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評者◆小野沢稔彦
木下惠介の『陸軍』と『この天の虹』――昭和史を貫流する「家」という制度
No.3611 ・ 2023年10月21日




■女のドラマとしての映画の揺らぎ

 軍国の母の育成教育の結晶たる我が子の「敵地」へ向けての分列行進。その子と、その母と、歓呼の声で行軍を送る圧倒的な量の――この動員されたエキストラの総量が醸すエネルギーを見よ――群衆とその中心をなす大量の軍国の母(国防婦人会――この女たちこそが自ら求めて天皇制軍人の母たろうとした――を中心とする)と出征軍の大行進が織りなす壮大なページェント(このシーンの演出は、人々の様々な内実を見事に映し出し感動的でさえある)。この勇壮な出征シーンこそ、日本帝国主義国家の威光と不滅の帝国陸軍の威容とを圧倒的に表象する。そして、この母もまた、この国防婦人会の中核的存在として、これまで多くの兵士の出征を見送ってきているだろう。そして今日。軍国の母の誉れの日。母は、その群衆のなかを、一人、自分でもその内実が判然としないままにある欲情、あるいは輻輳的な激情にかられるままに我が子を追う。
 このシーン、もう少し詳しく見てみよう。我が子の出征を母は、ここまで育てあげた「家」にいて、静かにその出立を送ろうとしている。その母の耳に、出征兵士の行軍ラッパが聞こえ、群衆の歓呼の声が母をせきたてる。たまらず母は、なにかを吹っ切るように外へ飛び出し、その行進を追い始める。我が子の姿を見たいと走る母。木下は彼に特有な映画テクニックを総動員し、母の心そのものを表象しようとする――大ロング、長い移動、アップ、パン、それにフカン……映画は、あらゆる映画的手法を駆使して母を追う。母のアップ。息子の晴れがましい顔。そしてなにより現実の軍母たちの顔、顔……。これでもかと延々と続くこの行軍シーン。しかし確かに、この熱狂の出征シーンのなかで一人、この母親だけはこのシーンに馴染まない様子で、それでも我が子を追い続ける。そして……。その熱狂のなか、群衆とぶつかって転倒し、その行軍の列から引き離される母。そのポーズのままに去っていく我が子を祈るかのように拝む。母は祈る。群衆のなか、一人の母……。
 このシーンは確かに不思議なシーンである。そしてここには、多様な、どのようにもとれるきわめて曖昧な、映像だけが表出し得るきわめて多義的表象を持つ、木下に特有な優れたシーンが現出している――そしてここになにを読み取るかは、観る者に委ねられている。
 だから私は、今日の多くの評者のように、ここに木下の「反戦あるいは厭戦」の意志が表出されてあるなどと安易に思うべきではないと思う。このシーンに当時の観客は、ある戸惑いともどかしさを感じつつ、一方でこの母の姿にどこか共感を抱き(誰もがある同じ想いを持って)、同時に確固として一貫する軍国の母の物語と成長する子との物語として、充分に軍国の母の人間ドラマとして受け入れたのだと思う――当時の観客は、ここに母の心性にあるアンビヴァレントな――我が子を手離す感情と出征という誉れの高揚した感情――想いとを観て、ここにこそ共感を抱いたのだろう。事実、この映画は好評の裡に観客に迎えられた。

 あえてここで、ではなぜ木下を含む多くの映画監督は、軍国主義映画を撮るかを考えてみたい。
 ここに露出していることは、まず木下の「映画」を撮りたい、自分の演出力のすべてを動員してどうしても映画を撮りたい、という想いではなかろうか。監督という「生き物」は映画を撮ることによってしか監督たりえない――そのとき撮れる映画が、軍国主義的内実のものであるかどうかは別にして(あえて忘れて)、与えられた機会を、監督であろうとする意志は逃すわけにはいかないのだ。映画を撮るためなら、火のなか、水のなか、という訳であり、映画を撮ることで、彼らは映画監督でありたいのだ。ここにあるのは、アプリオリに映画と映画監督であることを疑うことなく認め、それがどういう内実であるかを問うことのない自己肯定があるだけなのだ。映画監督である誰もが、映画監督でありたいのだ。
 更には、この陸軍省後援のドラマの最大の見せ場である、陸軍の出征シーン(ドラマ的には我が子の出征だが、このことは映画になかにあっては、この子は戦争への出征軍の一人の兵士なのである)において、軍はその力を使って、国防婦人会を始めとする帝国国民を動員し、映画を盛大に飾り立てサポートを行う。そして動員されたエキストラは現実に彼らが経験し、日々そうしているままに帝国陸軍出征シーンを主体的に演じるのだ。
 この国民大衆の熱狂を「映画」にドキュメントすることは、作り手たちにとっても、エキストラにとっても実に晴れがましいことだ――映画会社が仕立てたエキストラとはその実質が違うのだ。映画を作る者にとってこんな風に、圧倒的な規模とその現実の力とをドラマに導入することなど通常の映画ではありえない。監督の目指す、現実をドラマに、ドラマを現実にという、映画人の望む映画世界を撮ることに、木下は多分、相当に入れこんだのだ。誰にも撮れない映像を撮ること。国民総動員の大ページェントを撮る――これこそ映画監督の望むことではないか。そしてこの現実こそが、軍国国民映画を撮る、というある後ろめたさを越えさせる映画的現実なのだ。このシーンこそ「国民映画」の内実が全的に表象されている。
 映画監督はどんな情況においても、映画という現場を手離すことはない。そして木下も紛れもなく、この「出征=侵略への行軍」のシーンを含め、帝国陸軍の栄光を謳う『陸軍』を撮ったのだ。

