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評者◆関大聡
私的パリ感覚――キャラバンは進む、だが犬はいつまで吠え続けるのか
No.3579 ・ 2023年02月18日




■二月一日。オペラ『トリスタンとイゾルデ』@バスティーユ劇場。二度の幕間を含めて五時間超の長尺に及ぶこの楽劇の緊張の糸は、複数の矛盾の感情により支えられている。アイルランドの女王イゾルデと宿敵コーンウォール王の甥トリスタンは互いを憎しみながら恋に落ちる。愛を貫くかぎり、二人は忠実な従者や友人、善良な王を裏切り続けるのだ。さらに言うなら彼らが恋に落ちたきっかけは誤って媚薬を口にしたことにあるが、ワーグナーはあたかも媚薬のような陳腐な仕掛けさえあれば真実の愛を描くのに十分と言わんばかりでもあり、まったく逆に、彼らの真実の愛など結局は媚薬がもたらす偽りの興奮に過ぎないと露呈させているようでもある。憎悪と愛情、忠実と裏切り、真実と虚構、すべての矛盾。ピーター・セラーズによる演出は舞台中央に長方形の台ひとつを据え、歌手も目立たぬ衣装を着込む、徹底して虚飾を排した姿勢である――だが、その舞台上部に虚飾の塊のような映像作品が映写されるのは、これが近年のバスティーユ劇場の(ないしオペラの現代的演出の)常数とはいえ、いささか趣に欠けた矛盾とも思えるのであるが。
 一月八日。企画展『モリエール、真実と虚偽の戯れ』@仏国立図書館。モリエールの生誕四百周年に当たる二〇二二年には、コメディ・フランセーズを中心に劇作家の主要作品が上演され、私も『人間嫌い』や『守銭奴』を観た。国立図書館の小規模企画展では、モリエールの虚実入り混じる素顔に、画家による肖像画や歴代の演出家による解釈、役者たちのポートレイトを通して迫ろうとする。なかでも目を惹いたのが、断片映像が上映されていたアリアーヌ・ムヌーシュキン監督による映画『モリエール』(一九七八)である。前篇では幼少期から南仏巡業に出発するまで、後篇ではパリ帰還からルイ十四世の庇護下での成功、権力争いや劇団内部での分裂、深まる孤独の死までを描いた、四時間超の決定的作品である。民衆演劇にルーツをもつ劇作家としてモリエールを提示する本作品で圧巻なのは、醜悪な神学者たちにより禁じられたカーニバルが自然発生的に祝祭と転覆の企てに変貌する場面だ。しかし祭りは間もなく弾圧され、まだ法学部の学生だったモリエールも追手を逃れる。その逃げ込んだ先で彼は、それ以来生涯の情熱を捧げるもうひとつの祝祭の場、演劇を発見するだろう。

 一月二十日。演劇『金夢島』@カルトゥーシュリ。一九六四年に旗揚げされた太陽劇団――座長は『モリエール』の監督アリアーヌ・ムヌーシュキンその人だ――が、ヴァンセンヌの森の深く、旧弾薬倉庫(カルトゥーシュリ)を改装し拠点としたのは一九七〇年のこと。それは六八年五月革命という現実の祝祭のあとに、演劇による虚構の祝祭を継続するという確たる意志の表明だったように思える。しかし、五月革命が現実の、しかし同時に「想像力の」祝祭であったように、太陽劇団の祝祭も現実と虚構、真実と虚偽のあいだを攪乱しつづける。拠点設置後の初公演『一七八九年』(一九七〇年)は、「フランス革命を劇場に現前させる」という型破りな試みであり、円形舞台に観客を取り巻かせ、彼らをバスティーユ襲撃に参加させるという奇想天外な企てを通して、渡邊守章の言葉を借りるなら、「観客の身体的条件づけそのものを集団的創造に組み込むこと」に成功した。他方で、これは革命の演劇であると同時に、「革命はいつ終わるのか」に関する演劇であり、革命の恩恵に浴した当事者たちが「革命は終わった」と宣告するたび、心は折れ、条件はより困難になりながらも、その困難を継続しようとする意志に関する演劇である。
