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評者◆粥川準二
処理水の海洋放出――日本人は「転換点」に達したのか?
No.3610 ・ 2023年10月14日




■東京電力が八月二四日、放射性トリチウムを含む処理水を海洋放出し始め、九月一一日にその第一回目を終了した。
 筆者は、東電が事前に説明した通りの方法で処理水を希釈してから放出し、そのうえでモニタリング(海水等の放射性物質の測定)すること、規定を超える濃度が検出されたときにはすぐ中止することを約束・実施すれば、健康や環境への影響はなかろう、と思っていた。
 しかし福島産の水産物の値段下落、いわゆる風評被害についてはよくわからなかった。一部の論者や関係者が「風評被害は起こらないだろう」と予測していたが、筆者自身は確信できなかった。
 結果として九月二八日現在、国内では風評被害らしき兆候は確認できない。その一方、中国が日本産の水産物を禁輸し、その結果、ホタテやナマコなど中国への輸出が多いものの価格が下落した。したがって風評被害がまったくない、というわけではなさそうである。が、国内では福島県の水産物はよく売れているようだ。
 筆者がより気にしていたのは健康や環境に対して悪影響が生じる可能性である。しかし、どうやらその可能性も現在のところ低そうである。
 東電は処理水を、トリチウムの濃度が世界保健機関(WHO)や国の基準より低い、一リットルあたり一五〇〇ベクレル(以下、Bq/L)未満になるよう、海水で薄めてから放出すると説明していた。実際の濃度は四三~六三Bq/Lであった。また日本原子力開発機構(JAEA)も放出する処理水を測定していて、その結果は三八~五八Bq/Lであった。
 放出は八月二四日の午後一時ごろ始まった。
 海水に含まれるトリチウムの「迅速測定」の結果は二五日から公表され始めた。東電が迅速測定した一〇地点すべてで、その値は検出限界値(一〇Bq/L)以下であった。同様の結果は、八月三一日に一度だけ一地点で一〇Bq/Lが検出されたことを除き、現在に至るまで続いている。また測定しているのは東電だけない。環境省、原子力規制委員会、福島県、そして国際原子力機関(IAEA)も海水中のトリチウムを測定しており、同様の結果を公表し続けている。
 地元紙『福島民報』は、IAEA以外の四者がそれぞれ何地点で、どれくらい頻度で海水を測定しているのかを一覧表で示した(無署名「検出限界下回る 東京電力がトリチウム濃度をモニタリング 処理水放出開始から一夜明けた25日」、同紙、八月二六日)。また福島県の地元紙や地元局は、たとえ同じような測定結果しか出なくても、毎日のようにそれらを報じ続けた。その姿勢は地味ながらも称賛に値する。そしてこれだけ多数の機関が測定結果を同時に改竄することは考えにくい(海水だけでなく魚も測定されているが、結果は同様である)。
 その過程で、「トリチウム以外の核種が十分に測定されていない(大意)」と指摘する発言がネット上で散見された。ALPS(多核種除去設備)処理とは、トリチウム以外の核種を除去することを目的とする手順である。トリチウム以外の核種が十分に除去されない場合には二次処理されることになっている。それらの濃度が基準値を下回ったものが「処理水」となる。
 実際には、東電は処理水の段階でトリチウム以外に二九種類の放射性核種を測定対象としており、さらに三九種類を自主的に測定している。彼らは自分たちだけでなく、委託機関(株式会社化研)にも測定させており、その結果を九月二一日に公開した(東京電力「ALPS処理水 測定・確認用タンク水の排水前分析結果」、九月二一日)。ただし東電は六月二六日に採取した処理水の測定結果を、九月二一日になってやっと公開した。これは二回目の放出分である。これでは「遅すぎる」という批判を免れないだろう。
 筆者は以上のような情報を、各報道機関の記事のほか、東京電力や各機関のウェブサイト、データサイト「処理水ポータル」や「包括的海域モニタリングシステム」などを巡回することによって得た。二つのデータサイトでは、情報が比較的読みやすく整理されているが、それでも読み取るにはコツが必要だった。そのほかのウェブサイトから必要な情報を読み解くことは多くの者にとって困難であろう。ただし教員や研究者、ジャーナリストなど情報のプロならば、最低でも筆者と同レベルのリサーチをしたうえでないと「情報が公開されていない」などということはできない。
 ところで『福島民友新聞』は八月二七日、IAEA事務局長ラファエル・マリアーノ・グロッシの発言をこう伝えている。「IAEAは原発構内に現地事務所を開設し、放出開始後も計画の安全性評価や処理水の継続監視を続ける方針だ。帰国直前、報道陣を前にグロッシが語りかけたのは理解や安心を得るには時間が必要だということだった。「丁寧な説明を重ねて、何も包み隠さず全ての質問に応じることだ。正しいことを説明し続ければ最終的に理解は得られる」」(無署名「【処理水の波紋】IAEAの約束に信頼感 最後まで監視継続」、同紙、八月二七日)
 社会心理学の研究では、間違った知識に固執する人に正しい知識を与えると、その人はかえってその間違った知識にさらに固執する、という現象が知られている(バックファイア効果)。ただしそのような人でも正しい知識を与えられ続けると、やがて「転換点(tipping point)」に達して、考えを変えることがあることも知られている(リー・マッキンタイア『ポストトゥルース』、人文書院、二〇二〇年、七四‐七五頁、など)。
 前述した通り、日本国内では処理水放出による風評被害は見られない。原発事故の直後、福島県産の食品を恐れていた日本国民がいたとしても、その大半はすでに「転換点」に達したのかもしれない。グロッシの発言はそれを示唆している。
(叡啓大学准教授・社会学・生命倫理)







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