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評者◆凪一木
その202 私がビル管になったわけ。
No.3603 ・ 2023年08月12日




■トラック運転手に、それを仕事にしているのは「ひとりの時間が持てるから」という人がいる。ビル管理の仕事も似ている。忙しい現場は絶えず動かされるけれども、それでも自分のタイミングと間合いで動くことができるはずだ。また、仕事がなく、ボーッとしている時間でも、家や喫茶店や図書館で、のんびり一人いるそれとは違う。仕事中であるという緊張感があり、運転手なら運転があるように、泊まりの留守番であっても、それなりの動きやスピードや体感、世界とのつながりがある。
 刑務所の囚人が、あれこれ鎖につながれ支配されても、「心のなかで空想する分には、どんな犯罪を起こそうが、それは自由だ」。そう語るのを聞いたことがある。空想をする無類の時間であり、見た目とは別の贅沢な空間。一人ひとりが、そこでの一体感を持てるなら、上からのダイレクトな指示の下にある自分という「つながれた立場」を意識することなく、自分たちでつながることができる。上からつながれた鎖ではなく、横の連帯の心の糸である。荷物の奴隷となることのないドライバーのように、同じ時間と空間を共有する者たちは、互いにつながることができる。そうして、立ち上がる。はじまりは、縦のラインにいる人間からは見えない。
 私がビル管となったのは、たまたまである。次の本を書くまでの猶予期間が欲しくて、月一〇万円のお金を貰いながら学校に通えるということで六カ月間「偽学生」を始めたのだ。もちろんビル管になどなる気持ちはなく、その仕事の存在を通学中に初めて知った。
 ところが定期的に国家試験があり、その座学と技能実習の嵐だ。クラスメートと仲良しになると情が移り、気持ちが動いていく。
 結局は本が出るどころか、一冊分の原稿さえ出来上がらずに六カ月が過ぎた。毎朝通勤ラッシュに揺られ、試験試験の連続で、サラリーマン社会参加への戦闘モード状態となってしまった。視線の先は就職情報誌となり、頭の中の構造も設備一色。街を歩いても、点検口や非常灯に目が行く。蛍光灯の間引き、消火器の位置、排煙口の押しボタンの場所、清掃さんや警備員の服に付着の階級章や会社名をチラチラと見るようになる。いつの間にか染まってしまっているのである。
 私がビル管を続けられたのは、実は自由度が高かったからだ。勤務形態だけではない。その仕事内容も業界事情さえ実は、自由に変えられる。そこに所属する人員は元サラリーマンで占められていたから、彼らはただ従うことに慣れていて、変えたり、逆らったり、主張したりすることはできる世界であったのに、それを駆使する権利や能力を忘れていて、或いは諦め癖がついていて、旧来の悪弊を続けていた。ところがそれが崩れてきているのである。
 以前書いたように、現役の漫画家がビル管として働いているようだが、我が社だけでも元編集者、元俳優、元カメラマン、株式講座の現役講師などがいる。前の現場では、現役カメラマンのフェラーリは別れた妻がキャビンアテンダントで、弟が東大卒というインテリ男の妻が現役の翻訳家。ちょうど同じ現場のときに、彼女の母が主人公のモデルとなった映画も公開されている。国立大卒コーちゃんの妻が現役漫画家。そして結婚相談所男は去年、婚活を諦めた途端に出逢った、現役の落語家と授かり婚をした。マーシーの姉は現役の旅行ライターである。和田アキ子の歌じゃないけど、これだけでも自由の匂いがするだろう。いや、あの歌は「希望の匂い」だった。
 そもそもビルメンテナンス協会の会長が、高校柔道日本一であり、レスリングではミュンヘンオリンピック候補であった。また、元プロ野球選手のビル管もいる。阪神とダイエーで一一年間プレーした捕手の岩切英司だ。引退後六年間の二軍コーチを経て、二〇〇二年よりビル管理職に就いた。〈在職一六年目に体調を崩し入院。ビル管理の仕事は辞めて(中略)二〇二〇年四月一〇日、タクシードライバー・デビューを果たした。〉(『週刊新潮』二〇二三年三月九日号)
 ビル管は、芸能やスポーツ、芸術に生きた人間の次の人生を受け入れる世界でもある。また、ビル管会社は、ビルを持つ会社に巣食う寄生虫のようなものでもある。宿主がなければ成立しない。しかしオーナー会社以上に、社員自体が寄生先の宿主でもある。だからこそ自由なのだ。
 ビル管は「やりがいがない仕事」と言われる。その理由は目標がないので達成感を持てない。創造性も必要とされない。ゆえに良い発想や考えが浮かんでも使いようがない。だが、今は一つの過渡期である。やりがいを創出していく。業態を変えるのである。
 千葉、埼玉、神奈川県は、東京都に住むより土地の価格は低く、また家賃も安い。衛星都市と呼ばれる東京都内の会社への通勤圏では、元々の地元住民のほか、どんどんと東京からの移住者が増加する。彼らは、初めは土地に馴染めないかもしれない。だが、地元住民と数において拮抗してくると、市議会議員も彼ら元東京都民からも生まれ、次第に発言権も増す。市の慣習やルールが、新参者の側に近づいて変更されていく。ただのベッドタウンではなくなっていく。人口比率が逆転して、元都民の市長が誕生してもおかしくはない。ビル管もまた、初めはサラリーマンのリタイヤ組の世界であった。今や自由業のセカンドキャリアとして注目され、彼らの登場によって、働くスタイルも、業態も変わりつつあるのである。
 これまでの新参者の在り方はどうであったか。サラリーマン世界に、自由業から来る者は、あくまで外様であり、余所者でありアウトローとして、最後まで変人枠を埋めて、腰掛け気分で人生最後の仕事を終える。そのスタイルしかなかった。だが、ビル管における元自由業者は、その数において、今や勢いが違う。不況の時代が後押しもしているし、何よりもともと自由業寄りに仕事内容が設定されている。隠れていた内容が知られてきて、そのことに気付いた自由業者の参入も増えた。外様のままで終わらずに済む可能性が出てきている。元サラリーマンに太刀打ちできる技量を身につけ、作業の重要ポストや現場の中心に位置してきている。だからこそ、私もいる。どんどんと変えていくために。
 ビル管は、第二の人生で野垂れ死にしないための、一つの方法論である。実のところ、元サラリーマン以上に、自由業者こそにお勧めなのである。ただし、この新旧の対立は、新参者である元自由業者が「目覚めている」側で、元サラリーマンが「目覚めていない」側であるのかは分からない。そのことを確かめるためにでも、今さらのモラトリアムが可能である。
 目覚めよ。そして来たれ!ビル管理へ。
(建築物管理)







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