 さて、群衆との接触で一瞬、我に返った母は行軍を熱狂的に追うだけの自分から、一人の「母」に回帰する。そして、この熱狂と熱狂のなかにある自分に、なぜか憶えぬ動揺を感じる。このシーンにおいて、木下の多彩な映像手法はきわ立っており、陸軍の栄光と息子の晴れがましさと軍母である母の位相とが見事に浮上する。そして、このシーンにこそ、日本映画伝統の内実が構造化されてある。
 このとき、母は同時に一人の「女」としての母のこの今をも露出する。戦場へと向かう隊列は「死」と直面する隊列であり、死へと直線的に向かう隊列でもある。そして死とは無である。このことへの母の直情的反応。勿論、このシーンにおいても建前として母は軍母であることを自覚し、そうあらねばと自分自身で念じ続けているが、しかし、木下と田中によって造形された――多分、きわめて即興的に演出された、と言うよりこの映画を作る時間のなかで田中の身体の裡に生成され、無意識の裡に蓄えられていた情念の蠢動が、田中の無意識を喰い破って突出してしまった内面の運動をカメラは冷静に撮り出した――母は、分列行進の先に我が子の現実イメージとしての「死」を瞬間的に想ったのだ。その瞬間、同時にこの母の下意識に眠っていた「女」としてのある欲動、それは紛れもなく、子の「死」を想ったことと共に噴出した女の「エロス的欲動」の蠢き、噴出なのではなかろうか。
 エロス的欲動の迸り。
 分列行進のなかで満面の笑みを浮かべる誇らかな我が子のアップ。欲動の噴出する自らに戸惑う女のアップ。二人の感情とはまったく断絶した軍隊の一糸乱れぬ行軍。そしてなによりもその子の「死」を言祝いでいるだろう群衆の歓呼。母が招来した死の想念。そして女であることが死の欲動のなかに浮上する。母は初めて「子」のなかに生きる「男」そのものをイメージする。
 軍母である母は、日々、天皇のために死ぬことを我が子に教えてきた。この自明性として疑われることのない作られた死の欲動は、ある局面においてまったく逆のエロス的欲動に反転する。死の欲動とエロス的欲動とはアンビヴァレントな一対の関係性であり、常に反転可能な運動性である。
 自分でも自分がわからぬままに母の裡に噴出するエロス的欲動――木下は、母の我が子への訓育シーンのなかで、脆弱な身体の我が子に水練による訓育シーンを用意している(軍国国家の母にふさわしい)が、そのショットは裸体の男子を下から讃仰するかのようにきわめてエロチックな光景として演出している。このある面きわめて危ういシーンは、軍国主義国家の母として、子の訓育過程での教育者としての子への眼差しと同時に、実はその子が「男」でもあることの身体的感得でもあったのではないか。この伏線の上に、この感情を抑圧し続けることで母は軍母を演じ続けてきた。そしてこの瞬間。
 そうした下意識の裡に伏在していた、意識されない経験を抱えた上で分列行進を眼前にすることは決定的な別れ――出征は死に向かうことでもある――の予感となって母を拘束し、母はその感情のままに子を追いかけ続ける。死は無である――このことはこの時代のすべての国民民衆のある了解の裡に納得されていることである。この母にとっても、このことは了解されていたはずなのだ。だからこの母の動揺が内包する心性は単純なイデオロギーとしての「反戦」の意志などではない。もっと輻輳したこの時代の心性である。
 凡庸な父との対関係のなかにエロス的愛があったのではない。人間の生の根源的活動の謂いであるエロス的関係性は、軍国主義的関係世界の裡に呪縛されているこの国の「家」世界にはない。その「家」を守るだけの母は、女を封じることによってこの家のなかに、「母」という位置を占めることが出来る。
 その母が、子の死を予感したとき、あるエロス的欲動を覚える。しかし、この感情はこの国においてはあり得ない欲動であり、この母もその欲動を認めてはいない。だからこの不可解な欲動の噴出はまったく曖昧なままに(多分、木下も田中もしかと判ってはいない)放置され、一人歩きし、そして逆に母の裡に封鎖され、出征を送る群衆(その多くが、母であり、女である)の熱狂のなかに取りこまれ、そのなかに回収されてしまう。帝国臣民であることを国父・天皇の下に束ねる(ファッショ)ことで生まれる幻想の集団的意識である、死の欲動は個々のエロス的欲動を巻きこんで強力な死の欲動の集団意識となる。国のために死ぬことは「美」となるだろう。母の女としてのエロス的欲動の噴出は、大群衆の「死」の欲動への熱狂のなかに回収されるしかない。
 女の欲動による天皇制国家の揺らぎ。
 しかし、その揺らぎは、あくまで曖昧なままにあり、戦争へと向かう行軍と「敵」を殲滅するための行動に歓呼する死の集団的欲動の熱狂のなかに埋没し回収される。母の裡に一瞬生じた女のエロス的欲動もまた、敵を殺すための行軍のイメージのなかに、そのエロス的欲動を投ずることとなる。エロス的欲動が噴出すればする程、その欲動は反転して死の欲動のなかに回収される。エロス的欲動もまた、戦争を支える最も重要なファクターである。

