木下の映画のなかではあまり注目されないままにある、様々な意味で大作である、1958年作品『この天の虹』(脚本も木下惠介)について見てみることとしたい。
 この映画には、木下が戦中に作った『陸軍』とまったく同質の内実が持続的にあり、その思想と方法とは戦後へと接続し、この映画においてこそ全面的に表象されてある、と思えるのだ。
 『この天の虹』という映画はまず、①「鉄は国家なり」という、戦後日本帝国主義の復興過程の思想と労働と工業生産体制を全面的に翼賛する映画である、と言えるであろう。表面的には、平和産業勃興の中心としての巨大製鉄産業の「力」(近代的産業体系が産み出す「美」は映画という表現様式に似あっている)を全面的に賛美する。②その復興=海外再侵略拠点としての拠点都市そのものの全面改編。その過程のなかで生ずる諸問題(多くの構造的差別問題と労働問題、そして「公害」問題)をいかに見るのか、更にはこうした問題に労働者はどう向き合おうとするのか。映画は、そうした戦後的、今日的課題に応えねばならないはずだ。しかしそこにあるのは、きわめて安易な、資本主義的生産様式の安全と成長を前提とし、その裡に安住する労働者像の造形であり、その自己責任的精神主義の提示でしかない。③こうした「鉄の国家」を根底で支えるのが、『陸軍』の精神的支柱であった「家・家族」の構造とまったく同様な「家・家族」観であり、その家族構造を媒介に「鉄の国家」の永遠不滅性が語られる。そしてここでも『陸軍』がそうであったように、帝国主義的産業社会の讃歌となってそのなかに「働くこと」が言祝がれるのである。
 ここに全面的に表象されてあるのは、「戦時翼賛」映画から「戦時軍隊」の戦時の実像だけをぬきとり、平和な時代の「産業戦争」の戦士像と戦いとがイメージ的に新しく提出され、その表層意識だけが塗り変えられただけで、「昭和」日本の内的構造は変わることなく持続し続けていることを、この映画は全面的に表象するだろう。

 虹は空気中の水蒸気が太陽光線に反射することによって、その空気のスクリーンに映る、いわば空気と水と光とが作り出す幻像であるだろう。そして「映画」もまた、蒲田・松竹の夢の幻影工場が作り出した壮大な幻像であり、その幻想性こそを映画は誇ってきた。
 虹の都 光の湊 キネマの天地――と。
 そして、『この天の虹』とは幻影のなかで表象される幻像としての「鉄は国家なり」という映画の主題と、それを表象する「映画」という幻影とは、同じ位相の下にある幻影体系としてあるのだ。幻影である映画によって表象される幻影としての国家たる「巨大製作所」(=鉄の国家)の物語は、まさに映画=幻影であることと軌を一にして戦後映画のなかに巨大に屹立している。
 『この天の虹』は、海外侵略行動を一時的に止められた日本資本主義が、戦後日本各地に次々と巨大拠点基地(一つの都市そのものを新領土として再編した上に)を築きながら――軍都から産都へ――、かつての軍都を超えて「超国家」として自立しつつ、地域全体を飲み込み、工場関係者だけでなくそこに生活する「メガポリス生活民」のあり様と生活のすべてを統括し、統御の下におき、生活の全様式を監視し続けるシステムなのである。そして、かつての軍都がそうであったようにその統御的全構造は、そこに生きる生活民の自発的同意に支えられているのであり、生活民は産都に生きることを誉れとしてもいる。
 この映画では、鉄の国家は「八幡製鉄所」(当時の)なのだが、実は日本国家の隅々まで、トヨタ・ヒタチ・水俣……から原発町村まで、こうした企業国家はその実態をこの国土の上に席捲し続けているのだ。
 戦後の地方自治体の政治行動の主たる役割が、そうした産業関連施設を誘致することにあったこと(今も持続している)を思い出しておこう。この資本主義的生産システムに自治体そのものが依存する構造を問うことのないままに今もある政治的体質とそこに生きる「市民」の住民意識には、『陸軍』のあのラストシーンで歓呼の声を上げた老若男女の姿と同一の内実があるのだ。
 この超国家的国家構造の現実においては、敗戦を経た戦後にこそ、陸軍の軍都の統制的規制構造は変わることなく持続される。つまり『陸軍』を構成していた内的システムは持続し続け、まず「国民」の選抜を行う。この時、「被差別部落民」「在日の人々」、更には、あらゆるところで生きる周縁的人間を、その「超国家」の構成員から弾き出す。そして健全な市民のみが産業国家を構成し、自治体の優良構成員となる。その上で超国家体制をより効率的に改編し、戦後的国家機構が運用され、資本主義の精神と論理の下に「鉄の国家」は発展し続ける。

