書評/新聞記事 検索  図書新聞は、毎週土曜日書店発売、定期購読も承ります

【重要なお知らせ】お問い合わせフォーム故障中につき、直接メール(koudoku@toshoshimbun.com)かお電話にてバックナンバー・定期購読の御注文をお願い致します。

評者◆聞き手:ペドロ・エルバー/ジャスティン・ジェスティ/宮田徹也 他
第二回 針生一郎氏インタビュー(2006年10月)
No.3608 ・ 2023年09月23日




■政治の前衛と芸術の前衛とは対立するほうがいい

針生 それで「反芸術 是か非か」なんていうシンポジウムが一九六四年にブリヂストン美術館であったら大勢集まった。僕だけが疑問符を投げています。六〇年代の末に、宮川淳が、六〇年代の反芸術は、反芸術と言いながら制度としての美術を少しも変えなかった。変えないばかりか、反芸術という芸術をはみ出すことの不可能性、あるいは何でも芸術になってしまうことを逆説的に証明したと。これは非常に見事な反芸術の総括だと私は思って、その制度を論じなきゃと考えていたわけなんだけども、それから一年後ぐらいに宮川くんのその制度論に期待していたんだが、一向に書かないじゃないかって言ったら、いや制度論はもう大体目処がついたと、彼はそういうふうに答えるわけね。それでもう一回読み直してみると、彼の言う制度というのは作り手があって受け手があって、その中間に作品があるというこの三者の関係が制度なんだ。だから僕らが考えるような美術を取り巻く社会機構の制度の側面ということではないんだな。そこに失望した。それでルドンかなんかを手がかりにして、制度としての美術を超えるにはどうするかっていうと、イマージュの現前性というか、それを回復する以外ないって言うんだから、もう、これは全く僕の考える制度とは違う。
宮田 美術史はもうディスクールでしかありえないってことを言い出しますよね。
針生 宮川くんはとにかくディスクールだから展覧会評なんて書いたことがない。ディスクールとして成立させるという、それはまた文章力というか、一瞬の美文で、その宮川くんの影響は意外なところにまで広がっている。
ペドロ 一九七〇年から中原佑介さんが「人間と物質」という展覧会をやりました。むしろディスクールとして見ると、物質が見えなくなっちゃうんじゃないか。物質という概念についてどう思いますか?
針生 あの「人間と物質」展は非常に見事だった。国際展の成功の秘訣は運と方向、それから出品作家、招待作家を絞ることです。そういう意味ではディスクールじゃなくて人間と物質の直接の出会いということは、タピエの考えを受け継いでいる面もあると思う。それから、後のリ・ウーファンの考えにも通じるところがあります。しかしリ・ウーファンは東洋の伝統を強調する。アートはどこまで行ったって人工――アートの本来の意味は人工ということだから。だけどリ・ウーファンの主張によると、人間と物質が出会いさえすればいい、それをそのまま作品にすればいいんだということだから、生け花とか日本の庭園とかが一番いいことになる。その両面を見ながら、間隙を縫うようにしてディスクールを否定したものと人間の出会いを非常にシャープに集めた中原の展覧会は私も感心したし、大賛成でしたね。
 中原という人は、あるときに冗談半分で彼にも言ったことがあるけど、反芸術とはちょっと違うんだけど、芸術の概念というものと具体的な作品との距離ばかりを論じている。いったい彼自身はその作品の傾向に本当にコミットするのかしないのかよくわからない、どうもそういうところがあるよという話をした。でもね、峯村くんも東野くんもそうなんだが、多摩美に残った連中は、多摩美の自分の弟子たちばかり褒めるとか、相撲のなになに部屋みたいなものを抱え込んじゃうんです。僕はそれが嫌いだった。その点では中原に一番共感がありました。岡本太郎がタピエに批判され、それから二科会の中で外部からリクルートした有力作家を集めて「太郎室」みたいなものをつくって、東郷青児独裁の二科を少しでも変えようとしたんだけども、その中の何人かが二科会の会員になったぐらいで、さっぱり変わらないわけだ。それで芸術運動は実に虚しいなんて六〇年代のはじめに言い出した。その頃僕は、やっぱり芸術運動でなければならん、それでしかしアヴァンギャルドまで行かないで、そこからはみ出したり、ちょっと停滞しているような作家たち、どういう心境でどういう方法論でやってんだってんで、作家たちに交代で一人ずつ、自分の作品のスライドを見せながら説明してもらう会をね、六〇年代前半に「針の会」と称して、主催してやっていたんですよ。だけど六〇年代後半になって、中原も相撲部屋みたいなのをつくれないから、中原も一緒にやろうと言って、彼も「やってもいいよ」ってんで、「針の会」から「花の会」に、針生中原だから花の会という風に改称して、六〇年代いっぱいぐらいやったことがあります。
