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評者◆小野沢稔彦
木下惠介の『陸軍』と『この天の虹』――昭和史を貫流する「家」という制度
No.3609 ・ 2023年10月07日




■「家」という制度 1

 さて、この『陸軍』の物語を支える現実的構造(もう一つの物語)は、天皇制国家と直線的に結びついている国家の共同構成体たる、制度化された「家・家族」なのである。家を構成する基本的構造は、まず父権者たる「父」がおり、その統制の下に父権者に従属しながらも独自な権力者である「母」が存在する。「子」はその両親の絶対の視線の監視のもとに、その存在性のすべてが統べられてある。つまり父母の眼差しの下に子はあり続ける。
 この国の近代的社会、すなわち明治の天皇帝国時代の開始とともに制度化され、この社会の進行とともに確固としたものとなった「家族」という制度性は、なによりも近代天皇制国家構造を支える現実的国家構造の中核を成す制度である。
 そして、この制度性は紛れもなく日本という国家そのものの擬態的制度としてあるだろう。この制度性は天皇を絶対の「国父」として、その従属的協同者たる皇后という「国母」の下に、その両者の管理・公認によって子に擬せられる「臣民」である国民がいる。この絶対的ヒエラルキー体系によって、天皇という神聖にして絶対の統率者の下に、作為される天皇制国家の制度性であるその擬似的矮小型たる「家族」という関係性。臣民はただ天皇に奉じ、そこに命を捧げる兵士を作り出し、その子を天皇の軍隊に差し出すことこそが家・家族の存在理由となるのだ。
 だから、この制度としての「家」の下では、妻と夫との間に二人だけの独自な「対関係」性などは存在せず、親と子との関係性においても「家」という国家から独立したかのような関係性のなかに私的にあるのではなく、子はあくまで天皇制国家からの預かり者(映画のなかで笠智衆は何度も言う)であるだけなのである。そして親は天皇に代わって、その子の管理・監視者なのである。天皇制国家の下にある「家」のあり様は、「兵士」(天皇の赤子)の生産という極限的に限定された関係性があるだけであり、女と男との「性愛」など絶対にあってはならないのだ――この国民映画が一貫して表象するのも、その国民の義務なのだ。
 そして、ここには父性と母性との関係性において、明確にして確固たる役割分担があるのだ。父権は家全体の絶対的統率者であり「天皇制帝国への忠誠」を領導し、家族全体の国民的方向決定権を担う。
 母権は父権に従属しつつも、子の「教育」や「健康」に関わる日常生活の実際上の指導権を持つ。すなわち、天皇の兵士への育成過程の全責任を負う。つまり母権の役割こそが国家と直結し、その任務は重いのだ。女は兵士になることが出来ぬ故に、女という男の従属的存在性を強いられる。だから女は、この従属的立場を超えて直接的に「国家」の中核たろうと意志することになり、より積極的に天皇国家を支える道を邁進するだろう。
 この『陸軍』においても田中絹代の母は、圧倒的に意欲的に我が子を天皇の兵士にするため、子の訓育に当たる。母こそが国母のあり様を体現して子の前に、絶対的抑圧力としてある。この時代、すべての女たちが自ら主体的意志をもって天皇制国家の女という人間であることのためにあらゆる場所で全力を上げる。黒澤明の国策映画『一番美しく』がそうであるように、女たちは身を粉にして働くことで国家に報いようとするのだ。
 『陸軍』における父親と母親の像は、しかし、そのあり様において――父親が家全体に絶対的抑圧性を持っていることは勿論なのだが――この時代のドラマに多く見られるような単純にステレオタイプ化したそれではない。むしろ露出する男たちの日常の行動様式においては、男はほとんど生活実態とかけ離れた上滑りする行動しか行いえず、家中の生活の実際的現実とはズレまくっており、いささかコミックな権威者像として描か
れる(木下の演出力)。おそらく戦後のホームドラマに接続し、TVなどで隆盛をきわめるこの家構造の演出によって、この映画は――その陸軍省的国民映画に倦んでいる――共感の笑いを伴って、観客に大衆性を持つのだ。
 その父親像に対し、田中絹代の母親像は、父親の現実行動を受け入れ抱えこんで、より意志的に国家が求める母親像を演じる。母は天皇制国家の聖性・絶対的不可侵性を徹底的に我が身とすると同時に、子の心身にその精神を植えつける厳格な教育者として決定的な役割を果たす――この時代こそ、母親が独自の、確固とした位置を社会に占めている。
 例えば天皇制が物神化された象徴たる「国定教科書」をめぐる母子の行動シーン――母親は子の教科書の取り扱いのぞんざいさを怒り、その教科書そのものが天皇制の権化であることを分からせるため、教科書の厳格な扱いを躾けるとともにそのことを諄々と説き明かすや――軟弱な我が子を鍛える夏の「水練」という訓育シーン――、他の子どもたちが行っている川へ飛びこむことを恐れる子への飛びこみ強制や体力的に劣る子へのスパルタ的運動教練――などには、国母にかわる「母」権力の権力性がむき出しにされる(なお、この映画では「学校」という規律制度は描かれていない)。
 おそらくこの制度的な母のあり様こそが、日本映画が主流的に表象し続ける「母」もの映画の伝統的内実なのだが、そこで生起する女の物語こそが「日本的メロドラマ」の中心としてあるだろう。その集約的現れこそ松竹大船調と言われる物語であり、今日のTVドラマにまで、このスタイルは延々と持続される。ここでの父(笠智衆)と母(田中絹代)の夫婦像こそ、日本の父母像の原像としてあり、日本映画の表象する父母の原イメージである。そして日本映画は、この笠と田中の父母のイメージを再演し続ける。
 ここでもう一度確認しておくことは、天皇制国家とその裡に拘束された父母と子の問題のことである。天皇制国家に拘束される家という制度は、結局のところ、天皇の戦争責任が敗戦によっても問われることなく――このとき、問題なのが「日本人」が戦後、自らでそのことを問わなかったことこそが問題となることなのだ――免罪に付されることによって「家」という天皇制体制は戦後に延命し、そのことによって戦後の日本人を規制し続けている。特に、父権と母権との絶対性はまったく問われないままに持続し――特にその心的構造において――、今日にあって私たちの現在を規定し続けている。

