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評者◆聞き手:ペドロ・エルバー/ジャスティン・ジェスティ/宮田徹也 他
第一回 針生一郎氏インタビュー(2006年10月)
No.3607 ・ 2023年09月16日




▼本インタビュー収録の経緯

 ジャスティン・ジェスティとペドロ・エルバーは国際交流基金の同じフェローシップで日本に来ていて、それぞれ違う目的があったが、研究テーマが似ていて、お互いの指導教官も知っていた。ジャスティンが宮田徹也と会ったのは池田龍雄の展覧会において。そこで、面白い留学生がいるということでペドロを紹介された。それで、他の人も入れて2005、6年ごろに読書会を始めるようになった。読書会では椹木野衣の『日本・現代・美術』や、千葉成夫、宮川淳などを読んでいた。
 2006年ごろ、日本の現代美術や1960年代の日本のアヴァンギャルドについての英語の論文が少しずつ出てきていた。その前に大きかったのは、アレクサンダー・モンローの『JAPANESE ART AFTER 1945 : SCREAM AGAINST THE SKY』というカタログだった。それは日本の戦後のアヴァンギャルドの、初めての紹介というわけではないが、一つの契機とはなった。そうした小さな流れがあり、ジャスティンとペドロは、言うなれば、アメリカで日本の戦後美術を研究している「二世代目」にあたるだろう。
 2006年ごろのアメリカで、日本の「前衛」(アーティスト)については既に少し知られていたが、日本の「批評」について研究している人はあまりいなかった。特に1950年代の批評のコンテクストについてはアメリカであまり言及されていなかった。
 ジャスティンが日本の1950年代に本格的に興味を持ち始めたのは、日本に着いた後、当時の『現代思想』誌編集長だった池上善彦がやっていた研究会に参加したことだった。そこで下丸子文化集団や桂川寛らの存在を知る。
 ペドロの場合は、1968年のフランスの動きへの興味から入っていった。そうした60年代の世界的な動向のつながりから赤瀬川原平に興味を持った。既にペドロは、自身の出身地であるブラジルの60年代の美術について研究をしていたため、日本とブラジルの戦後(現代)美術に大きな共通点があることに気づいた。
 1950年代にブラジルにはマリオ・ペドローサという、影響力を持った美術批評家がいた。彼はブラジルの60年代の世代に大きな影響を与えていた。マリオ・ペドローサは1930年代から美術批評を書いていたが、50年代に彼が書いていたものと60年代に書いていたものの間には「転回」があった。それを理解するために、ペドロは50年代までさかのぼらなければならないと思った。では、同時代の日本はどうだったのかと思い、針生一郎(1925‐2010)の存在に興味を持った。マリオ・ペドローサはマルクス主義者で、「美術と革命」を大切にし、針生とはパラレルな存在だと思った。言うなれば、マリオ・ペドローサは「ブラジルの針生一郎」である。
 そして、宮田、ペドロ、ジャスティンらが針生一郎に話を聞きにいったのは2006年10月26日のことだった。ある時期、マリオ・ペドローサは東京国立近代美術館で国連の奨学金で研究をしていた。そのときのことをペドロは針生に訊こうと思っていた。インタビュー前、ペドロがブラジル出身だと自己紹介すると、いきなり針生がマリオ・ペドローサの話を始めたのだった……。
(須藤巧・本紙編集)

■アヴァンギャルドは伝統を否定するのか?