榎園 針生さんの考えていらっしゃる「芸術運動」についてちょっとお話しをいただければと思います。アヴァンギャルドとか前衛という言葉って結構いろんなところで使われているけど、まだ結構曖昧なところがあるというか、人によって意味が微妙に違うと思うんですけど……。
針生 戦争中、戦争一色で、戦争につながる絵でないと絵の具やキャンパスの配給も受けられないという時代に、まったく戦争画と関係ない、自画像とか風景ばっかりを描いて、「北荘画廊」というところで「新人画会」という展覧会をやった人たちがいました。井上長三郎、鶴岡政男、麻生三郎、糸園和三郎などなど。この新人画会のグループは、戦前は当然、「美術文化協会」にいた。一九四一年、その親玉の福沢一郎が瀧口修造とともに捕らえられた。シュルレアリスムってのは共産主義の別働隊じゃないか、なんて警察がバカなことを疑って、その二人を逮捕したわけですね。それで七ヶ月ほど拘禁されて、瀧口さんはむしろ元気になって太って帰ってきたんですが、福沢氏はすっかり参って、翌年の美術文化協会に戦争画を出すわけです。だから美術文化協会全体がダリみたいなトロンプ・ルイユそっくりっていうか、伝統的な事物をあまりにも真に迫るように描いているんだけど、幻覚が、幻覚幻想みたいなものが潜んでいるんじゃないかと疑わせるような、そういうところでかろうじてシュルレアリスムを守っているというような絵になった。
 新人画会の連中は一番早く前衛美術会に分かれたんですけど、福沢さんが戦争に協力したということで阿部展也によって追い出されて、そして今度は阿部展也がお前こそ報道班員だったじゃないかというようなことで追い出されて、つまり内紛が絶えないわけね。だからアヴァンギャルドという意識は新人画会に一番ある、体に非常に叩き込まれてあるというふうに僕は見ているわけです。ところが僕が美術批評を始めたときに岡本太郎の家に呼び出されて行ったら、岡本太郎は「夜の会」の頃から僕は知っていますからね、「君が美術批評を始めてくれたのは大変嬉しいけども、しかしなんで井上長三郎とか鶴岡政男とか麻生三郎とか、ああいう自然主義を抜けていない作家をほめるんだ」と彼が言うんです。岡本太郎がいいと思えば、岡本太郎一辺倒でなきゃダメなんだよ、って彼は言う。でも僕にはどうしてもそうは思えない。
ペドロ それは何年ぐらいのことですか?
針生 僕が書き始めたのは五二年か五三年だから、五四年かな。岡本太郎はね、結局ナルシズム、スズメ百まで歌を忘れずなんだけども、ナルシズムを忘れずという題で岡本太郎論を書いたことがあります。
ペドロ 芸術の前衛と政治の前衛の関係についてはいかがでしょう?
針生 すぐ統一しようと思ったってダメなんで、政治の前衛と芸術の前衛とは対立するほうがいいんですよ。対立しながら、どう対応できるか。共同できるかっていうのを探す。それがごく自然でしょうね。そうすると、岡本太郎はシュルレアリスムの団体からも誘われるけども、その前にモンドリアン、カンディンスキーだののいたアブストラクション・クレアチンという抽象芸術の大同団結みたいな団体からも会員として誘われる。そういう経験は日本人には他にないですからね。それで、戦後に「夜の会」で初めて知った頃に岡本太郎は対極主義というのを唱えていた。対極主義っていうのは要するに両極として対立するものの間に、まさに中間に自分の身を横たえて、そしてその統一を考えるということなんだけど。いきなり弁証法の論理みたいなことを言っても、日本人には無理ですからね。両極の間で統一を考えるぐらいが、なるほど日本の出発点としては自然だなぁと思って。なかなかいい発言を戦後すぐからしていたなぁと思う。

