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評者◆凪一木
その184 もう作家ではないのか。
No.3585 ・ 2023年04月01日




■アマゾンに、自分の本の最初のレビューが上がった。以下のものだ。
 〈素人の自分が知ってる以上のことは書かれていない。書かれているのは彼らを「可哀想」という上から目線の優越感でしかなかった。せめて調べて(中略)関係者に取材して何かを書けよ。わからないんだったら、書くなと思った。中途半端に書くなら触れないでくれ。(中略)逃げるなよ。自分をもっと曝け出して描いてくれ。〉
 逃げるなよ。とある。これは私の中心線だと思うのだが、逃げるものだと思っている。本は、本当のことは書けない。そんなものを見たことがない。
 本当に幸福な者は、それを語らない。語る必要がないからだ。自分は幸福だと語ることそれ自体が、不幸の現れそのものである。私の文章は、有名無名を壊すためにやっている点が裏テーマとしてあり、有名性に意味を見いだしたい人間ほど、傷つけられた気持ちになるのだろうことは推察できる。
 世の中で悪事とされているのは、本来ならば、倫理的な面から「正常」を逸脱しているもののはずだ。だが実情は、その時代の国家や中心的役割を果たす集団の「秩序」を逸脱しているものとなっている。呼吸をするように日常的に嘘をつくサイコパスのような、法とも倫理ともずれた人間を別とすれば、少々の嘘をつく人間の方がいわゆる正直者と、私には思われる。
 小説を書いたり、映画を撮る仕事にたずさわる人が、題材として犯罪や悪を扱うのは、対象に興味があるというよりも、自らに興味があるからだ。犯罪者と紙一重ということだが、それ以上の言及は差し控えている。
 この嘘というものは、人類の作り出した物語であり、宗教であり、国家であり、「現実と呼ばれるもの」と思い込むための幻想だ。これが形を変えて、詐欺や芸術や経済活動や政治となる。つまり、かなりの完璧さで嘘を吐かない者は、「正しい」とされるものに近付けることのできる技術に長けていて、世の中の「正直者」とされるイメージにも近付けることのできる人間である。それはむしろ、最も嘘を吐き続けている人間とも、私には考えられる。
 本来の人間なら、むしろ誤謬や間違いや勘違いを含みながら生きている。失敗だらけである。辻褄の合わないことの方が多いはずなのだ。整合性の過ぎる者は、どこかで補強し、補完し、それは間違いなく「他人には見えない」嘘で塗り固めている。
 以上のことを本気で追求するものこそ「本物の」文学であり映画なのだが、照れや遠慮、恥ずかしさ、或いは「本物の悪人」も混じっていて、なかなかに「本物」は生まれない。
 ある種の嘘つきが、(世の中で)作家や映画監督を職業として生きるのは、将棋や囲碁の達人が、素人に相対するようなものだ。大人が小学校に通い、一流のマジシャンが、大掛かりなイリュージョンマジックを使って万引きをするようなものか。後ろめたさがあるはずだ。円高で海外格安ツアーに出掛けていたのも似たような行為だ。犯罪者やアウトローの不安や危険を知らずには描けない。だが、そのことをそのまま「書けない」。
 映画『母さんがどんなに僕を嫌いでも』で、主人公に向かって白石隼也はこう台詞を吐く。
 「誰だって欠陥ぐらいあるよ。欠陥があることも含めて、人間って完璧なんじゃないか」
 それでも人は、その欠陥に目をつぶれる者とそうでない者とがいる。たとえほんのたまに起こる虐待でも、その一回で一生の傷になりうる。
 私は、このアマゾンの評者のためには書いていない。ゆえに期待に応えていないのだろうが、「出来ないこと」を求められても無理なのだ。取材することに意味を持っていないという点が、多くの取材作家と私との違いだ。取材がより事実や真実に近づくというが、個人的な動機の無い者の取材こそ上手な奢りの補強、となる。有名性に興味がない。スタイルやジャンルを決められて、これはノンフィクションでもなければ小説でもない。エッセイですらないと、私の場合ずっと言われてきた。開き直っていうと、「それでも良い」という人向けでしかない。その説明のために書いているメタ構造もあり、いつまでもこの命題は付きまとう。
 評者は、著者以上に凄いものを求めている「凄い」人間なんだと言いたいのか、いずれにしても一つの表明である。匿名ではあるが、言いたいだけは言いたいのだろう。題材に興味があって、著者には興味がない者もいる。
 表現者は、表に出る以上は、顔を曝す以上は、良くも悪くも矢が飛んでくる。その批評にどれだけ愛情があるか。人間に対する親和性があるか。単に自分の狭量な期待や欲望に応えていないとか、その立場にない嫉妬や過剰な思い込みからズレているとか、巻き込まれて意味の無い評もある。
 「だから表現者になど成らないのだ」という同僚のサラリーマンたちの声なき声が聞こえてくる。彼らはそういうことを思っても言わないし、言うこと自体が一つの表現であり、それすら嫌がって生きている。だが、匿名でならば、何をか表明している場合がある。私を気に食わないと思っている同僚のような存在が書き込みをしているのかもしれない。
 それでも人に伝えたくなるほど、映画を観て感動したとする。どうしてもあの人に観てほしい。その相手が、友だちなのか、恋人なのか、大切な誰かだとする。もし、自分が映画監督だったらどうだろう。出来ればその「伝えたい」映画が、自分の作品だったなら、それは幸福なことだ。
 どうしても、彼に、彼女に、読んでほしいと思うその本が、作家なら自分で著した本でありたい。ならば、そういうものを自ら著せば良いではないか。一応はそう思う。だが、ことはそう簡単ではない。
 他人の作品だからこそ、「観てほしい」とか「読んでほしい」という感覚になるのである。自分の作品というものは、どうしたって自分が半身であれ、一部であれ、入り込んでいる。目立ってしまう。しかも見映えのデフォルメによる嘘も含めて混じっている。手放しで「観てくれ」という他人の作品とは、違うものに出来上がっている。そうとしかならない。
 もっと人が喜ぶものを、嬉しがるものを、心地の良いものを産み出すことは出来ないものか。私が面白がって他人に観てもらいたがっている作品は、他の作物の作者自体が「こう受け取ってほしい」というものとは違うものになっているであろう。取材はしている。それが形として見えないのは、スタイルとしての逃げ(取材の否定)を提唱している姿とも言える。
 批評に耐えられないなら、作家ではない。
(建築物管理)







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