針生 ブラジルといえば、これは未だに語り草になっているけど、マリオ・ペドローサという人が日本に一九五八年か五九年、一年ぐらいいた。アヴァンギャルドは伝統を否定するけどそれは間違いだと言います。僕らは伝統を否定するんじゃない、伝統の中で型だけ残っている形骸化したものを否定すると、伝統のエッセンスがむしろ見えてくると。そういう立場なんだけども、その伝統を否定しすぎるから、日本のアヴァンギャルドは根無し草みたいになっているという批判をしていました。
ペドロ 日本の批評界の中で、どういう反応がありましたか。
針生 我々は、アヴァンギャルドが伝統を否定していると思っていなかった。むしろ伝統というものによって、作家は発言力を持っていくということも事実です。時代もずっと後なんだけど、パリのポンピドゥーセンターで「前衛の日本」という展覧会が開かれたときに、フランスの批評の中で、日本の前衛はものすごくラディカルで、ほとんど成功の見込みがないところで未知の価値、未知の表現を探し求めている。戦争でいうと白兵戦というか、次々に兵隊が銃剣だけでぶつかっていっては殺されていくというふうな戦いを思わせると。つまりフランスなんかよりもずっとラディカルで、ラディカルだけども虚しいという感じがするというような批評がありました。我々は薄々感じてはいたんだが、アヴァンギャルドは全くゼロから出発してね、そして自分の力だけで世界全体と対決するというようになるのはなぜか。つまり現代美術の伝統が、戦後半世紀以上たっているのにつくられていない。伝統と現代美術じゃなくて、現代美術の伝統。これもちょっとペドローサの話の中に出てきた。現代美術は伝統をつくっていかなきゃいけないと。それは非常に痛感しましたね。
ペドロ ペドローサさんは、ちょうど日本から帰ってきた後で、ブラジルのアヴァンギャルドの中で大切な役割を持っていたんです。
ジャスティン さっき針生さんが、日本の場合は全部最初から前衛美術を自分の手で立てなければいけなかったとおっしゃっていたんですけども、私の研究の対象は一九五〇年代ですから、その時代に沢山の小さなグループができては消えたり、自分の展覧会、機関紙とかをオーガナイズしたりするところは一番印象に残るところです。そういうグループが自分の手で、国家とかに従わずに自分のやりたいふうにやっていこう、貫いていこうというやり方についてはどう思われますか。
針生 一九九六年に目黒区美術館が「1953年ライトアップ展」という展覧会をやったんです。多摩美術大学の教員グループに、目黒区美術館の館長が委ねたんですね、企画を。多摩美の教員の中心が峯村敏明くんで、なぜ五三年を選んだかっていうと、彼が書いているものによれば、何もない年だから。
ジャスティン 何もない年って何だろう?
針生 そんなことはない。何もなくない。なぜかっていうと僕自身が美術批評に手を出したのは五三年。それはどうでもいいんだけども、それで最初に注文されて、展覧会評を書いたのが青年美術家連合と前衛美術会共催の「第一回ニッポン展」っていうもの。そこに山下菊二の「あけぼの村物語」とか、当時一九歳の無名の青年だった河原温の「浴室シリーズ」が出てくる。それに大変ショックを受けた。私は美術批評を始めたばかりでもあるし、出品作家の懇談会みたいなのによく出ていた。もう一つ、それはのちに「ルポルタージュ絵画」なんて誰かが変な名前を付けたけど、それの走りだ、出発点だと。ルポルタージュというよりも、当時の意識としてはドキュメンタリー、ドキュメンタリー・アートというものをつくり出そうというものですね。シュルレアリスム系の影響を受けた作家が多いんだけど、シュルレアリスムをむしろ否定的媒介にしてドキュメンタリーをどうやったら切り開けるか、と。一九五三年といえば、日米講和条約と日米安保条約とが抱き合わせで成立したあとで、気が付いたら日本の各地にアメリカ軍の基地ができている。ニッポン展に出品した多くの作家が、基地反対闘争に出かけて住民をオルグしたり、あるいは住民と協働したりした、そういう経験に基づいている。峯村くんは、そのニッポン展の出品者でもあった池田龍雄くんから、なんでニッポン展を全く無視したんだと、「新美術新聞」で問い詰められた。政治的な意識だけで、芸術的な意識の表現が成熟したものは、彼は河原温しか認めないというか。河原くんはアメリカのアレクサンダー・モンロー女史が企画した戦後日本の前衛展で出品許可を求められて、拒否したんですね。デイト・ペインティングを拒否されたということで、その頃の浴室シリーズをモンローは出したんですけど、これに対してまた河原くんは文句を言った。つまり河原温はもう変化していて、デイト・ペインティングまで来ているのに、日本では未だに浴室シリーズばかりが取り上げられて、それが彼は嫌でしようがない。モンローに送った抗議文を会場にも貼り出した。