■日本くらい、歴史を損失してしまった国はない

榎園 戦後すぐは、戦前から絵を描いていた人で共産党に入る人はたくさんいたと思いますが、伝記などを読んでいると、数年すると自然と行かなくなっていく。例えば瑛九は、戦後すぐ共産党に入って活動していたけど、数年でフェイドアウトする。町田市立国際版画美術館に行ったときに資料を見せてもらったら、山口薫が中国の方に版画を送ったりすることがあったようです。画家が共産党に関わることはやはりあったようですが、しかしあるころからそれが全然なくなっていく。
針生 一九六〇年、「芸術新潮」が「われを異色作家と呼ぶ」という特集をやったのね。それで僕は瑛九を担当させられた。その頃、瑛九と接した連中、池田満寿夫、利根山光人など、瑛九は天才だと言うんだけども、何で天才なのかさっぱりわからない。久保貞次郎がパトロンみたいについて、瑛九を持ち上げていることは知られているから、瑛九を神棚に祭り上げるな、久保貞次郎から解放しろって、僕は結論に書いたんです。ずっと後になって、町田の国際版画美術館の館長を久保貞次郎がやっているときに瑛九について喋れという話が僕に来た。打ち合わせに行ったら、『久保貞次郎 美術の世界』の『瑛九と仲間たち』という巻を一冊くれたんですよ。それを読んで行った。講演会のときに久保さんが館長だから僕を紹介して、僕は久保さんがそばにいるのも知っていながら、瑛九を一番よく知っているのは久保さんなんだから、久保さん自身が喋ればいいのに、何で僕が頼まれたのかわかんないと言った。『瑛九と仲間たち』には瑛九は偉い、素晴らしいってことばっかり書いてあって、どこが偉くてどこが素晴らしいかさっぱり分からない。久保さんって人は大体文章には半分も出てこない、人間の方がずっと面白い人で、っていうようなことを言って、久保さんがどんな顔をしているかなと思ってひょっと見たら、いないんだ。終わってから降りてきてみたら、久保さんは跡見女子大の先生をしていて、その卒業生が子供を連れて訪ねてきて、美術館の喫茶室でその女性と目を細めて喋っていてさ、瑛九なんてどうでもいいんだよ。
ペドロ 話が変わりますけど、赤瀬川原平さんの千円札の裁判、針生さんも参加されたんですか。
針生 裁判になってから特別弁護人を瀧口修造さんと一緒に僕も引き受けて喋りました、法廷でも。
ペドロ その裁判を含めて、お金の千円札のコピーの作品の、現在からみた評価は?
針生 新宿の画廊で赤瀬川が個展をやっていて、帰りがけに赤瀬川が「この間、少しばかり、お宅に送っておきました」とか言ってニヤッとするんだ。少しばかりって、何のことか。そうしたらあの現金封入の封筒に入って、千円札が、片面だけシルクで刷ったのかな、裏面には新宿の画廊の案内が書いてある。何だこれは、たいして深く考えてないなぁなんて思った。ところが裁判になったら、いや、ああいう赤瀬川の才能は僕は知らなかったんだけどね、彼の被告の最終陳述なんて非常に冴えているんですよ。この裁判では、現代美術についての非常に貴重な講義録ともいうべき証言が続いた。ただ一つ私が矛盾を感じるのは、講義する方が手弁当で、平土間にいて喋っていて、講義を聞く方がガウンを着て壇上に並んでいるということ。私はただ、あの千円札に使った原版を取り戻したいというだけで裁判をやっているわけだけども、これからどういう判決が出るかわからないけども、非常に矛盾に満ちた感じでしたということを言って、それで結局、本物っていうふうに印刷した千円札の拡大版を彼はつくって、五千円で売るんだったかな。大きいですよね。みんながそれを買ってくれれば、日本国の紙幣は消えて私の元に全部入るはずです、なんてことを言っていた。ところが、赤瀬川を騙った、赤瀬川自身じゃない、全く関係のない誰かがあの偽札をつくって、それをタバコ屋かなんかで使おうとして捕まった。そういうことがあって、資本主義リアリズムと名付けてやっている千円札は全くそれとは関係がない、名前は赤瀬川だけど、赤くない、清き心で、これからは全く、遵法絵画、法に従う、と。そういう言葉の才能が赤瀬川にあるんだなと思って、あのときに初めて注目した。
ペドロ 裁判をきっかけとして、赤瀬川さんはいろいろ書き始めた。
針生 芥川賞はその後だからね(一九八〇年、尾辻克彦名義、「父が消えた」)。赤瀬川はイメージと言葉の間で、なかなか言葉にしにくいことをズバッと表現する名人だと思った。
ペドロ 赤瀬川さんは作品よりも言葉の方が大切だと。
