書評/新聞記事 検索  図書新聞は、毎週土曜日書店発売、定期購読も承ります

【重要なお知らせ】お問い合わせフォーム故障中につき、直接メール(koudoku@toshoshimbun.com)かお電話にてバックナンバー・定期購読の御注文をお願い致します。

評者◆小野沢稔彦
木下惠介の『陸軍』と『この天の虹』――昭和史を貫流する「家」という制度
No.3607 ・ 2023年09月16日




■はじめに

 私が、これから何回かにわたって行うつもりの試みは、主に「昭和」と言われた時代に作られ、上映されたいわゆる「大衆映画」のなかの何本かの映画に、今日の視点で触れつつ、そこで私が感得した問題系について改めて考え直そうとする問いである。
 そのなかで浮上する課題は、しかし、その時代で終わってしまうものではなく、今日にまで持続的に持ち越されてあり、そこで浮上した課題を問い直すことは、今日の私たちの課題を問い直すことでもあるだろう。戦前・戦後を貫いて批判されることなく持続した多くの問題は、その時々の時点で課題として浮上することはあった。しかし、次々と生じる目先のジャーナリスティックな課題の前にすぐに忘れられ、根底的に問われることはなかった。
 そしてこの現代においてこそ、そこで問われなかったつけがこの時代を覆い、規定していることが政治・文化・芸術……などあらゆる局面において露出しているように思える。
 この問われることなくやり過ごされてきた「昭和」という時代が残した課題こそを改めて問い直してみたい。
 このことは、時代の危機が当時よりも圧倒的に深まっているにもかかわらず、このことに蓋をし続ける私たちの今日にこそ必要なことであろう。しかも、過去に対してノスタルジックに固執する傾きは、今日においてこそ強まっている。このことこそが、逆に今日の問題のあり様を覆い隠してしまう。だからこの今日的情況を見つけるためにこそ、今日の情況をふまえながら、過去のそれぞれの時代の危機と向き合う大衆映画の問いを、改めて今日に問わねばならないだろう――映画こそ、常に時代と向き合っているのだから。そして大衆映画の作り手たちが問おうとした姿勢と方法こそ――同時に、その「映画」を作らせた「大衆」の集団的欲動――が、紛れもなく時代の危機を問う表象としてあるのだから。
 今や「映画」など、多くの人々にとっては関心の外にある。しかし、ある時代においては大衆映画が表象する世界(ドキュメンタリーも)は時代精神そのものであると同時に、紛れもなく主流的に時代の危機に向き合い、その危機を生きる一人一人を撃っていたのだ。その忘れられようとする課題を再浮上させ向き合うことは、この現代の危機に向き合う具体的な方法ではないか。このなんとも回りくどい問いを本連載において何回か行ってみようと思う。

『陸軍』と『この天の虹』という映画

 さて、その第一回は木下惠介が1944年に撮った陸軍省後援 情報局国民映画『陸軍』であり、もう一本はその木下が戦後1958年に八幡製鉄(当時)の全面協力によって作った青春映画『この天の虹』についてである。この典型的な軍事国策映画と戦後的民主主義映画――戦争をはさんでの――とは、表面的にはなんの関連性もないように思われる。
 更にはこの二本はその製作的背景故に、端から色メガネで見られることになる。確かにこの二作品においてはその背景にある物理力がぬぐい難く映画全体を規定し影響している。にもかかわらず、それ故にと言うべきか、この国の映画の基底に流れる主導的思想や、制度的あり様、日本映画を形成してしまう作り手たちの内的意志と方法などを見ることが出来――その主流的流れは今日にこそより露骨に浮上している――、私たちの置かれた情況が読みとれるのである。
 だいたい映画製作の現場において、制作過程への様々な物理的影響力が関与しない現場はなく、「作品」にそうした物理力が働かないことなどないのだ。純粋な作家的意志(そんなものは幻影でしかない)だけで作られた映画などないのだ。むしろこの物理力による映画の内実への影響をどう意識し、どう対峙し、どう背負いこむかに映画の運動性はあるのだ。だからこそ映画は、その時代と向き合いその時代の様々な課題を背負うのである。
 ここで私が問わねばならないことは、一見、まったく異なった思想と方法によって作られたと思える二本の映画――絶対的軍国主義社会と戦後民主主義社会という時代相の下にあると思われる――を通底する、今日まで持続し続ける日本映画を拘束する思想上、方法上の問題である。そしてこの課題は、映画だけの問題ではなく、この国の政治・文化・芸術を規定しており、更にはこうした課題に内在するぬきさしならない問題としての〈性〉の問題を含んでおり、こうしたことは今日までほとんど問われることにないまま放置されてきたのである。
 だからこのことは、木下惠介という一人の映画監督だけの問題ではなく、日本映画そのものが抱えた問題系を問い直すことであり、同時にこの国の戦後史への問い直しでもある。ではなぜこの大きな問いを、この二本の映画において――連載の最初の回に――なさねばならないのか。
 戦後映画の主流的担い手であり「戦後」という時代を〈映画〉という方法において挑発し続けた先鋭的映画監督である木下惠介が「昭和」という時代の課題に応えるべく作った問題作であるからであり、なかんずく「国民映画」として作った「大衆映画」であるからである。映画は、この国では常に国民映画だったのだ(木下は戦後『二十四の瞳』という国民映画を作っている)。
 そして木下にとって――そして多くの昭和映画の作り手にとっても――、ここで問われる二本の映画は、「昭和」という時代のどん詰りで、そして延命し続けたその情況を主観的に批評的視点なしに演じ直すことによって成立する「大衆映画」であり、それ故にこの二本の映画にはこの時代の「出来事」が深く刻印されており、そのことを問うことはこの現代の危機と直接に対峙することになるだろうからである。
 そして今回浮上する主要な問題系は次のことである。①持続する天皇制「国民国家」の問題。②それを根底で支える「家」という制度性。③映画様式的には「メロドラマ」という映画構造の問題であり、この問題系は今日のあらゆる青春ドラマにも一貫していて、この二本の映画に露骨なまでに表象されてある。

