書評/新聞記事 検索  図書新聞は、毎週土曜日書店発売、定期購読も承ります

【重要なお知らせ】お問い合わせフォーム故障中につき、直接メール(koudoku@toshoshimbun.com)かお電話にてバックナンバー・定期購読の御注文をお願い致します。

評者◆聞き手:ペドロ・エルバー/ジャスティン・ジェスティ/宮田徹也 他
第四回 針生一郎氏インタビュー(2006年10月)
No.3610 ・ 2023年10月14日




■日本は恐るべき定評社会

針生 大浦くんはその悔しさから、戦前戦中は右翼、戦後は左翼というような、しかし一貫性と必然性があるという立場から、原告の一人であった僕を主人公にしたドキュメンタリー映画を、「日本心中」というタイトルでつくった。その映画が好評だったもんだから、第二部までつくった。第二部の最後に僕と対談する相手が外国人でなきゃいけないと大浦くんが言い出したんで、ドイツ人だけどニューヨークに長く住んでいるハンス・ハーケを相談相手に僕は推したんですね。だけど大浦くんはアルバイトで食っていて、アメリカまでスタッフを抱えて、僕も一緒に往復するとなるとかなり金がかかる。それで、韓国でキム・ジハ(金芝河)を囲むシンポジウムがあるということを知って、そこで申し込んでキム・ジハと対談したんです。それはなかなか良かったですけどね。
 ところが試写を見たら、僕がキム・ジハと対談した後に、大浦くんはちょっと対談が多すぎて理屈ばっかりになっちゃうことを心配して、彼の得意なコラージュ、モンタージュの方法で、それと直接関係のない映像をいっぱい入れた。それでもちょっと理屈が多過ぎるということを言っていたので、日本赤軍の親玉の一人でパレスチナでずっと活動していて、日本に帰ってきて今まだ獄中にいる重信房子の娘で、英語の先生をしながら生活している重信メイがいますが、これはあんまり理屈を言わない。重信メイが第二部の試写を見て驚いたのは、僕の韓国訪問の後に、重信メイがキム・ジハの家を訪ねて、彼が、えー、あのパレスチナで戦って、日本で捕まっている重信房子さんの娘さんが僕に会いに来たの、これはなんか運命的だなぁ、とかなんとか言った。メイさんの方はほとんど喋らないんだけども、キム・ジハが多いに喋ってくれて、最後にメイさんが韓国でかな、海を見ているところで第二部が終わるんだ。だから第二部の試写会で「針生さんも見えていますから、一言感想を」なんて、上映が終わってから司会者が言うんで、これはキム・ジハと重信メイさんが主人公、主役みたいなもんだから、僕は刺身のツマだ、あんまり言うことない、でもまぁ面白かった、とは言ったんだけど。
 あの映画を見て、第一に、日本の敗戦が、日本全体にとっても、僕自身にとっても、未だに尾を引いている大きな転換点だと痛感した。それから第二に、大浦監督は針生一郎の伝記映画をつくるつもりは最初からない。だから雑多な現象とモンタージュする。例えば日本一の彫師だそうだけど、刺青の彫師が若い女の背中に刺青を彫っている光景、これが何度も出てくるんです。それから、ちょうど僕が韓国の光州ビエンナーレの芸術と人権という特別展示のコミッショナーで韓国へ行っているときに、そのスタッフが来て、韓国のある料理屋の座敷で、韓国の女性がサムルノリという伝統的な踊りを踊る場面とか、大野一雄が、彼は九十何歳ですから、座っているとも立ち上がるとも踊っているとも、なんとも言えないような仕草をする場面とか、二〇代と一〇代の男女の二組が、江戸川乱歩の小説の一節らしいのを、朗誦するように対話形式で喋っている、そういういろんなものがあって映像としてなかなか見せるんですよ。