 本連載の共同執筆者である福島亮を誘い、最終的にはアルトー研究者の知人と三人で劇団の新作『金夢島』を観たのは、私に太陽劇団の存在を最初に意識させたのが福島だったからであり(星埜守之氏のゼミ中の雑談だった)、会えばいつも刺激的な長話になる彼とも「何かを一緒に観る」という体験を共有したことはほぼなかったからだ。そして実際、太陽劇団の作品ほど「何かを一緒に観る」という体験に意味を感じたことはないし、飾らない言葉を使うなら私はひどく感激して一気に魅了されていた。パリ郊外ヴァンセンヌの森は遠くて最初及び腰だったが、都市の喧騒から離れスペクタクルに没頭するには、それも必要な条件だと今では分かる。
 『金夢島』は日本の佐渡島を一応の舞台とした作品である。「一応の」と言うのは、コルネリアという女性が病床で幻覚的に見ている虚構の幻影としての日本、という枠組みがあるためで、リアリズムは基本的に排されている。そこで演劇フェスティバルを企画する女性市長の山村と、島をリゾート施設に変えカジノを設営して巨利を貪ろうとする助役たち、さまざまな政治状況を抱えながら興行を実現しようとする各国の劇団が現われ、舞台はめまぐるしく進む。島=演劇=ユートピアという図式は、たえず脅かされ、なかば存続不可能なものでありながら、廃墟としてそこに横たわっている。
 二〇二一年に予定された来日公演は感染病により中止されていたが、今年十月に東京芸術劇場で公演が行われると近日発表された。太陽劇団の公演としては、文楽を用いた『堤防の上の鼓手』(新国立劇場)から数えて二二年ぶりとのことで、筆者としては是非足を運んでほしい。そもそも太陽劇団=ムヌーシュキンと日本の結びつきは深い。劇団を旗揚げする前の一九六三年、彼女はアジア各国を旅するなかで日本を訪れ、そこで大衆演劇を発見したことが彼女の劇作に決定的影響を与えた。二〇一九年には京都賞を受賞し、記念講演は日本語通訳付きで視聴可能である。過去作へのアクセスは難しいが、映像作品の上映会はたまに行われており、いずれも長尺だが、腰を据えて観る甲斐があるのは疑いない。
 劇や演出について多言は慎むが、個人的に面白いと思った点をひとつ。舞台が始まる前、黒子が現われ「公演中は携帯電話をオフにして」と呼びかけるのはどこでも同じだが、その直後に電話が鳴り始めた。隣の席にいた客も「信じられない」と不快げであったが、何のことはない、それは黒子本人の携帯で、演出のひとつであった。映画でも演劇でもオペラでもいいが、スペクタクルを楽しむ人間にとって、上演中の携帯電話の音は大敵であり、想像の世界への集中から身を引き離す「反=ユートピア」である。現代の演劇の困難さは、『一七八九年』のように観客を舞台に引きずり込むどころか、客席のノイズによって舞台から引きずり降ろされるところにある、とすら言えるかもしれない。それもまた「想像力による革命」をより困難にする一因なのだ。劇中でも電話は重要な舞台装置として用いられ、舞台上での会話を絶えず阻害する。だが、そのような外からの干渉に何度も苛立たされたあとの後篇で、幻想の日本を夢見るコルネリアがフランスの老人養護施設にいる母親とビデオ通話をする、特異点のような場面が訪れる。ペストに似た病が猖獗を極め、佐渡島を除く世界がロックダウン状態に陥るなか、養護施設への訪問は禁止され、母の九十歳の誕生日を祝うにも、電話に頼るしか手段がない(ましてや「日本」にいる彼女には!)。電話という遠隔伝達装置が、ユートピアの場(トポス)自体を危機に陥れながら、ひとを救うものに反転する。そんな瞬間を作り出すのは、困難を創造の条件に変える太陽劇団の技芸そのものを見る思いであった。『堤防の上の鼓手』の登場人物のひとりは、「危機のあるところに救いもまた育つ」という詩人の言葉を引用していた。矛盾の反転する可能性なくして、ユートピアの創造、というか創造一般は不可能なのだ。
