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評者◆稲賀繁美
近代移民事業とトラホーム――「野蛮」と「文明」との分別指標としての感染病
No.3594 ・ 2023年06月10日




■トラホームという眼病がある。細菌感染による慢性的な結膜炎として知られ、悪くすると失明に至る。日本でも猖獗を極め、賓頭盧尊者に肖れば平癒するとの民間信仰から、尊者を祀った寺社の銅像を患者が撫で回したため、かえって病気が蔓延した禍事も知られる。
 文明開化の近代、それも世紀末を迎えた明治30年代以降、この眼病は文明圏と野蛮な未開地とを切り分ける指標となる。日清戦争期に出兵した兵士が、衛生状態の悪い派遣先で罹災し、それが持ち帰られて日本で流行を見た。――そう初期の眼科医として著名な井上豊太郎(1861‐1951)は述べる(1898)。豊太郎といえば、日清戦争にも従軍した森鴎外「舞姫」主人公の名。ともミュンヘンに留学したふたりの医療従事者には交流もあった。
 豊太郎が帰国せずにエリスとともに南米に移住したら? その可能性は西成彦氏の『世界文学のなかの「舞姫」』が提示する。実際、日本からの南米移民にトラホーム罹患者の少なからぬことが、検疫上で問題を起こしていた。井上豊次郎は早くも1903年には「布哇(ハワイ)行」移民検疫に立会い、時に100名を超える罹病者が本国送還となる実態に憂慮を示していた。
 20世紀初頭は、北米合衆国で「日本移民排斥」が顕著になり、日本人海外移民が南米に新天地を開発した時期に重なる。「墨西哥」(メキシコ)、「玖馬」(キューバ)、「伯刺西爾」(ブラジル)、「亜爾然丁」(アルゼンチン)など、中南米でも1927年頃から移民入国者に対する検眼が励行された。「合法的」に移民の増加を食い止める方策として、検眼による結膜炎の確認はもっとも簡便容易な検査法であり、文明「半開」の「黄色人種」は格好の標的となった。
 石川達三が小説『蒼氓』(1935年第1回芥川賞受賞)の取材で南米移民船らぷらた丸に搭乗したのは1930年。ここにもトラホーム患者の話題が見えるが、同時期の著名な事件としては、プリンストン大学出身の慈善家として名高い賀川豊彦の一件がある。1935年、サンフランシスコ上陸に及び、賀川は慢性トラホームと診断され、入国を拒否される。背景には、南米移民船りおで志゛やねろ丸で麻疹患者ほか20余名が死亡した事件(1933)も想起される。賀川の乗船・秩父丸Chichibu‐Maruは当時、太平洋横断航路に導入された新造船(1930年就航)だった。
 この1930年代中葉、日本からのブラジル移民が急増する一方、ブラジル側ではヴァルガス政権独裁体制が固まり、国粋主義の高揚とともに、外国からの移民への規制も強化されつつあった。在留邦人有識者に日本外務省からの支援もあり在伯日本同仁会に「トラホーム撲滅部」が設けられたのは1936年。同年、世界ペンクラブ大会に日本代表として出席した島崎藤村が現地で揮毫して残した万葉歌碑が、サンパウロのサンタ・クルス地区に現存する日本病院の庭に、今も残る。それは「文明国」からの移民たる矜持を示す示威献策だった。
 最後に蛇足ながら付け加えよう。日本敗戦後、講和条約により再独立がなった時期の1954年、北米ミズーリ州では、住民の10%がトラホーム患者であることが報告され、社会問題となる。ミズーリといえば、日本がその甲板のうえで降伏文書に調印した米国戦艦の名。いまでもハワイのオアフ島真珠湾に記念艦として繋留されている。「文明の裁き」の「目に見える」指標markerとなったはずのトラホームは、「未開」と「文明」との線引を乗り越え、人類の生息区域に差別なく「旅する」感染症の実相を照らし出す。全球的世界史の実態を立証する反優生学的・地政学的な立役者こそ、世界に跳梁跋扈する感染症だったのではあるまいか。
*アストギク・ホワニシャン「「旅する」感染症:近代日本に於けるトラホームと移住」JSPS20H04413:代表者・根川幸男による学術セミナー(国際日本文化研究センター、2023年3月13日)での筆者の口頭質問に基づく。講師、研究代表者からのご教示に深謝申し上げる。なお安井眞奈美・ローレンス・マルソー(編)『想像する身体』臨川書店・上下2巻、2022年、も参照されたい。







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