ただ僕自身としては、明治時代に「ギョエテとは 俺のことかと ゲーテ言い」っていう、そういう俳句がありまして、最初日本では原語の発音に忠実にギョエテっていっていたわけね。それに似た感じがあって、これはやっぱり大浦くんの創作映像だから、僕自身はちょっと違うなぁと思った。しかしそれは、あんまり喋っても書いてもいないから、もっと悪いことを色々やっているんだけども、あるいはその変化も直線的でなくてジグザグしているんだけども、それは自分で書かなきゃダメだなぁと思ってはいますけどね。
ペドロ 針生さんは、敗戦直後から美術に関する興味が強く現れますが、それは政治とどういう関係がありますか?
針生 大学受験が一九四五年の三月だった。四五年の三月といえば全国主要都市がもう連日のように米軍に爆撃され、入試なんかやっていられない。会場まで行く汽車も危険だから、旧帝大、帝国大学と称するものは入学試験を全廃した。それで内申書で住まいに近いところに配分するという。僕は仙台だったから、東北大学に自動的に行ったわけですね。東北大学の講義も一ヶ月だけで、あとは農村に勤労動員。農家に分宿するんですけども、その農家の主人のおじいさんが「百姓は腹一杯食わなきゃ戦なんかできないんだ」と言うから、おかずはないんだけども、米の飯、味噌汁と漬物ぐらい、たらふく食べていたんで、飢えっていうものを知らない。しかも澄んだ大気のもとの田んぼで労働するわけだから、非常に体に良くて、しつこく治らなかった結核がそこですっかり治っちゃった。
 大学の講義は九月の初めに始まったんだけど、復員の服装をした、軍人服を着た学生が教室に溢れている中でね、ある老教授が「こんな無謀な戦争が負けることは最初から分かっていた」って講義している。わかっているんなら、なんで戦争中にそう言ってくれなかったのか。それでもう出る気がしなくなっちゃった。勤労動員はもう解除されたけども、その前にいた農家に行って、ずっとその年の末まで稲刈り、脱穀なんて農作業を手伝って過ごしていた。そこへ復員した先輩や同級生が訪ねてきて、いや軍隊に行って、軍隊の酷さで目が覚めたよと。やっぱり君もこんなところでくすぶってないで、早く大学に戻って勉強し直せよ、というようなことを言った。その真相はこうだっていうね、戦争中、あるいは昭和史の内幕を書いたシリーズが当時ベストセラーだったんだけども、それを何冊か置いていったわけです。それを読んで、なるほど、これは自分が許せないなと思った。
 東北大学を出たときに、東北大の教授に対しても、自分の両親に対しても、東大の大学院に行くというのが、家を離れて東京へ出る一番いい口実になると思って、そうした
わけ。私費で金を払って大学院に行ってたんですけども、翌年なぜか東大の学部卒業生をさておいて僕が、旧制にだけあった制度なんだけども、旧制大学院特別研究生というものに選ばれて、当時の公務員ベースで金をくれる、いや、僕の前までは金をくれたんだけども、僕のときから育英会の貸与、貸すっていうことになった。それで五年間研究室に常勤して、五年満期で、その間に僕はマルクス主義芸術論の翻訳などを出したもんだから、これは大学教授にすぐなると育英会に返さなくてもいいんですけど。いやすぐじゃない、一〇年以内。しかし専任の大学教員の口がかかってこなかった。マルクス主義のせいでしょうね。それで今でいうフリーライターでいくほかないなと思った。