『陸軍』について

 この映画の物語(原作・火野葦平)は、近代日本の「国民国家」形成過程を「日本陸軍」の歩みと共に物語るものである。すなわち、陸軍の成長こそが日本という国家と国民の成長過程そのものである、と全面的に表象する映画である。ここでは、天皇帝国と陸軍は永遠に一直線的に成長し続ける、という神州不滅の神話が語られるのだ。
 映画は、陸軍小倉連隊を中心とするため長州戦争に始まり、その後、日本という国民国家が一貫して帝国主義的膨張国家として(ただし国内植民地戦争については触れられることはない)、海外へと領土を拡大していく過程を、「帝国臣民家族」の三代の物語によって――国家の内部で、その国家意志に忠実であり、国家意志に絶対的に寄りそいながら、一家も安定的に発展をとげる――誇らかに表象する。
 きわめて健全で典型的なこの国の軍都の町に小商家を営む、三代の一家の物語は主に男たちの言動によって語られ、その侵略戦争の歴史とそこに生きた男たちの栄光が伝えられる。同時に三代の家の発展――その心性――も揺らぐことはなく確固とした信念として伝達される。
 自明の如く語られる日本近代の侵略戦争の歴史は、紛れもなく天皇帝国の大義を旨とし、その勢威の直接的表象である戦争を作り出し拡大する。そして男たちは、その天皇帝国の栄光がまさに自らのものであり、その威光の元で自らの生も輝き続けることを誇る。戦争帝国の歴史をすべての日本人は自らの存在理由とし、天皇帝国の意志を主体的に生きるこの一家の三代の歩みもまた、天皇制国民国家の臣民の現実なのだ。
 この『陸軍』という映画においては日本国民は天皇の兵士として生き戦い、天皇の兵士を作るために懸命に健気に生きるのだ。更に、この家の当代の物語の中心は「家」の物語としてあり、なかんずく「母と子」との物語が主流的に展開される。つまり、昭和の侵略戦争の中心的担い手は「男」だけではなく「母と子」に重層化されていくし、むしろ母と子とがその核心的担い手になるのだ。そして、この母と子の物語こそは日本映画の主流たるメロドラマの根底に流れ続けるドラマである。
 『陸軍』は近代国民国家三代の「家」の物語であり、その家族が関わった各時代の戦争の物語であるのだが、当代のアジア太平洋戦争、すなわち昭和の戦争とそれ以前の日清・日露戦争に象徴される戦争の表象とはまったく別の映画のように成され、映画は成り立っている。つまり昭和以前の戦争は、ただ圧倒的に勝利する戦闘中心の実録風ドキュメントとして表象され、それに加担する人間たちも単純に勝利のドキュメントに同調し続ける。
 それに対し「昭和」の戦争部分(映画の物語の大半の時間は、映画と平行的に進行する現在戦われている同時代の戦争情況である)は、一方に父親である国家意志を体現したかのような笠智衆と、軍母として自らを律し続ける母親である田中絹代を中心に、帝国主義国家公認の――戦闘ドキュメントではなく今次の侵略戦争へと向かう我が子の出征までの――「ホームドラマ」として現象する。健全なホームドラマは常に、その内部に悲劇を内包している。そして、この日本独特な映画様式である「母子ドラマ」こそが、この映画のプロローグ部(戦闘中心の)をも含めて、この映画を根底的に構成することになる。
 このことは、明らかに木下の意志であると同時に陸軍省のこの映画への意志でもあったと思われる。木下は戦争のなかの「母の物語」を描きたいと思い、一方、アジアへの侵略戦争を続行する日本が、戦争現場での勝利的戦闘を描くことがほぼ不可能となり、更には戦争末期情況をきたしつつある国内情況のなかで、陸軍省は銃後の人間たちへのより強固なプロパガンダを必要とするようになる。このことは、単なる実録戦闘ものを超える、母たち、女たちの心に直面する内実のものでなければならず、女たちの一段と深い天皇帝国への信頼を醸し、同時に母たちの戦争翼賛の心性を強化し、謳い上げることが陸軍省の緊急の要請であったろう――ここにホームドラマ・『陸軍』は生まれる。