 実はこの鉄の国家の時代においてこそ、映画は戦前の隆盛に勝って、戦後の産業社会のすべてを謳い上げる最強のメディアとして君臨していたのだ。こうした映画全盛時代のなかで、『この天の虹』も生まれているのだから、このことにも少し触れておこう――これまで、映画批評はいわゆる「文化映画」にまったく関心を向けることがなかったが、映画こそ近代帝国主義時代のメディアとして、産業社会を謳い上げ続けたことを考えると、今日こそこの時代に作られた多くの「文化映画」を、もう一度見直す必要があるように思う(大資本が、それぞれに製作した「PR映画」を処分する前に)。
 この時代、戦時中の「文化映画」と同様な、一般的には「企業PR映画」といわれる宣伝映画は、「劇映画」と並んで(量的にはそれをはるかに凌いで)実に数多く作られており――主に各地での企業宣伝や求人のため。更には海外向けPR用として――、映画は戦後的企業イメージ戦略の新しい要としてあり、『この天の虹』と同様、八幡製鉄所のPR映画も多数作られている。ここではやはり、溶けた鉄の映像的「美」が中心的に捉えられ、やがて冷却され固定化された「鉄」へと変化する工程が映像の特性を活かして謳い上げられる。多分、劇映画とPR映画との生産工程上の映像的注目度はどちらも変わらないのだが、そこにある唯一の違いが映画に登場する労働者が、実際に工員であるか、役者であるかの違いだけである。しかしこの当時、良心的映画人によって、PR映画の世界においてさえもそこに「人間」が描かれているか、どうかが問われていたのだ。アホらしいことに。PR映画はまったく直線的に鉄の精製過程だけが、正確に描かれているだけなのに。現実的には「文化映画」としての内実こそが、企業映画の本質を表象していると思える。

 木下惠介は勿論、こうしたPR映画を何本も観ているだろうが、その上で、なお、なにかを、彼の映画で描きたかったのではなかろうか。彼は思う――PR映画において決定的に欠落しているものはなにか。木下がそこに見つけたもの。それは「人間」であり、PR映画が見えなかったものとは「人間」以外はない、と彼は確信する。「文化映画」は生産体制は描いているが、そこに働く人間と、その心はまったく描いていないのではないか。そして彼は、製鉄工程に携わる人間にこそ注目し、その人間に備わった鉄へそそぐ内的力にこそ目を向けたいと思う。PR映画では、人はその工程の一つの「機材・道具・要員」としてしかないが、木下にとっての「働く人間」は生きた生身の人間として美しくあると、木下は思ったのだ。ここには、木下がその思想の中核として確固として持つ「働くこと」こそが人間の条件なのだ、という彼の裡に身体化された信念(私はこのことを『陸軍』の項のなかで書いた)がある。彼はこう思ったのだ――身を粉にして働く人間は、それ故に人間的あり様を発揮する存在なのである、と。
 木下にあっては、溶けた鉄を操作する人間もまた、人間的な顔を持った、決して作業工程の歯車ではない人間なのだ。鉄の美は人間が産み出すのであり、そのことを描きたい、と彼は意志する――木下のヒューマニズム。ここにあるのは、戦後的メロドラマである。
 かつてチャップリンが作った「フォーディズム」的生産工程を映像化した映画のなかに現われる、機械部品としてあるロボットとしてではなく、家庭に生き、社会に生き、人を愛する人間である人間が働いている、その実像をこそ描きたい――木下はそう思っている。その人間、一人一人がこの製鉄所を支えている。こうした黙々と働く人間たちと、そうした人々が作り出す「鉄」こそが、この日本という平和国家を支えている――紛れもなく木下は、非常に強い決意の下に『この天の虹』を作った。
 しかし、木下の見ようとした「人間」とは、実はまったく抽象的で、彼の観念の裡に生成する幻像でしかないのではないか。ここには、資本主義的生産第一主義、すなわち「利潤」だけを産み出すことを目的として、休むことなく強制される生産体制の裡で、まったく物象化された存在でしかない「働く者」の実像を見るしかないのだ。ここにある疎外された労働に従事する「働く者」とは、チャップリンの描いた機械器具としての人間でしかないだろう。しかし、この現実を木下はまったく見ようとはしない。帝国主義的生産様式の現実への想像力――その結果としてのこの映画――は、木下にはまったくない。彼が見ているのは、その生産体制が産む現象的な「鉄の美」だけなのである。映画こそが、直接的にその現実を表象する故に、木下が視たいと思った「人間」なるものを表象しえない、唯一の芸術様式なのだ。
 しかし、私には木下の決意の根底にあるこの映画に露出する、持続する「戦争映画」の思想と映画的方法そのものが、この映画全体を覆っているように思える。そしてこのことは彼一人の資質の問題ではなく、この国の多くの「戦後映画」の内実をも規定し続けているように思える。
 だから、木下がこの製鉄所の全景のなかで見ようとして視ることの出来なかった、ここに働く人間に見ようとしたものの内実――木下の方法はそれを視ることはなかった――を問わない限り、ここに浮上している問題の核心にせまることなど出来ないように思う。木下が見ている幻像を暴き、問い直すことで、彼がこの映画に幻影した戦後日本の社会構造をこそ撃破することが必要なのではないか――人間を救い出すためにも。
(プロデューサー)
――つづく







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