 その間に、「美学会」という学会誌を創刊することになって、その編集が教授の意向で僕に任された。それを美術出版社が出す。美術出版社にそれの打ち合わせで行きましたら、岡本太郎や花田清輝や、戦後派作家たち、埴谷雄高とか野間宏とかがやっていた「夜の会」の事務局の女性が美術出版社にいて、「美術批評をやらないか」って僕に勧めたわけね。それで一九五二年ぐらいから少しずつ美術批評を書いていた。僕はマルクス主義者として左翼の雑誌などに文芸評論を主として書いていた。これ、ほとんど原稿料にならない、左翼のは。そうすると美術批評というのが、まあ原稿料は安いけどもまだ計算できるなと思って、それで美術に比重を移した。もう一つは、日本人の感覚、感性から日本人を変えていくには、文学は、「言葉」は誤魔化しがきくんだが、やっぱり美術は「もの」だからね。物質、作品自体が。この美術の方が直接かも知らんなぁと思うようになったということですね。
ペドロ それは本当に面白い。でも結局、今から見るとどういうふうに思われますか。本当にそうですか。
針生 美術作品は一点売れればかなりの金になる。文学の原稿なんかよりもずっとまとまった金が入る。美術家というのは、自分の作品が全然売れないときには僕らの文章を一生懸命に読むけども、売れ出すと「ふん」ってなもんで全然読まない。作家の意識が経済に振り回されているというか、そこがひどく虚しい。もう半世紀以上、美術評論をやってきて、作家の意識が全然変わらない、経済に振り回されているという点では。これはだめだなぁと思う。本当に嫌になることが多いです。
ペドロ それはありますね。批評家をお医者さんみたいに、病気になると聞きに行きますけど、(経済的に)元気である限りはどうでもいいとか。
針生 作家はそういうもんだから、しょうがないなと、かなり早くから思っていたから、受け手、観客に対してスタンダードを示そうという意識の方が強いんですよ。ところが日本の観客は、例えば美術館がいっぱいできたことによって向上したかというと、全然向上しない。つまり日本は恐るべき定評社会になっちゃって、マスコミでつくられた定評をそのまんま鵜呑みにして、それを確かめるために展覧会を見に行くというようになっている。自分が発見したり、惚れ込んだり、だから作品を買うとか、そういうこ
とが全然ない。全然とは言わないけど、ほとんどない。これはやっぱり非常に虚しいですね。日本の観客ってのはダメだっていうか。国民というか、こういう人々は美術を愛好したり持ったりする資格がないっていうふうに言いたいところだ。
 弱いというか、何て言うんだろうね。やっぱりローカルな壁みたいなものがあるんだなぁ。なぜだろう、分かんないんだけどね。
ペドロ 制度の問題?
針生 そうそう、制度の問題ですよね。例えば国際展、ベネチア・ビエンナーレとかドクメンタとか、サンパウロビエンナーレとかね。僕のようなものが考える世界像も十分満たしていない。何故かと言うと、アジアについてはほとんど取り上げないから。ラテンアメリカも非常に少ない。アフリカも、最近取り上げるようになったけども、大変少ない。そういう点で世界像がまだ完結していない。それから、国際展で賞をもらうかどうかは、大きく言えば大国中心なんだ。大国は非常に難しいんだ。それぞれの国のマスメディアが国際的にもその作家の魅力を知らせるほど発達しているかどうかとか、画商が国際市場に対して自国の作家を押し出しているかどうかとかが全部絡まっている。だから国の軍事力とか経済力とかはあんまり直接関係はない。でも大国中心であることは間違いない。
ペドロ 文学と比べれば芸術はまだ西洋中心ですかね。
針生 昔よりは良くなっているかな。