 峯村くんの話に戻ると、芸術意識が全然成熟していないなんて言うけど、僕の経験ではあのニッポン展の出品作家ほど、しょっちゅう会合を開いて方法論の論議を交わしていたグループはその後ない。あの時代、基地反対闘争が根底にあるから、政治の前衛と芸術の前衛とはどう違って、どう統一できるのか、どう対応できるのかみたいなことから始まっていたわけです。例えば中村宏は当時日大芸術学部の学生で、やはり基地を主題とした作品を描いていたんだけど、映画のクローズアップやモンタージュの方法をどうやって絵画に取り入れるかっていうようなことを熱心に語っていました。そういう意味では芸術的な方法論議も実に活発に語られた時期なんですね。むしろ一九五六年に岡本太郎が中心になって朝日新聞社主催で日本橋高島屋で「世界・今日の美術展」というのが実現して、僕らもカタログの文章作成に協力した。これが抽象表現主義、ヨーロッパのアンフォルメルを日本に本格的に導入した一大デモンストレーションになったと言われました。僕がそのとき雑誌に書いたのは、大昔、蒙古軍が襲来したときに、日本軍は九州の港や波打ち際でその蒙古軍を撃退したように、このアンフォルメルや抽象表現主義を撃退するべきであると。日本ではシュルレアリスムの影響が非常に強いけれども、ミシェル・タピエが言っているのは、創造の根源にはアナーキーというものがあるんで、それに帰ることが重要で、したがってダダ・シュルレアリスムは文学上のロマン主義の延長に過ぎないと。それから、幾何学的抽象芸術はユークリッド幾何学の延長に過ぎないと。ダダというカオスを通り抜けないと、第二次世界大戦後にふさわしい新しいものは生まれないと。私はそこには共感したんだ。だから、波打ち際で撃退してもいいけど、そのダダ的なものをこれからどう我々が体得していくかが大事だ。そうしたらネオ・ダダイズム・オルガナイザーズというグループがたちまちできた。これはね、いろんな意味で面白い。つまりアンフォルメル、抽象表現主義は波打ち際で撃退すべきものであるどころか、たちまち独立だの、自由美術だの、公募団体の中堅クラスまでも、あっという間に浸透していったんですね、二年ぐらいで。タピエ自身が頻繁に日本に来て、具体グループだの勅使河原蒼風だの、彼は批評家であると同時に画商のブレーンも兼ねているから、売れそうな、金になりそうな作家ばかり取り上げる。それで、公募団体の中堅まで浸透していった抽象表現主義、アンフォルメルは、戦前から独立などを中心に、日本人にある程度定着している日本的フォーヴ(野獣派)というものの体質に、何
の抵抗もなく受け入れられるわけだ。だから段々、困ったもんだと思って僕なんかも見ていましたよ。
 一九六〇年日米安保条約の自動延長か、あるいは破棄かっていうことで、戦後として最大の市民運動の盛り上がりがあって、連日国会の周辺をデモ隊が取り囲むわけですよ。それに懲りて警察はデモを許可制にし、国会周辺には立ち入らせないようにその後はするんだけども、あのときまでは国会周辺に入れた。それで、これはまあ本人がそう言うんだけども一種の伝説みたいなものなんで、私は半分しか信じてないけども、ネオダダのグループに加わっていた荒川修作がね、ちょっと躁鬱の気味がありまして、機動隊が大勢いて、樺美智子という学生が亡くなるんだけど、機動隊とデモ隊との非常に緊張した対決で、荒川の躁鬱が爆発したというか、足元にあるアスファルトの一枚をちょっと剥がして、それを機動隊の方に投げつけた。それが、樺美智子の死に至るデモ隊と警官隊の乱闘の発端だと、彼は言うんだけどね。それと、このネオダダグループは、安保反対をアンフォルメル反対にかこつけて、アンフォ反対、アンフォ反対と言ってデモをしたという。この両方は伝説だろうなと思っている。
ペドロ 日本のアンフォルメルに対してはどう思われたんですか。
針生 タピエは何度も日本に来てね、スライドを見せながら、僕ら少数の批評家に解説することもあったよ。そうすると何回目かにはね、アンフォルメルでありながらダリが入ってくる。つまり破壊だけじゃダメで、新しく秩序を作らなきゃいけない。ダリはカトリックっていうけども、あの独特な新しい秩序をつくろうとした。それから日本では、岡本太郎が古い型のボスであって、あれを倒さなきゃダメだっていうようなことを言う。瀧口修造さんもそこにいたんだけど、岡本くんは日本では非常に重要なんだけどなーなんて、首をかしげていました。そのときの話は、破壊はもう終わって、新しい秩序、新しいトポロジカルな哲学の創造へというふうなところに重点があって、大変疑問が多かった。そこに具体グループの若者たちも何人かいたんですよ。その中で一番よくしゃべる嶋本昭三に、私が、いやー今日のタピエの話にはついていけないところがあるんだけど、具体の人はどう思うのかなって訊いたら、嶋本は、我々は全くタピエさんと同じ考えで何の疑問もありません、って。あ、これは駄目だと思った。吉原治良さんが人工栽培した、いろんなコンクールの優等生を集めたからこういうことになるんで、もう作家としての衝動なんか全くないというように僕は思ったね、そのときに。
ペドロ タピエさんは、新しい秩序が必要だと言いながら、政治と結びついていなかったんですよね?