針生 まぁ、そう。あの後、現代美術を彼は完全に降りたと言っている。文章を書けって原稿の注文をしても、それ現代美術でしょ、なんて言って断ることがあった。個展とか、あるいは現代美術でもちょっと横の方から風刺的に書くならばやるかもしれないけど、でも現代美術論をやるつもりは全くなかったですね。
 もの派が出てきたあたりで、リ・ウーファンの理論には矛盾があって、しかしにもかかわらずある種のタブラ・ラサ、白紙還元の作用を及ぼした。日本の美術界はその程度かというふうに思った。新しい作家を発掘したり発見したりしなくてもいい、自分が知っている作家を詳しく論じていこうというぐらいのことで。でも赤瀬川が文章を書かなくなってから、彼は造形的な才能もありますから、かえって国際的に通用するようになった。
ペドロ リ・ウーファンの理論と作品はどう思われるんですか。
針生 アートはどうしたって人工のものであり、絵空事と言われるようなフィクションの要素もある、それを否定しますからね、彼は。そこが矛盾だと思う。だから「もの派」よりも、ポストもの派の方がどっちかっていうと興味がある。
ペドロ もの派のラジカリズムより、フィクションを認めるようになったということですか。
針生 リ・ウーファン自身も確かに造形的な才能がありますけども、菅木志雄なんていうもの派の作家は、理論的にはリ・ウーファンを全く信奉していて、それこそディスクールをつくらないというか、ありあわせのものと出会ってその自然のままに置き並べて、それで作品にしているんだというようなことを言うんだけどね、そんなことないんだ、彼の作品を見ると。いくつかの美術館で同時に展覧会を三つぐらいやったときがあって、ものすごくドラマツルギーがありました。菅くんはそれを自分で自覚しないのかねぇ。シンポジウムなんかでパネリストとして呼ぶと、リ・ウーファンそのままの理論を言うから、もう僕は呼ばないようにしている。全然彼の作品の実態と違うんだ。
ペドロ 菅さんは多分一番もの派らしいものをいままでもつくっていると思う。
 もの派の後のことになりますが、日本の場合、例えばブラジルと比べたら、いまの若い美術家たちが五〇、六〇、七〇年代の日本での美術をそんなに意識しないで、知らないでものをつくっているんじゃないかと思っているんですが、針生さんはそれをどういうふうに思っていますか?
針生 美術だけじゃなくてね、若者ほど歴史感を喪失しているというかね。戦後でも、六〇年安保闘争とか、全共闘と言われた学園紛争とか、そういうものがどんどんどんどん遠くなっている。この間、京都の画廊で若い女の子と話していて、あれは全共闘世代だから全共闘の中から何かつかんだんじゃないかなって、ある作家の噂話をしていたら、ところでその全共闘ってなんですかって、その女の子が言うんだよ。日本くらい、歴史を損失してしまった国はないですよ。
宮田 僕も若い作家と話すと、全然何も知らない。松澤宥なんかも何にも知らない。
ペドロ ブラジルだと、六〇年代、七〇年代は、その時代を生きていない若い人たちにも大きな影響がある。
針生 例えば、日本に住んでいるパレスチナ人で、日本人の女性と結婚している男がいる。これがなかなかのインテリで、絵も描くんだけど、イスラエルがレバノンに侵攻して、サブラー・シャティーラという地区を追い立てて、イスラエルが殺したということがあった(一九八二年)。ぼくが彼と横浜で公開対談したとき、どうしてイスラエルのレバノン侵攻なんてことが起こるんだって、ぼくが一言言ったらね、あとは彼がイスラエル建国から始まって今日に至るまでを一時間半くらいずーーっと喋っていた。対話として全然成り立たない。
――つづく







リンクサイト
サイト限定連載

図書新聞出版
  最新刊
『新宿センチメンタル・ジャーニー』
『山・自然探究――紀行・エッセイ・評論集』
『【新版】クリストとジャンヌ=クロード ライフ=ワークス=プロジェクト』
書店別 週間ベストセラーズ
■東京■東京堂書店様調べ
1位 マチズモを削り取れ
(武田砂鉄)
2位 喫茶店で松本隆さんから聞いたこと
(山下賢二)
3位 古くて素敵なクラシック・レコードたち
(村上春樹)
■新潟■萬松堂様調べ
1位 老いる意味
(森村誠一)
2位 老いの福袋
(樋口恵子)
3位 もうだまされない
新型コロナの大誤解
(西村秀一)

取扱い書店企業概要プライバシーポリシー利用規約