■西洋人のエキゾチシズムで見る日本というイメージと戦う

針生 一九六〇年代までと言ってもいいし、六〇年代以前は特にそう、西洋人のエキゾチシズムで見る日本というイメージと、僕は一番戦ってきたような気がするな。
宮田 西洋人のイメージ通りのことを話したり、実現したりすると日本では受けるんだよ。仕事が来る。金になる。そうじゃないことをすると嫌われる。それはなんでなんだろうか、やっぱり金にならないからなんですかね。
ペドロ 期待に従わなくて、がっかりしちゃう。もっとエキゾチックなことを期待していたのに、そうではなかった、別の国を探せ、と。それが本当に問題ですよ。だからブラジルで展覧会を考えていたときも、僕はそういうエキゾチシズムに反対するために、むしろブラジルの六〇年代の美術との相似点から紹介してみようと思った。
 いま針生さんがおっしゃった傾向と「戦った」のは、具体的にどういう点で一番問題になっていたんですか。
針生 例えばね、イサム・ノグチが初めて戦後日本に帰ったのが一九五一年ぐらいかな。それで美術家連盟で話をした。もう西洋美術は行き詰まっていて、みんな東洋の伝統芸術の中に脱出路を探していると。僕は直接その場にいたわけじゃなくて、雑誌で読んだんだけども。戦前にモダニストで戦争中に戦争画を描き、戦後またモダニズムになった作家たち、猪熊弦一郎、岡田謙三、長谷川三郎とかね、そういう作家たちがそのイサム・ノグチの言葉に力を得て、みんなアメリカに行ったわけですよ。中でも長谷川三郎などは、自分で描くよりも書を、カリグラフィーをアメリカで教えたりして、だから作品としてはあまり発展しなかった。岡田謙三は幽玄主義(ユーゲニズム)で有名かもしれんけども、日本のモダニズムの時代とあんまり変わらんなというのが僕の考えで。猪熊だけが晩年日本に帰ってきて、そういうモダニズムを脱却したのか、プリミティブな方に行ったんで、わずかな期間だけども、それは救われているかなと思うんですが。
 僕はイサム・ノグチと顔見知りではあるし、何べんも会っているんだけども、あのとき西洋人のエキゾチシズムをあんなかたちで振りまいて、多くの日本のモダニストたちの道を誤らせた張本人というふうに思っていたもんだから、どうもね、「やぁ、しばらく」とか言って挨拶するぐらいで、それ以上個人的に突っ込んで話をすることを何となくしなかったんですね。むしろ亡くなってから、非常に気さくな人で、彼自身の東洋なり日本への関心というものも決して単なるエキゾチシズムじゃない、ブランクーシ、それから中国の白描とか、そういう絵画の系統を経て、日本の伝統を見直すところへ来ているので、もっと話をすればよかったと思った。亡くなってから思っても手遅れですけども。ただ、四国の牟礼というところにある彼の美術館(イサム・ノグチ庭園美術館)の作品とかを見てもね、まだ謎が解けていないんだけど、単体としての彫刻のまとまりを否定して、全体がひとつの庭園みたいなことになればいいって、だからどのオブジェ、どの彫刻も内包にまとまるよりもどこか外に向かって開かれているっていうか、だけどなんかそれが中途半端な感じがしてね。本当に彼の考えとその作品がわかった、腑に落ちたというところまでまだ行かないんですよ。それが非常に残念なんですがね。だからエキゾチシズムの問題は、イサム・ノグチよりも、それに引っかかって、あるいはそれに乗じてアメリカへ行った日本のモダニストたちの問題が大きいと思うようにはなりましたけども。イサム・ノグチの正体というか、本体がまだつかめない、僕には。決して無視できない、かなり大きな存在だと僕は思っている。
ペドロ 思想のレベルでも、そういうのが大きかった。ニューヨークに鈴木大拙が行ったり。
針生 はいはい、ジョン・ケージも最初に会ったときにもう鈴木大拙の影響を受けて、生活自体が鈴木大拙のとなえる禅みたいなものに近づこうとしていましたけどね。
ペドロ 芸術界とかの中で、日本のイメージが大きかったんですよね。フルクサスに参加していた日本の美術家たちが、日本の美術のイメージを売ったというか、広げたというか。
針生 フルクサスは非常に良かったんじゃないかな、あそこに参加した人たちは。
ペドロ そうですよね。
宮田 話は五〇年代に戻るけど、当時の御三家と呼ばれる人たちの文章をよく読み込むと、やっぱり針生さんだけが戦争に対しては態度をかなり明確にしていくんですよね。中原さんはよくわかんない。だから三人並べること自体がもうすでに間違っているのではないか。三人と、その後の宮川淳。先日、建畠晢さんに会ったときも、未だに宮川の『アンフォルメル以後』を読み返してしびれるっていう話を聞いてがっくりしたけど。
 日本の可能性を探るというところでも、針生さんはルポルタージュについて結構お書きになっていますよね。ジャスティンはそのルポルタージュについて調べている。
――つづく







リンクサイト
サイト限定連載

図書新聞出版
  最新刊
『新宿センチメンタル・ジャーニー』
『山・自然探究――紀行・エッセイ・評論集』
『【新版】クリストとジャンヌ=クロード ライフ=ワークス=プロジェクト』
書店別 週間ベストセラーズ
■東京■東京堂書店様調べ
1位 マチズモを削り取れ
(武田砂鉄)
2位 喫茶店で松本隆さんから聞いたこと
(山下賢二)
3位 古くて素敵なクラシック・レコードたち
(村上春樹)
■新潟■萬松堂様調べ
1位 老いる意味
(森村誠一)
2位 老いの福袋
(樋口恵子)
3位 もうだまされない
新型コロナの大誤解
(西村秀一)

取扱い書店企業概要プライバシーポリシー利用規約