書評/新聞記事 検索  図書新聞は、毎週土曜日書店発売、定期購読も承ります

【重要なお知らせ】お問い合わせフォーム故障中につき、直接メール(koudoku@toshoshimbun.com)かお電話にてバックナンバー・定期購読の御注文をお願い致します。

評者◆睡蓮みどり
共通点の多い映画二作――パオロ・タヴィアーニ監督『遺灰は語る』、ホン・サンス監督『小説家の映画』
No.3597 ・ 2023年07月01日




■ついに性犯罪に関する刑法が改正された。「不同意性交罪」という名前に変わり、同意がない性行為が犯罪になるということになった。時効も5年延長され、性行為の同意年齢も13歳から16歳に引き上げられた。グルーミングについても取り込まれた内容となった。なかなか実現しなかった刑法改正がついになされたことは純粋に嬉しいが、手放しに嬉しいとは正直なところ思えない。そもそも被害を認識するのに時間がかかると言われている性犯罪において、時効を設けることもおかしい。認識した瞬間から被害者にとっては地獄が始まるというのに、時効も何もないだろう。「被害者が13~15歳の場合、処罰の対象は年齢差5歳以上年上の相手の場合」だという。映画『ウーマン・トーキング』のなかでも、村の男たちから逃げる決意をした女性たちが、ティーンエイジャーの男の子について、置いていくか連れていくかどうするかという議論がなされるシーンがある。ティーンの男の子たちは十分に性的に脅威になるという意見が出てくることは非常に興味深かった。
 改正されたことで、残念ながら過去の事例には適用されない。過去の事例にまで適用されたら、どれだけ多くの「性犯罪」が出てくることだろう。そのくらい相手の同意も取らずに行為に及んだり、グルーミングやエントラップメント型の性犯罪が横行したりしてきたのだ。相手を人間とも思っていない人が実際に山ほどいる。ほとんどのケースは泣き寝入りするしかなかった。いまだってニュースになるのはよっぽど有名人が相手だった場合のみで、映画界や演劇界でもいまだに何事もなかったように普通に仕事をしている人たちがたくさんいることを知っている。嬉しい、でも……というのが本音だが、少しずつでも変わるしかない。変えていく責任が大人にはある。もうこれ以上、加害者も、犠牲者もいらない。

 今回取り上げる二本は、思いがけずに共通点の多い映画だった。小説家の話であるということ、そしてモノクロとカラーを織り交ぜた映画だということだ。最初にホン・サンスの『小説家の映画』について書いてみたいと思う。とくにシネフィル界隈で絶大な人気を誇っているホン・サンスだが、先にお断りしておくと私はホン・サンスが苦手だ。個人的にはまったくエリック・ロメールとも似ていないとも思っている。苦手だという言葉は不適切かもしれない。見ていて戸惑う、というほうがより近いだろうか。
 本作では、小説家と俳優という二人の女性のやり取りがメインになっている。後輩に会いにきたという小説家は偶然に知り合いの映画監督と出会い、さらに有名な俳優と出会い、その俳優は偶然後輩の本屋で開かれるホームパーティーのようなものに行く。さらにそこには小説家の知り合いの詩人が偶然いる。それぞれのアーティストたちに、著名な、有名な、カリスマ、などという形容詞が繰り返されるわりには、とても小さな町での出来事で、どこかユーモラスだ。小説家は突然、俳優とその夫を映画にしたいと提案する。映画と言っても、1日か2日で撮る規模の小さな映画のようだ。最近映画に出演しなくなった俳優に対して「もったいない」と言っていた知人の映画監督には「身の程知らずだ」「お金稼ぎの映画を撮ることだけが幸せ? それを撮らないからもったいない?」と小説家はつっかかっていたのに、自分の映画に出るようにと半ば強引に話を進めていく。構想を聞いても曖昧なことしか言わない小説家に対して、俳優は頷きながらも戸惑っているように見える。映画が完成し、披露試写のあとに映画館から出てきた彼女は何とも言えない表情をしている。オフィシャルの宣伝には「女性たちの人生の新たな章の幕開けの物語」と書いてある。それがどうもピンとこない。
 この小説家はまぎれもなくホン・サンス本人だろう。彼女にカリスマ性を見出したキム・ミニ演じる俳優はキム・ミニ本人だろう。離婚が成立しないまま互いをパートナーであると宣言した二人の私的な物語であり、それをなぜわざわざ女性同士の交流に置き換えたのかは疑問だ。確かに「女性映画」はある種の時代の流れかもしれないが。
 カメラはいつも少しだけ遠くから人物たちの会話を眺めている。客観視しているのではなく、まるで近づくのが怖いとでもいうように。私はこのような撮り方を、彼の作家性としてしまうのは「もったいない」と思うのだ。これは私の極端な解釈であって、ホン・サンスは私が説明するまでもなく作家としての揺るぎない一つの地位を確立しており、実際に評価もされてきた。本作でもベルリン国際映画祭で審査員大賞を獲得している。小説家がどんな映画を撮ったのか、その断片のイメージは出てきても、ほとんど映画自体は登場しない。物語というものに疲れてしまったとでもいうふうに「物語はさほど大事ではない」という言葉を小説家が発し、詩人がそれを否定する。一般的にはふたりの言葉は逆だろう。けれどやはり小説家=ホン・サンスがどんな映画を撮ったのか、が見たいのだ。