針生 少なくとも話の上では結びついていない。だけど彼はパリでスタッドラー画廊に顧問として座っていましたから、その画廊の商売と彼の考えとの関係は極めて政治的
です。政治的とは言えなくても経済的です。経済戦略的です。
宮田 建畠晢さんに聞いたんですけど、アンフォルメルが日本に来た頃はもうアンフォルメルは沈没していたんだと。だから新しい秩序を示せる作家がいれば、また金になるって。日本語では「テコ入れ」って言うんだけど、違う発展についてタピエ自身が行き詰まっていたのかもしれない。
ペドロ 当時マリオ・ペドローサさんが日本にいて、具体とタピエのことをブラジルの新聞で批判していたんです。タピエは商売者だから、どこにいても天才的な、彼の好きなような作家を見つけてきて、まぁそれはしょうがないとかいうことで。アンフォルメルのブームは結構すごいことでしたね。
 思い出すのは宮川淳さんの論文です。そしてその後に針生さんが宮川さんに対して出した、ディスクールという概念についての論文に私は非常に興味を持っています。宮川さんは、美術史はディスクールとして語れるというか、一つのディスクールだと言いますね。それに対して針生さんは、いやそれはちょっと違いますとか、言葉ならざるものとか、そういう問題になりますよね。美術史をディスクールとして理解することの問題は何ですか。どうしてディスクールという概念は適切じゃないんですか。
針生 制度の問題、つまり六〇年代のアヴァンギャルドがポップアート以後、非常に小刻みな、ポップアート、プライマリー・ストラクチャー、キネティック・アート、アース・ワーク、ライト・アート、そしてミニマル・アート、コンセプチュアル・アートというふうになっていく。それを僕はもちろん全体としては支持していたけども、小刻みに交代しすぎるなぁと思っていた。そうしたら60年代のはじめに、東野芳明という美術批評家がアメリカから帰ってきた。彼は、最初の奥さんが出光石油の会長、出光佐三という人の娘だった。だから出光が援助して、新婚旅行で世界を一周する。かなり裕福な余裕のある生活をしていて、ヨーロッパでもアメリカでも作家と付き合い、その付き合った作家のことをよく日本の雑誌に書き、彼が日本に帰ってきて六〇年代アヴァンギャルドを「反芸術」という、芸術の概念そのものを変えるものとして名付けた。私は「反芸術」ってかっこよすぎる、反芸術と総称することに、それがいいのかどうか疑問を感じていた。六〇年代は東野、針生、それに中原佑介を加えた俗称「御三家」と言われる戦後の美術批評家がだいたい時代を制覇したというふうに外からは言われるわけですね。ただし、東野が帰ってきて、オーケストラで言うと第一バイオリンに僕はなりたくないと思っていたわけです。第一バイオリンというのは、すぐ消費されて消えてしまうから。第二、第三くらいのバイオリンでいたいと思って、東野がその第一バイオリンをつとめたわけですね。――つづく







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