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評者◆睡蓮みどり
しばらく口紅は塗れない――パトリス・ルコント監督『メグレと若い女の死』、ダニエル・シュミット監督『書かれた顔 4Kレストア版』
No.3584 ・ 2023年03月25日




■日本アカデミー賞に続いて、本場アメリカのアカデミー賞も発表された。思い返してみると、最初に本紙に記事を書いてから一〇年以上(そんなに経ったとは……!)のなかでアカデミー賞についてきちんと書いたことは記憶の限り一度もない、というくらいに私のなかではそこまでありがたいものではなかった。それに私以外のひとたちがこぞって書いてくださると思うので、今回も特には書くつもりはないのだが、ハーヴェイ・ワインスタインによる映画界の性暴力を暴くニューヨーク・タイムズの記者たちを描いた『SHE SAID/シー・セッド』がどの部門でもノミネートすらされないという事実は忘れずにいたい。
 ところで、昨年の三月二六日に発売の本連載(三五三七号)で映画監督による性暴力の件を書いてから約一年が経った。ストレスの多い一年だった。もともとあった白髪もすごい勢いで増えた。何十歳も歳をとった気分だ。ストレスが多いとは言っても、ストレスの原因がわかっていることは救いでもある。精神が不安定だった二〇代の頃、私はその理由を自覚できなかった。あるいはしたくなかった。現在は、通院のおかげもあるのか、昔起こったことを思い
出せるようになってきている。思い出す作業は、これはまた辛くもあるのだが、私にとっては自分の記憶が曖昧で信用するに足らないという方がずっとストレスだった。一つを思い出すと芋づる式に記憶がするすると出てくるから不思議だ。思うことを書き出すとあっという間に文字がいっぱいになって映画について書けなくなってしまうので(昨年も書いたが、この連載は素晴らしい映画について書く貴重な場所なのだ)、少しだけ。私は書くこともやめないし、映画界の片隅に居続ける。せこい脅しに屈することも恐れることもないし、ここにいる限り卑劣な人間には毅然としてノーを言い続ける。それから、いつも支えてくれるパートナーと家族や友人たち、寄り添ってくれた全ての人にも心から感謝したい。

 それではここからおすすめの映画『メグレと若い女の死』についてです。日本でもお馴染みの“メグレ警部”の物語を映画化したのはフランスの名匠パトリス・ルコント。約三〇年前の作品『仕立て屋の恋』と同じくジョルジュ・シムノンの小説を映画化している。日本のミニシアターでもヒットした『髪結いの亭主』にも見られるフェティッシュな官能と知性が漂うパトリス・ルコントの丁寧な描き方は健在で、一瞬たりとも目を閉じずに凝視していたいという欲求に駆られる。思わぬ小雨に遭い髪がしっとりと濡れたような、ゆっくりと、小さなよく切れる刃物の先端で気付かぬうちに肌を傷つけられたような生々しさを感じ入る。
 冒頭、半裸の若い女性が胸を手で覆い隠して不安そうに立っている。対照的に映し出されるタンクトップ姿の不満げなメグレの巨体。最初からこの映画は不安を誘う。そしてふいに彼女の死は訪れる。ドレスを身に纏った血まみれの状態で。観客は彼女に何が起きたのか、そのほんの一部を垣間見ている。けれど、どうして彼女が血まみれになってしまったのか、そして不穏な人間関係についてはわからない。婚約した身分の違うカップル、万引きした別の若い女性の存在、この世を去ってしまった名前もわからない彼女のこと。謎に満ち溢れているものの、どのように“殺人事件”が起き、その動機は何であるのかという謎解きは、徹底してスキャンダラスな方には流れていかない。その真逆をいく。そんなことを許さないと言わんばかりに、メグレ警部や彼の妻の上品さが、温かな眼差しが、厳しく存在している。死んでしまった彼女も、婚約した端役女優の彼女も、万引きした彼女も、若い彼女たちは皆、自分自身が誰であるのかという謎を隠しておきたい。そこには後ろめたさがつきまとっているからだ。メグレは彼女たちに説教めいた言葉も送らないし、その後ろめたい気持ちを身ぐるみ剥がしてやろうなどと思ってもいない。ただ、彼女たちが一体何者であるのかを、静かに、深く知ろうとする。なぜ彼はそう思うのだろう。もっと知りたかったが、知ることさえ許されなかった我が子への罪悪感なのだろうか。特にラストのメグレ警部の存在そのものの描写は、死者へのシンパシーを感じさせ、胸が震えた。こんな方法で、死者たちへの弔いを表現するのか。恐れ入りました、という他はない。

 続いて、一九九五年に劇場公開当時、ミニシアターを中心に話題となったダニエル・シュミットの『書かれた顔』。4Kレストア版として現在、渋谷ユーロスペース他で公開されている。言わずと知れた歌舞伎界の女形を代表する坂東玉三郎が「女を演じる」ことについて考察することからはじまり、名優・杉村春子、日本最高齢の芸者・蔦清小松朝じ、舞踊家・武原はん、現代舞踏家・大野一雄と、それぞれ女性を演じる人々の語りと芸を本作を通して体感する。玉三郎が語るように自身の自覚は男性であるからこそ、客観視して女形に取り入れていくという話は興味深い。
 ドキュメンタリーパートの間に挿入される「黄昏芸者情話/トワイライト・ゲイシャ・ストーリー」(ドラマパートは青山真治が助監督を務めている)では、宍戸開と永澤俊矢演じるふたりのヤクザ風の男が芸者である玉三郎を取り合うという三角関係が描かれるのだが、ふたりの間で困りつつも、どこか嬉しそうな玉三郎の表情には美しさのなかに奇妙さが混在していた。玉三郎自身の語りをはじめとして、本作はどこまでが本当でどこからが嘘なのかを曖昧にするのだが、おそらく玉三郎というひとは嘘がつけないタイプなのだろうとも感じさせるから不思議だ。ドラマパートで奇妙だと感じたあの表情は演技ではなく、まるで本心に近いものを垣間見てしまったような気がしたのだ。そしてそれは歌舞伎の女形としての玉三郎とも違う存在感だった。見てはいけないもののような気がした。歌舞伎の劇中のシーンの引用の長さからも、まるで惚れ込んでいるような、凝視するかのようなカメラワークで、男たちを惑わす“女以上の女”としての恐ろしさのようなものが滲んでいるように感じた。美しくも恐ろしい映画であることは間違いない。女形へと変わる白塗りの化粧の素早さとあの紅の差し方を見て、私はしばらく口紅を塗ることができないと思った。
(文筆家・俳優)







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