 『遺灰は語る』も小説家の話である。ルイジ・ノーベル賞作家ピランデッロは受賞から2年後の1936年にすでに亡くなっており、主人公はそのピランデッロの遺灰である。その時点で発想がすでに面白く、どうなるのか先に気になる。豪華な埋葬を拒否したピランデッロの遺灰の旅は続き、そこから見えるイタリアの戦後史についてまで語られ、話は広がっていく。独裁者ムッソリーニの手から解放され、シチリアに戻ってゆく遺灰はその旅路でさまざまなアクシデントに見舞われながらも、何とかシチリアへとたどり着く。映画の後半では、モノクロからカラーになり、ピランデッロが最後に書いた物語が映像として映し出される。物語と作家の遺灰の旅を巧妙に組み合わせるのではなく、何とも大胆にエピローグというかたちで映画のなかに登場させてみせるのだ。この潔さには少々驚かされる。濃淡のある奥行きのあるモノクロの画面に吸い込まれるように惹きつけられ、色鮮やかに変わっていく瞬間も、椅子に座りながらも身体に不思議な浮遊感が生じる。小説家の人生と、小説家の書いた物語が地続きであることを思わせる。
 本作ではドキュメント映像や古い映像を組み合わせながら、それと境界線を隔てずにどの場面にも生々しいほどにそこに生きている人たちが映っている。遺灰という既に人間ではないものが主人公でありながらも、それは確かにかつて人間だったものであり、人間と遺灰は別々のものではないということをここでも感じさせる。
 これまで兄弟で映画監督として活動してきた兄ヴィットリオ・タヴィアーニと弟パオロ・タヴィアーニ。本作は兄の亡き後、弟のパオロがひとりで監督を務めた。この映画は死者とともに存在している。死者とはピランデッロであり、戦争で亡くなった人たちであり、兄ヴィットリオであり、物語のなかで少年が殺してしまった少女である。むしろ生きているものたちよりも色濃い存在として、死者たちは画面のなかに漂っており、それは陰鬱な影ではなくむしろ灰が飛んでゆくモヤのように、明るく揺蕩っているのだ。見えないものまで見せてしまうタヴィアーニ、恐ろしくも美しく、どこまでも素晴らしい。
(俳優・文筆家)







リンクサイト
サイト限定連載

図書新聞出版
  最新刊
『新宿センチメンタル・ジャーニー』
『山・自然探究――紀行・エッセイ・評論集』
『【新版】クリストとジャンヌ=クロード ライフ=ワークス=プロジェクト』
書店別 週間ベストセラーズ
■東京■東京堂書店様調べ
1位 マチズモを削り取れ
(武田砂鉄)
2位 喫茶店で松本隆さんから聞いたこと
(山下賢二)
3位 古くて素敵なクラシック・レコードたち
(村上春樹)
■新潟■萬松堂様調べ
1位 老いる意味
(森村誠一)
2位 老いの福袋
(樋口恵子)
3位 もうだまされない
新型コロナの大誤解
(西村秀一)

取扱い書店企業概要プライバシーポリシー利用規約