■エロス的欲動と反戦の可能性

 女の欲動による天皇制国家の揺らぎ。確かにこの映画は、エロス的欲動を感知させることによって、戦争の映画のなかに一瞬、揺らぎを生じせしめた。このエロス的欲動は圧倒的に国家が仕掛けた死の欲動、戦争への熱狂のなかに回収されたことは確かだ。しかし、この軍母の母として、女としての揺らぎを表象する、名づけようのないこの特別なシーンは天皇制国家そのものの脱臼であり、そのなかに封じこめられてある女の歴史と、戦争に対抗する新たな運動の始まりでもあろう。
 この国の映画が一貫して避けて通ってきた、人間にとっての生の要件のなかで最も重要な要素の一つは〈性〉の問題であり、〈性愛〉の現実なのだ。そして天皇制国家が圧倒的に禁忌としたことが性の問題であるのだ。
 性愛こそが実は天皇制国家に真っ向から向き合う――天皇制国家においては、男と女の性愛はありえず、そこにあるのは「産む」ための性交だけなのだ――根底的な方法なのであることを再発見すべきだ。このことに眼を向けることによって、性の問題と性愛の可能性を意識的に取りもどすことによって、性愛の欲動はイデオロギーを超えて、人間の生の運動として「戦争」に抵抗する具体的な「反戦」の内実を持つだろう。このことこそが、これからの私たちの課題である。
 さて、一瞬の映画の揺らぎを生んだこの映画を国家=陸軍省はどう対処したのか。国民は好評の裡にこの映画を観、陸軍省もまた、その内部でどんな反応があったか、どうかは判らないが、問題なし、としたのである(国民映画として上映された)。典型的な官僚集団たる陸軍省にとっては、彼らが感知もしない女の欲動など「無い」ものであるのだから放置されるしかない。だからこそ、国家に無視される性愛の可能性に、私たちは改めて真っ当に眼を向ける必要がある。
 私は、性愛の「戦争」に抗する運動性の可能性について考えてきた。しかし、この小論を書きながら、ある歴史学者の『陸軍』に対する評価が大変気になった――その歴史学的視点について――ことがあるので、そのことを書き加えておく。それは『戦時下の日本映画――人々は国策映画を観たか』(古川隆久著、吉川弘文館)であり、ここでは『陸軍』が国策映画であったにもかかわらず不入りであったが、その要因は「地味でまじめなためと推測できる」とまったく一行で結論づけてある。ここには、この映画が内包する歴史的課題としての「家=家族と天皇制」「性=性愛」への問いなどについての問題意識はまったくない。ただ数量的事実によって「歴史」を思考しようとする、きわめて旧い思考様式が、今も横行していることだけが残されてあるが、こうした「事実」主義的実証史観では、民衆の心性を問う方法など生まれようもないことを記しておきたい。

■この章のおわりに

 戦争という国家・ファシズムの「文化」に対抗する個々の人間の生の方法としての「エロス的欲動」への関心は、この戦争の時代であるからこそ見直されてよい。戦争の文化に対抗するには、どんな形態においても生産力至上主義や父権的男根主義によっては不可能である。
 公認の歴史から忘却された人間的生の現実をひろい集めることで、歴史を逆なでする必要性。このことが問われている。女‐男との対関係を軸に、エロス的文化――抵抗の文化としての――を構築するしかない。
 この『陸軍』という映画、戦争の映画を見直すなかで、この戦争の文化(映画という近代の産んだ文化産業はその中核にある)と、そのなかでその文化に抵抗する文化を見つけ出すこと。人間の生の根源たるエロス的欲動の可能性。
 「国家のために死ぬことは美しい」という近代国民国家の至高の虚像の対極にある生き方こそが、エロス的欲動を生きることである。そのためにこそこの『陸軍』は、今日の眼で見直されてよい。
(プロデューサー)
(『陸軍』の項、了)
――つづく

 『陸軍』
スタッフ
 監督 木下惠介
 脚本 池田忠雄
 原作 火野葦平
 製作 安田健一郎
 撮影 武富善男

キャスト
 笠智衆
 田中絹代
 星野和正
 上原 謙
 東野英治郎
 三津田 健
 杉村春子







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