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評者◆凪一木
その190 競馬ブーム
No.3591 ・ 2023年05月20日




■身体が続く限り現場にいてくださいと言われて仕事を続けている人も多いのがビル管理業である。上限のない世界。しかし、設備の近藤のように、トラブルメーカーのくせに、頭が弱いのが功を奏して、クッションのように、現場に埋まっている者もいる。
 近藤が最初に働いた現場は寄せ人足のタコ部屋だ。チンチロリンで巻き上げられた口であるから、ギャンブルの海には漬かっていた。
 近藤の一八番は、一九九三年にトウカイテイオーが勝った有馬記念の話だ。十万円を単勝で買い九四〇円付いたという。ざっと八四万円を儲けた。四〇~五〇万の儲けは何度もあるが、パチンコで勝った話も、痛快だ。電気工事時代に時間が余ったので、ふらりと寄ったら四時間で四〇万円。
 こういった話を仕事中に気を遣うわけでもなく、べらべらと喋るものだから、同僚らは、元々何かで失敗した連中ゆえ、それぞれのトウカイテイオーがいて、マルゼンスキーがいて、グリーングラスがいる。結局、多くの者が競馬に戻っていく。またはさらに拍車が掛かっていくのである。
 一人だけ、この世界には珍しい切れ者がいる。向かいのB省にも最高の切れ者がいた。法律系大手の元出版社員だ。都道府県や市町村、大学、会社の記念誌の編集を得意とし、組合活動でも活躍した。だが、A省の彼は法律屋を上回る切れ者で、世の中の酸いも甘いも、裏も表も、芸能や反社会系も含めて、闇社会も齧っている。当然大きな勝負をしてきた。やはり有馬で、自身が二〇〇万、同棲していた女性が二〇〇万、話に乗った友達が二〇〇万同時に当てた。この二人の影響で勝馬投票券が伝染している。
 前のビルでは、元証券会社の責任者マーシーの影響で、株がブームとなった。あのサイコパス男の最古までもがのめり込んだ。にわか株屋のくせに最古は、昔からやっている風を装って、マーシーを前に墓穴を掘っていた。短期間でかなりのカネを投じたようだ。
 設備の近藤は、お金に関して、あまりに雑だ。シェル石油時代から稼ぎは良かったのに、ギャンブルにつぎ込んだ。一五年前に突然、名古屋の警察から電話が来たという。音信不通だった兄が死んだという知らせだ。アパートで一人死んでいた。戸籍などから辿って、東京にいた近藤に行きついた。弟がいたが、彼も行方不明だった。「名古屋に直ぐには行けません。冷凍庫で何日ぐらい持ちますか?」「四ッ日間ぐらいですね」「じゃあ、四日後に行きます」。二〇年以上会っていなかった兄の顔は、見ても分からなかったという。葬儀も挙げず、骨も要らないからと、さっさと寺に任せて帰ってきたら、二九万円の請求が来たという。「損した」と盛んに繰り返す。実はその話は、兄の死がメインではなく、損をしたという話なのだ。
 馬鹿とは付き合いたくない、という感覚は、誰しも持っていると思う。そのときの基準では、自分は馬鹿ではない方に位置するのは当たり前だろう。自分が馬鹿なら、付き合いたくないという選択をする立場にないことになるからだ。では、相手は自分が付き合いたくないと思われる馬鹿だという自覚があるだろうか。ほとんど全部の人が無いだろう。
 このことに思い至ったとき、付き合わないということ自体はいいけれども、付き合わざるを得ない場面の必ず出てくるのが人生であり社会である。
 知り合いで、金銭的には生活ができ、社会との付き合いをそもそもが好きではないゆえに、最低限の生活をしている者がいる。それでも、全く付き合わないで済むというわけではなく、つまらない因縁を、彼が言う下らないやくざのような人物から付けられることになる。どんなに引き籠もっていても、街には出ざるを得ない、病院などは仕方がなくいかざるを得ない。それゆえ、嫌なものを目にしてしまう。嫌なものとは、いわゆる彼の考える(概ね当たっているだろうが)馬鹿による馬鹿ゆえの振る舞いだ。彼は、とばっちりを受ける。間違うと死ぬことになる。それゆえに、出合頭の近藤は、必要悪のようなものか。
 私もかつては競馬が好きだった。九四年に高木功が死んだ。自殺だともいわれている。追い詰められた状況下での急死であったことは間違いない。グレート金山というボクサーが、あまりにも不公平な判定によって、ショック死したのに似ている。高木功は、映画『コミック雑誌なんかいらない』の脚本家だが、私にとっての高木は、『映画芸術』という雑誌で、私の前のページに同時連載していた人として「隣同士の仲」のつもりでいた。
 九三年末に私は、その『映画芸術』忘年会に出席した。見知らぬ男が、出席者のだれ彼となく、尋ねていた。「今日の有馬記念は何が来た?」。
 それが高木だった。しかし誰も答えられない。私はビックリした。映画関係者が集まる会であったが、競馬の、しかも年間最後の、人気投票で決戦される「有馬記念」に関心のある人間がいないというその業界についてである。映画人は競馬を見ない。嫌な気持ちになった。そのときの私はもう、競馬を離れて随分と時が経っていたが、それでも有馬記念ぐらいは見ていた。
 「トウカイテイオーとビワハヤヒデが来た。ウイニングチケットは、ダメだった。皇帝ルドルフの息子トウカイテイオーが、やはり復活した」。そんな会話を高木とした。それは、レース後、ビワハヤヒデに騎乗した岡部幸雄に、「あの馬(テイオー)に負けるなら仕方がない」と語らせた激走であり、帝王伝説を見せつけた最後のレースであった。
 約三〇年後に、設備の近藤は、一万三〇〇〇円を買って、枠連と馬連と単勝を当て、目の前で一〇万円ほど儲けた。翌日の大井競馬場も当てた。年をまたぐと、今度は切れ者が当てる。
 一月九日中山四日目一一RフェアリーSと、中京四日目淀短距離Sの両方を買っている。馬連で三七九五〇円。買い方は、「社台ファーム」の一番弱い馬から流し、どちらのレースもそれが二位に入り、一位が人気薄なために配当が多く付いた。
 二着に入ったカルネアサーダは、一五頭中唯一の白毛で、オグリキャップのように見分けがつきやすく、また先行馬でもあったから、レース展開は、さらに面白かった。五三歳の武豊が六着に入っている。もっとも勝った幸英明も三日後に四七歳だ。三着に二一歳の斉藤新が騎乗のトキメキは一三番人気で、三連単では三五六万四二二〇円が付いている。一〇〇円買って三五〇万円だ。年収分を、日曜の昼下がり、わずか一分七秒のレースで稼ぐ。ドストエフスキーも最後は賭け事にのめり込んで死んでいった。
 ビルの地下で、私はいったい何を見ているのであろうか。人生が終わっていく。
(建築物管理)







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