 この時期、日本の戦争翼賛映画は特に多く戦争を担う女たちの物語を量産する(本論での二作品と直接関係ないが、この時代の情況と映画との関係を照らし出すために以下のことを書いておく)。例えば、黒澤明が軍事工場での勤労動員に精励する若い女性たちを描く『一番美しく』(1944年)であり、ドキュメンタリー(当時は「文化映画」と一般的に言われている)では、厚木たかが海軍衣糧廠で軍服作りを行う女子挺身隊の活動を描いた『私たちはこんなに働いている』(1945年)などがある(その他、女性たちの勤労奉仕活動を描いた映画は数多い)。これらの戦時国民映画は若い女性たちが主体的に軍事作業に参加し、総力戦を戦う姿勢が描かれ、そこでは戦地で実践の携わる兵士だけでなく、銃後において聖戦を自ら自発的に戦い、国家に奉仕し続ける女たちの戦う姿勢こそが描かれる。ここには総力戦のなかで中心的に戦わねばならない女たちの戦争への直接参加の現実が露出している。
 これらの映画が表象する労働現場の作業状況は、作業効率の向上を前提に近代的産業社会に規定された作業段取りの下、規則づけられた所作のみを全員が一律に一糸乱れぬ作業工程として行なう――リーフェンシュタールの映画に通じる――状況として、その活動それ自体が軍隊の分列行進を思わせる程に一種のプロパガンダとして、天皇国家の下で統率された臣民の美しい姿を表象する。だからこの状況を映しとるこの時代の映画は、この戦時現状に規定され――日本軍が快進撃を続けた時の、例えば戦争映画史上最大のヒット作と言われる実録風戦闘映画『ハワイ・マレー沖海戦』(1942年・山本嘉次郎監督)のような戦争勝利プロパガンダとは映画の内実そのものが異なっている――、この時代の映画となって観る者を規定する。

 木下は、そうした女たちを中心とする戦争翼賛映画に新しい内実を加味しようとし、そのことによって日本人の感性に直接訴える国民映画の新しい物語を作ろうとする。すなわち、日本映画の主流にあった――そして木下自身もその伝統を最も体得した監督である――母と子の物語を陸軍の物語の中核におくことで「国民の陸軍」という映画を志向する。そのことによってこそ、マッチョで国家暴力機関である陸軍の物語とは異なった「我ら」の陸軍像を作ろうとする。その映画においては帝国臣民、特に女たちこそがなぜ陸軍と共に生き、この天皇帝国の陸軍になぜ我が子を送り出すのかが情緒的に実感出来るように、徹底的にその情感が表象されるだろう。
 そして紛れもなく、その情感を束ねる(ファッショ)ことで、不敗の陸軍は成立していることを謳い上げようとする――このことこそが帝国陸軍が国民映画に求めることでもあるのだ。
 かつてあった単純な戦意高揚を目指す実録風アクション戦争映画を超えて、陸軍の精神を支える物語としての「母と子」の物語は、日本映画に流れ続ける日本のメロドラマの伝統に新しい可能性を拓き、新しい国民映画としてあるだろう。この『陸軍』という国民映画を丁寧に見てみることとしたい。
(プロデューサー)
――つづく







リンクサイト
サイト限定連載

図書新聞出版
  最新刊
『新宿センチメンタル・ジャーニー』
『山・自然探究――紀行・エッセイ・評論集』
『【新版】クリストとジャンヌ=クロード ライフ=ワークス=プロジェクト』
書店別 週間ベストセラーズ
■東京■東京堂書店様調べ
1位 マチズモを削り取れ
(武田砂鉄)
2位 喫茶店で松本隆さんから聞いたこと
(山下賢二)
3位 古くて素敵なクラシック・レコードたち
(村上春樹)
■新潟■萬松堂様調べ
1位 老いる意味
(森村誠一)
2位 老いの福袋
(樋口恵子)
3位 もうだまされない
新型コロナの大誤解
(西村秀一)

取扱い書店企業概要プライバシーポリシー利用規約