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評者◆睡蓮みどり
男性と女性しか存在しない世界は居心地が悪い――ローラ・キヴォロン監督『Rodeo ロデオ』、マリヤム・トゥザニ監督『青いカフタンの仕立て屋』
No.3594 ・ 2023年06月10日




■LGBT法案についての議論がなされるときに、さまざまな議論がなされた一方で、曖昧なままの素案の表現に懸念を覚えた女性たちによる反対デモが起きた。女性というマイノリティの存在がないがしろにされてきたこの社会に対して、怒りを感じるのは当然だ。ただ一方で、当のトランスジェンダー女性が声を上げにくい構造が強まっていることには危機感を覚える。
 「女性用銭湯に男性器を持ったままのトランス女性が入ってきたら」。そんな議論が度々起こってきたわけだが、これは議論として雑すぎないだろうか。性転換手術を受けていないトランス女性が実際に女湯に堂々と入ってくるか、といったらやはり答えはノーだろう。かつて、お茶の水女子大学がトランスジェンダーの女性を受け入れるというニュースを知ったときに私は感動した。そもそも大学は誰でも自由に入れる場所ではない。試験を受け、面接を受け、という段階を踏んで入るという点で、公共のトイレや銭湯などとはちがうわけだ。
 「女性用スペースの排除」。これは確かに起こってはならない。女性たちの集まりにひとりでも男性が入ってくることにどれだけストレスや危機感を感じてきたか。そして子どもは当然守られなければならない。日本は若年の女性に対する性犯罪が多い国なのだ。これを踏まえて、いくら考えても考え過ぎなどということはない。ただ忘れてはならないのは、女装して入ってくる人、女性だと偽り入ってくる人、これらを公言したり実行したりするのは男性たちであって、女性ではないということだ。心が女性だと自称するおじさんは、実際に心が女性であるトランス女性とは全く別の存在で、前者は明らかな性犯罪者であり、そもそもLGBTQの存在を侮辱している。そこを一緒くたにするような発言や“議論”は、トランス女性をどれだけ傷つけただろうか。
 当然ながらトランスジェンダー女性は女性である。ジェンダーフルイドも女性であるタイミングがある。彼女たちは、女性のなかでもさらにマイノリティという立場だ。彼女たちの声を、生まれてきた性別に疑問を持たずに生きてこられた大多数のひとたちの声でかき消してしまってはならない。ジェンダーレストイレや入浴施設は増えるべきだが、一方でそのときに女性用スペースをなくしてはならない。これは両立することではないのか。何かをなくすのではなく、増やす方向にいく。そういうことのために税金を使えばいい。それが現時点での私の考えだ。



 男性と女性しか存在しない世界は居心地が悪い。監督のローラ・キヴォロン自身もノンバイナリー(自分の性を男性か女性かのどちらかに当てはめない性のこと)を公言しているが、主人公ジュリアのキャラクターからも、まさにそのような印象を受ける。文字通り、盗んだバイクで走り出すジュリア。そんなシーンから始まる『ロデオ』は衝撃のラストシーンへとひたすら疾走する。何にも媚びないジュリアの表情からは目が離せなくなる。男ばかりのバイク乗りたちの世界に迷いもなく
突っこんでいくジュリアの存在そのものが小さなナイフのようだ。本作が初演技だというジュリー・ルドリュー。彼女のために、役名も当初別のものを予定していたのが、ジュリアになったという。今作が長編デビューとなるローラ・キヴォロン監督は、かつてクロスビトゥームに写真家として参加したことがきっかけでつくり上げてきたコミュニティとの関係を、本作に活かしたという。ドキュメンタリータッチでありつつも、愛するものへと突き進むこの静かで情熱的な物語からは、何とも心地よい風を感じる。
 ヘルメットもなく、後輪だけで走る男性だけのバイク集団クロスビトゥーム。その美しくも危険なテクニックに魅了されつつ、ジュリアは不良たちの仲間になっていく。男性社会に切り込みつつも、男性・女性という二項対立に落とし込まない。そこに魅力を感じる。ジュリアは誰かの彼女になることも、オタサーの姫になることもなく、変わらず孤高の存在である。居場所を探してもがく。女としての闘いではなく、あくまでも自分自身でいるために闘う。そうは言っても、周りはジュリアを人間である前に“女性”だと認識する。ホモソーシャルな集団のなかでの「異物」としての彼女は、不当な暴力を受け、暴言を投げかけられる。それでも、思いがけず亡くなった仲間の存在を思う気持ちや、不良グループの親玉ドミノの妻と子どもへのシンパシーを深めていく。軽薄な友情も安っぽい恋愛ドラマも全て拒絶する一方で、軽やかに魂の交流を描いてみせるこの才能に惚れ惚れする。注目の新人監督だ。



 前作『モロッコ、彼女たちの朝』で魅了されてから最新作を心待ちにしていたマリヤム・トゥザニ監督の最新作『青いカフタンの仕立て屋』。前作と同様に、モロッコに暮らす人々を繊細かつ優しく映し出す。前作の伝統的な街のパン屋から、今回はカフタンという伝統的な衣装をつくる仕立屋が舞台となった。伝統的な衣装をつくる一方で、人間関係は伝統的な夫婦の関係性とは異なる。
 ミシンでつくるカフタンが主流になっていく時代に、ひと針ずつ丁寧に縫い上げていく職人のハリム(サーレフ・バクリ)と、彼を尊敬し支える妻のミナ(前回に引き続きルブナ・アザバル)。そして、新しく店にやってきた若い助手の男性ユーセフ(アイユーブ・ミシウィ)。優しい光のなかで時は残酷に進んでいく。とても穏やかな空気感のなか、ヒリヒリするシーンが何度も登場する。ユーセフに嫉妬するちょっとしたミナの意地悪さ、幼い頃から人に頼らず生きてきたユーセフの諦めを漂わせるような目つき、愛情深くも罪の意識を抱え、苦しそうに言葉を飲み込むハリムの表情。誰かを愛するが故に苦しくもなり、またそれでも愛することを諦めない人々の生き様に胸がぎゅっとなる。
 異性愛しか許されない社会のなかで、偽ることしかできないとしたら。しかしそれを簡単に偽りと言ってしまっていいのだろうか? 性愛が愛の全てではない。自分からハリムにプロポーズしたと嬉しそうに話すミナ。女性からのプロポーズは主流ではなかっただろう。それでも尊敬し愛する人と一緒にいられる喜び、そこから芽生えた互いを思いやる気持ち、そういったものは愛以外の何ものでもない。愛する人が思うような方法では自分のことを愛してくれないとしても、それは愛が不在なのではない。さまざまな愛のかたちがあり、自ら愛することを恐れない強さをミナは言葉にする。同性愛が当然に受け入れられる社会であれば、ふたりはパートナーにはならなかったかもしれない。長年連れ添ったからこそ、言葉を多くしなくも分かり合えることがあり、二五年という月日がいま目の前にいる相手を尊重するという愛情のあり方に少しずつ変わっていったのだろう。それだけでかけがえのない素晴らしいパートナーのひとつのかたちだ。現代でも夫婦は恋愛の先に存在するものだということが頑なに信じられている。しかし、果たしてそうだろうか? 限りなく友情に近い夫婦の存在だってあるだろう。友情だとか恋愛だとか、わざわざ分ける必要は、本来ないのだ。美しいカフタンが出来上がっていくのと対照的に、細く消え入るミナの命。丁寧に縫えば決してほつれることのないという手縫いの刺繍のひと針が、ふたりの強い結びつきを窺わせる。そしてそれはきっと受け継がれていくのだ。
(俳優・文筆家)







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