「家」という制度 2

 もう少し、この家という問題を見ていこう。この映画に登場する「家」は、小さいとはいえ、都会のなかで古くから続く自営商家(近代資本主義的というより近世から連綿と続く地域と密着した地域内小商業者)階層の家であり、その自営商家を中心的に切り盛りするのは「女」の労働力によってである――一家の中心にいるのは母なのだ。この商家に独特な、ある面自律した母の生き方こそが家を守り、家を成立させている。そしてこの女のあり様こそが、軍国日本の背骨を負うことになる。
 ここでの物語は、女が家のなかにある確固とした地位を占めている、そうした階層の人間の物語であり――都市の物語である――、膨大な下層農民や下層労働者、都市浮遊民の物語ではないことは注目しておいてよい。そして日本の家のドラマは、多くこうした階層の人間と家の物語なのである。天皇制国民国家が「軍隊」の中核――その構成において、なによりもその心性において――として想定していたのが、この映画のような中間層としての小独立都市住民なのだ。そしてなにより、小商家の切り盛りを行うある才覚あふれる母たちの心性であることは憶えておくべきことだ。そして、戦前・戦後のある時期までの日本の優れた映画監督の多くが、そうした小商家に育ち、そうした母の訓育を受けて成長した者たちなのだ。
 都市の小商業者の家に生を受けた多くの日本の監督たちは、その幼少期に、その階層に独自な「文化的恩恵」を受け――流行の文化・風俗・特に大衆芸能に馴染んだ――、同時に一家を切り盛りする母への――同時に、男性と父性へのある限界と空虚さをも嗅ぎとっている――憧れを抱き続け、長じて監督となったときその記憶が日本の女性映画の根っこの部分に流れることとなるのではないのか。
 つまり日本の伝統的メロドラマ=家をめぐる物語を作り上げた日本映画の巨人たちは、木下だけでなく、小津安二郎も成瀬巳喜男も島津保次郎もこうした中間商業階層(大学出ではないが、高い高等教育を受けた者であり、木下もそうである)の出身者であり、そうした「家」の環境のなかで自身を形成した者であることは憶えておいてよい。彼らの映画に流れる「母」への眼差しの温かさには、彼らの出身環境が確実に影響を落としていると思えるし、同時に独立商家に流れ続ける「地道に働くこと」という道徳律への偏愛にも繋がる。そのことを身体化した映画人。伝統の商家を律する労働観こそ――のちに中間サラリーマン層にまで繋がる――日本の中流階級の精神性なのである。この『陸軍』における母の像は、そうした意味でも、その存在それ自体において天皇制国家が求めた女のイメージであるだろう。

 ここでは母は(この映画においてこそ)男に代わって自覚的に自家内労働を中心的に行い、家のすべてを差配し、仕切り、実体的に一家を支え、子に徹底的に身体規律を含む天皇制教育を行う。実に母親の制度的役割を圧倒的に果たし、そのことによって「母」を超えて主体的に天皇国家の国母に同化しようとする母の国民的運動性が、この『陸軍』の中心的表現として見事に表象されるのだ。この映画の母は、まさに「国民映画の母」を演じるのである。
 ここには、明らかに女性参政権すらも与えられることのない女たちの天皇制国家への同一化願望が女たちのエネルギーとして表出してあり、そのことは同時に、我が子への過重な抑圧的干渉として顕現してもいよう。しかし同時に、ここには「母なる女」への木下の情愛が滲み出ている。
(プロデューサー)
――つづく







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