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評者◆睡蓮みどり
映画という生き物――マリー・クロイツァー監督『エリザベート 1878』、デヴィッド・クローネンバーグ監督『クライムズ・オブ・ザ・フューチャー』
No.3605 ・ 2023年09月02日




■普遍的な映画の見方など存在しない、はずだ。自身の価値観も、社会の価値観も、変わっていかない方がおかしいわけで、そのなかで絶対的な映画評論などというものが存在する方がよっぽど無理がある。あとはその言葉にどう責任を持つかが問われているのだと私は思う。人間はそもそも矛盾する生き物であることを前提として、その矛盾を他者から指摘されたときに受け入れられない人が意外と多いことに驚くと同時に、そういう人はものを書く資格がないんじゃないか、と偉そうに思ってみたりもする。そんなふうに思ってしまう出来事がつい最近もあったし、この一年は特に目立つように感じる。そもそも映画について論じること自体は誰にでも門が開かれているもので、「資格」が必要なものではないのだから、だからこそ責任を持って言葉と向き合ってほしい。以上のことは主に先輩世代に対して思っていることだが、いざ自分にも来るかもしれないときのために、自戒を込めて記しておきたい。

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 『エリザベート 1878』は予想以上に自由度の高い映
画だった。16歳で結婚しヨーロッパ宮廷一の美貌とも讃えられてきたオーストリア皇后エリザベートの姿は、これまでも幾度となく戯曲化され、映画化、漫画化されてきた。広い宮廷のなかでは常に皇后としての役割を求められ、窮屈に過ごす。ただ少しの自由を求めるだけで変人扱いされてしまう。自由奔放という言葉自体が、そこに「他人に迷惑をかけるおそれがある」「ちょっと困った」というニュアンスを含む。本作はいわゆる偉人伝的な一人の人間の人生を描くタイプの作品ではなく、あくまで四〇歳の誕生日を迎えたエリザベート(ヴィッキー・クリープス)その人の心象に焦点を当てて描く。昨年公開されたダイアナ妃の素顔を描いた『スペンサー/ダイアナの決意』(パブロ・ラライン監督)とも近いテイストだと言えるだろう。
 「コルセットを脱ぎ捨て、自由を求め飛び立つとき」というキャッチコピーは原題の「コルセット」からきているのだろうが、昨今SNSを中心にフェミニズムの文脈で「脱コル(脱コルセット)」という言葉が話題になったのは、まさに女性を束縛する価値観から自由になるために生まれた言葉だった。具体的には、化粧や脱毛をやめたり、女性らしい髪型やファッションをやめることを指す。まさに本作ではその先駆者としての一面を描く。
 一方で、背が高くウエストが細かったいわゆるモデル体型だったと言われるエリザベートが、侍女たちにコルセットをきつく絞めるよう指示するシーンが繰り返し映し出される。本作の煌びやかなファッションにはうっとりしてしまう反面、このシーンに象徴される息苦しさはエリザベートの表情やちょっとした仕草から痛いほど伝わってくる。本作のエリザベート像は間違いなく、フィメールゲイズ(女性視点)で描かれた女性像である。これまでもフェミニズムの文脈で描いてきたマリー・クロイツァーにとって自然な流れだったのだろう。
 エリザベートの表情が豊かなのに比べ、まだ幼い娘は恐ろしいほどに無表情である。皇帝である父によって吹き込まれた母の悪口を真に受けて出来上がってしまったのであろう、子供らしからぬ表情だ。象徴であることを求め続ける夫にとっては、女性の意思や自由などというものは存在しないに等しいものなのだ。だが彼女は宮廷だけに留まらない。ウィーンから離れて過ごすだけでなく、自ら病院を慰問し、患者のベッドに一緒に横たわりタバコをふかすシーンがある。その姿のなんと美しいことか。娘である彼女がいつか母の姿を思い出すとき、そのシーンはきっと意味が違ってくるだろう。自由に人間らしくいようとすることは、同時にとても孤独なことだ。見終わって、エンパワーされるだけでなくどこか寂しさが残った。その寂しさを忘れたくないと強く思った。美しい映画だ。

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 御年八〇歳になるデヴィッド・ポール・クローネンバーグ監督による期待の最新作『クライムズ・オブ・ザ・フューチャー』が公開中である。一九九〇年代に書かれたという脚本をほぼそのまま直すことなく撮影されたという。七〇年代に同タイトルの映画があるが、それと本作はほぼ関係はない。二〇〇五年の『ヒストリー・オブ・バイオレンス』以降、四度目のタッグを組むヴィゴ・モーテンセンが演じるのは、「加速進化症候群」という、自ら新しい臓器を生み出すアーティストのテンス・ソールだ。レア・セドゥ演じるパートナーのカプリースはタトゥを施したソールの臓器をショーで取り出す。ソールはアーティストとしてカリスマ的存在でありながら、いわゆる“かっこいい”描かれ方はしていない。印象に残るのは、横たわった煽りの角度から撮影された表情や、なすがままに臓器を摘出されるあらわな姿、思うように食事を摂ることもできない弱々しい姿である。クローネンバーグとヴィゴ双方に絶大な信頼関係がなければおそらくこの表現は成立しなかっただろう。痛みを感じなくなってしまった世界で、自ら生み出した新しい臓器を取り続ける行為に、パフォーマンスの観客たちは釘付けになる。本来監視する側である政府機関の人間であるティムリン(クリステン・スチュワート)も同様に、このショーをもっと間近で見たい、参加したいと確かに思ってくるのだから不思議だ。生み出されては機能しないままにひたすら摘出されていく肉体の一部。これが美しいのかグロテスクなのか、どう感じるかはさまざまだろうが、本作のなかでは文字通りの「インナービューティー〈内なる美〉」という言葉が繰り返され、美しいものとして存在している。
 ソールが横たわるベッドや、食事をする椅子、解剖モジュールのサークはぐねぐねとした不思議な造形をしている。『ビデオドローム』(83)やウィリアム・バロウズ原作の『裸のランチ』(91)にもやはり、本作に登場するような造形物が印象的に登場していた。造形物と言ってしまっては十分ではないかもしれない。それは単なるモノではなく、鼓動し生き変態し続けるモノだ。そういう意味でもクローネンバーグは本物の変態映画を作り続けている作家の一人だ。『クラッシュ』(96)は自動車事故で起こる衝突に興奮する痛みと官能を描いた傑作だが、クローネンバーグにとって痛みは官能と切り離せないテーマと言えるだろう。痛みというものが人間の感覚から消えてしまった世界で、ソールの生きる世界からすれば、『クラッシュ』の世界で繰り返されたような「古来なセックス」はもう意味をなくしつつある。感覚が変われば当然ながら人間関係も変わってくる。仕事上のパートナー以上の親密性を持つソールとカプリースが、サークの上にふたりして横たわっている裸体と、撫でるようにメスによって切り刻まれていく姿はとても官能的で、最近見たラブシーンのなかで最も官能的であった。冒頭に少年がプラスチックのゴミ箱を食べるシーンがある。プラスチックを消化し食べる姿は虫が唾液を出す様そのものであり『ザ・フライ』でハエと一体化していく男の姿が頭をよぎる。監督自身が「私の過去作でみたことのあるシーンや瞬間を見つけることができるでしょう」と語るように、ファンにとってはたまらないシーンがてんこ盛りなのである。本作から入り、過去作に遡っても、その不健康で奇妙な美しさは裏切ることはないだろう。監督自身が変わらず魅了されるテーマを二五年もの時を経て新作として再生させる。映画という生き物が変態していく様を見せつけられた。
(俳優・文筆家)







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