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評者◆凪一木
その204 ペンネームについて
No.3605 ・ 2023年09月02日




■何故ペンネームなのか。本名が知られると書きづらくなる。この連載中だけ知られなければ良い。ここまで書くことができたので、もうそれは構わない。なぜ知られるとまずいのか。本当のことを書いてきたからだ。たとえば、或るビル管の妻は、一部上場某世界的企業の人事課エリートだ。億ションの家は三〇歳台に払い終わっている。妻の収入による。子はいない。仮面夫婦。未婚では出世不可とのこと。彼は毎日五〇〇円もらい、家での酒は飲み放題だ。ただし一人酒。妻は忙しい。年三回の海外旅行は妻一人で、年一回の国内旅行(ただし一泊)だけは彼も一緒だ。
 字を読む同僚など本来はいない。だが、名前ぐらいは読める。なのでペンネーム。特定出来ずとも「本当」が書かれている。私にとっての本当である。「今日語ったことが明日変わる」と次々発言し続ける立花孝志が、「NHKを再建しよう!」といつ言い出しても不思議はない。果たして、物書きは本当のことを書くのだろうか。
 たとえば『屋根裏の散歩者』。小説の内容は、実際の江戸川乱歩の生活なのか。つまり、バレずに犯罪をおかしている。或いはそれに近い行為をやっているのか。埼玉県毛呂山町で四月、四三歳の屋根裏男が逮捕された。乱歩は願望を書いているのか。犯罪一歩手前の人間が、形を変えて欲望を満たしているのか。それとも事実ありのままの自己紹介なのか。
 昔から、革命は貴族と学生が行うと言われる。自由な時間があるからだ。同じように暇を持て余している人種がビル管である。私の労働は毎月、一四四時間程度である。同じ給料の同僚で、毎月一〇〇時間程度の者もいる。その一〇〇時間まるまる待機(つまり動かない。テレビやネットを見てるだけ)という社員もいる。それでも、組合活動はもちろん、選挙の投票にも、自身の同窓会にさえ参加しない。理由は、問題意識、社会意識、参加意識が低いからだ。革命闘士候補のはずもない。
 では、革命を行う、求める、志向するその心は何なのか。社会を良くしたい。貢献したい。他人のために尽くしたい。そういうことだろう。それはいったい何か。それはつまりは、人を幸福にしたい。幸福は人それぞれで、その人間の幸福が何なのかも分かりづらい。それでも無手勝流にでも突き進む。
 一方で、革命に参加したくない、投票にすら行きたくないビル管の理由は何か。一つには、他人の幸福をそれほどに望んでいない。他人の幸福で自分も喜び満たされるという感覚がない。嬉しくもない。快楽が伴わないから、行う動機もない。そういうことだろう。
 ビル管を見ていると、より以上に怠惰に感じる。ドキュメントやノンフィクションは、取材対象が、それどころではない忙しさの人間であるとき、取材もインタビューも物理的に受けてもらえない。「あんたの作品のために死ねというのか。生活の補償でもしてくれるのか」というわけだ。また、怠惰は怠惰なりに取材が難しい。
 結局は、革命同様に、時間と意識のある者を取材する。そこで語られる内容は、語る時間すらない人間のそれではない。だから本当のところ、時間もなく、意識もない者に対するドキュメントやノンフィクションは、潜入するか、盗み撮りするかしかない。それでも、綺麗事ではない部分はなかなか浮かび上がってこない。
 森達也に『ドキュメンタリーは嘘をつく』(草思社)という自身を問う書がある。本当と思われているものほど、嘘の塊であったり、本当よりも、より良いと信じることのために嘘を紡ぐことのほうが感動する場合もある。「本当のこと」は表には出せず、ゆえにフィクションでもって出す。映画も含めて物語は、そのために存在する。元になる「実話」が含まれている。
 詐欺も完璧な仕事をしたなら、それは表に出ない。つまり部外者は知り得ない。そういう隠れた「本当のこと」は、多数存在するはずだ。
 「幸福論」を語るほどの論を持ち合わせてはいない。だが、一つ私なりに確信していることがある。当人が本当に幸福だと思っていることは表に現れない。人々が見るものは、他人が目にするものは、目にできるものは、「幸福のようなもの」であり、本当の幸福といえるものは、外に誰しも出さない。出しているように見えても、それは、二番手以下の代役であり、プラシーボであり、思わせ振りな「仮の」見せても良い幸福である。本物の幸福は、グロテスク過ぎて、人に知られても理解されず、また、人前に出た途端に、色褪せ、幸福ではなくなってしまう可能性がある。そのため、必然隠され、密かに個人的に確信されているものである。説明のしづらさ、他人には理解のされづらさも、「幸福」の本質である。
 拙い例で説明する。ある人を好きであるとする。その人が誰よりも「ベスト」な人であることは自分しか知らず、また表現できず、その人自身にも伝えていない。なのに、その人から自分が好かれているだろうと実感するとき、それは、「幸福」としか言えないものだ。その相手が、たとえすぐ隣にいる人間であってもだ。他人にはもちろん、相手にすら伝えられない。力量がないというよりも、人間の宇宙の孤立ゆえの「伝えられなさ」である。
 それは、説明しづらい以上に、他人には解ってもらえないゆえの幸福であり、その「解りえなさ」ゆえに、幸福が熱を失わずに保たれているとも言える。当人同士の共感を超えたものかもしれない。幸福の本質を失わずにいられる不可解さ。幸福とは、理解されてしまったら、或いは表に出るようなものなら、そんなものは大した幸福ではない。我々は、人の幸福を目にすることは、幸か不幸か、遂にできない。
 ただし、幸福は見ることはできないが、知ることはできる。ビル管をやっていると、言葉上では矛盾するが、まさに目の当たりにすることがあるのである。「こいつは幸福を知っているな」。それを覗き見るような行為は、知られると誤解されかねない。それがペンネームの理由である。
 幸福というのは、犯罪者にとっての犯罪発覚夜明け前みたいな状態である。ならば、サイコパスにも幸福があるのか。残念ながらそれはない。サイコパスには楽しみはあっても幸福はないのである。なぜなら、たとえ間違って人から好かれたとしても、それを実感できないからだ。
 本当の幸福は隠れていて、密かに、ただ一人実感できるものだと私は思っている。たとえ(かなり)心の通じあった友達に対してであれ、表に出してしまう以上は、少なくとも「幸福」とは言えない。表の幸福など、どこか不幸で、他人からの「羨ましい」とか「嫉妬する」とかいった反応で補足するものに過ぎない。そのことによって幸福度が高まるのかと言うと、そうではない。
 ペンネームは、幸福のための手立てでもある。
(建築物管理)







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