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評者◆凪一木
その207 この連載は芸術なのか。
No.3608 ・ 2023年09月23日




■同じユニオンのG氏は、五年前に組合員として出会ったときから、同じ希望を繰り返し述べている。「本当は物書き志望であり、文章が得意な自分にピッタリと合った職業は今のビル管ではない。物を書く仕事なのだ」。だが、五年経っても希望は叶わず、不満を当たり散らす日々だ。私が本を出しているということはこれまで隠していた。それゆえ私の文章に対して、何度もダメ出しをしてきた。プロと言ってはあちこちから文句の来る私の文章は、その点、実力通りの評価とも言えるが、G氏の煩悶は、ボディーブローのように私に向かって跳ね返ってくる。字を書くのは仕事なのか、プロなのか、商売なのか、生理なのか。
 ところで、現実として、物を書くことで糊口を凌ぐことが出来なくなった私は、第二の職業、セカンドキャリアとしてビル管理業に就く。これが果たして職業と言えるのかさえ疑問がある。生きる目的としての道具たり得るのかについても自信がない。
 器用貧乏とか虻蜂取らず、二兎追う者は一兎も得ずなど、専門がなく、あれもこれも手を出すと、人生は薄く生きることになると言われる。しかし、物書きをつづけ、会社にも出勤し続ける。組合活動にも顔を出す。映画も観てドラマも見る。ニュースは見ても分からない。ドキュメントは見る。あれもこれも見て、人生が成り立つのか。多くの人は、いったいどう折り合いをつけているのか。歌舞伎や落語、宝塚、将棋、F1、盆栽、何でも詳しい人間もいる。チェーホフに詳しい人間に、怒鳴られたこともある。
 ものを書く人間がこれを言ってはお仕舞いかもしれぬが、そして新聞紙上で書くのも憚られるが、紙の印刷媒体がこの世から消えたとして、いったい何が困るのだろうか。裁判も簡素化する。メモ書きも紛失せず、手持ちのスマホのデータとして残る。操作ミスで消えることもあるが、サーバーには残っている。電気が通じている限り、電子書籍、電子メール、電子添付、電子文学、電子シナリオ、いずれも読むことが出来る。手応えや味気はないかも知れない。ブックデザインの装丁の腕の見せ所がなくなるかもしれない。電気の消滅と共に消える。それは文字に限らない。
 お前の意見は文化の破壊行為だ、と言われるだろう。しかし、膨大な紙の無駄を考えると、裁判記録も含めて、電子化したなら、必然に淘汰されるものが現れてくる。国会図書館に毎日毎日公刊される全書籍を所蔵する。明らかに下らないと思われる書物も差別は出来ない。悪書もまた書なり。良書もまた悪書たりうる。果たして映像はどうか。
 初期のテレビ番組は、テープが勿体ないからと、映像記録を残さずに上からダビングして消していた。映画もまた、もう観られないものは多い。Vシネマ然り。
 ビデオ屋をやっている頃に、年間で一度もレンタルされていない作品が、どのくらいあるか調べた。二万本のうち五〇〇〇本が一度もレンタルされていない。意外にも、アダルトやアニメは、どんなに無名であれ、流行遅れであれ、ほとんどどれかこれか、なぜか借りられている。趣味物や海外の廃れたドラマは放置状態なのだが、日本のある種の映画はまるで動かないことが判明し、それほどに肩入れしているつもりもなかったがショックだった。地域性もあるが、概ね他の店に聞いても傾向は変わらない。
 作っているときは一生懸命だ。それは文章だって、映画だって、彫刻だって同じだろう。
 ちょっとした街に行くと、たとえば小樽みたいな人口一五万人を切っている町でも、有志の絵の展覧会が、駅周辺で開催されている。日本全国少々のハイカラな町なら見られる光景だ。こちらはゴッホの偽物を見せられても、上手いのかさえ判断できぬ絵知らずだが、それでも、あるレベルなら、誤解であれ感じる観察力はある。皆上手い。画家と彼らといったいどう違うのだ。美大を卒業しても、その手を、筆を、持て余して生きている者がほとんどであろう。日曜画家の彼らの一人ひとりもまた、お金があれば画廊を構えたかもしれない。運の良い人の幾人かが、有名画家となって、その夢は達せられている。だけど、画廊だらけ、博物館だらけ、記念館だらけ。国会図書館の書籍も、無数の無駄のうちの各町の展覧会の集成だ。この放題な、足掻きとも破れかぶれとも取れる所業を、手厚く葬りたい気持ちに駆られる私の暗い夢想は、金閣寺に火を放つ林承賢のようなものか。
 「芸術」と呼ぶものの誕生は偶発であり、それが支持され受け入れられ、評論家の理論や解説によって、カッコつきの「芸術」が独り歩きする。小便器にサインを付して「泉」という名で美術展に展示しようとしたデュシャンの行為は、芸術ではないとされ、一方「あらゆる人間の活動は芸術」というヨーゼフ・ボイスの言がまかり通れば、有り難がる理由がなくなる。
 今や、コスト的にもテクニック的にも、ブログが書け、ミニコミ誌も簡単だ。映画撮影も選ばれた者の特権ではなくなった。誰でも作れるということは、誰も見ないものが量産されているということでもある。今までは客がカネを払っていたけれど、これからは作り手が貴重な客に支払うのか。職業欄に「客」と書く時代が来た。
 評論家は、何らかの専門家であり、技術的に優れているものを分かる人間であり、その者により優劣が付けられる。にもかかわらず美術の成績最低の人が画家になり、音楽判定最下位の者が歌手になる。順位や賞罰による優劣は便宜でしかない。判定者=評論家は、神ではない。われわれは、作品を「上から」判定することが出来ず、応答すること、つまり「対話」することしかできない。
 豊田真由子も出ている進学校の女子高生を、知り合いが個人指導している。
 女子高生は、インターネットの害悪について、こう言っているという。
 「全く意義がないことをしているのに、『私はすごいことをしている』と思い込まされるところにある」
 ある人物は、スマホを止めた。理由は、ストリップ劇場で女性の裸、特に陰部を熱心に観ている観客の姿と、電車の中でスマホを見ている乗客の情報を知りたいという欲望の表情とが同じだからだという。つまりは「全く意義がないことをしているのに、『私はすごいことをしている』と思い込んでいる」わけだ。デュシャンの「泉」だらけ、「客」だらけ。
 私が本を出していることを、G氏に明かした。こう言われた。
 「師匠と呼ばせてください」
 それだけは嫌だ。あれこれ見るには、人生はあまりにも短い。いつ死んでも、同じような気持ちだろう。この連載もスマホの画面であり、陰部である。
 もはや芸術というなら、専門よりももっと個人的で極小の世界に埋没するしかない。そのトンネルの先に宇宙はない。地殻の先のコアである。色を重ねて黒になるように、そこはただ黒く、領域とも言えないただの一点だ。
(建築物管理)







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