 一月二七日。オペラ『声』@フィルハーモニー・ド・パリ。ジャン・コクトーは『声』(一九三〇)の序文にこう書いている。「構成は一幕のみ、寝室が一つ、登場人物も一人、恋愛、そして現代の器械のうちから最もありふれた小道具を一つ、つまり電話機である」(渡邊守章訳)。見られるとおりごく簡素な舞台で、電話という近代メディアを中心的な装置として用いた先駆け的作品であり、フランシス・プーランクが一九五九年にオペラにした。ソプラノはヴェロニク・ジャンスが務め、リール国立管弦楽団と共演した本公演はすでに音源化して配信されている。電話越しの恋人に絶望的に縋る女性という設定はやや古いが、歌唱は美しい。教訓‥いつの世も人は長話を好むが、どこかで区切りは必要である。

 前回告知されたように、次回三月の福島による連載が「ふらんす時評」の最終回となる。私の方でも、ここで自分なりの総括をしてみたい。
 サルトル研究者として。フランス文学・思想の研究者として、サルトルを研究対象とする私は、作家自身がそうであったように文学・芸術と政治の関係を言葉にすることに惹かれた。連載でも、バルバラ・カッサンやミシェル・ウエルベック、アニー・エルノーを論ずるなかで、そうしたアンガジュマンの問いに触れてきたつもりだ。むかし「古語」とすら言われた「アンガジュマン」という言葉は、いま、新しく語り直される必要があるのではないか。それは、美学の政治化を推し進めようなどという気概によってではなく、否応なく政治的になってしまう(はっきり言えば、嫌なのだが)言葉に対して、それを守るためである。『金夢島』には、イスラエルのユダヤ人とパレスチナのアラブ人二人組の劇団が登場し、一方が詩情溢れる劇を求め、他方が政治的な劇を求めて口喧嘩する。願わくば、両者が離縁せず、共存する道を見つけられますように。
 フランス文学者として。私の連載は、ボードレール研究者の阿部良雄への言及から始まり、マラルメやクローデルの研究者であり舞台演出家であった渡邊守章に目配せすることで終わろうとしている。私にはこの二人の偉大なフランス文学者を語るあらゆる資質が欠けているが、「留学記のようなもの」を書こうとした私たちにとって、『若いヨーロッパ』の著者と『パリ感覚』の著者は偉大な遠い先輩であり、おそるおそるその名を口にする次第だ。私の連載は未熟な研究ノートのようなものばかりだったが、最後に日付を打たれた生活を劇評等に託して語ってみたのも、「留学記」的なあり方に原点回帰する意図からである。スノビズムは覚悟だが、願わくば、やはり留学している間、何かを「観る」という体験の貴重さが伝われば有難い。
 「ふらんす」文学者として、あるいは連載共同執筆者として。連載初期から、福島がフランス語圏の研究者としてフランス本土を外から見たのに対して、私はむしろ「内」の視点を採り、本土の書き手に注目した。願わくば、この内と外を通過する道が開きますように。太陽劇団の二〇〇三年の演劇で、ムヌーシュキン自身により映画化された『最後のキャラバンサライ』という作品がある。これはタリバン政権下のアフガニスタン、女性への弾圧が激しいイラン、自国を持てない(独立を果たせない)チェチェン人やクルド人を、インタビューや証言も交えて描く、「難民の世紀」の代表的大作であり、タリバンが復権しロシアが周辺国・民族に侵攻する今日、観られるべき作品である。難民たちはフランス北東部のサンガットにあるキャンプに大挙し、仕事を求め英国へ命懸けの密入国を試みる。彼らが絶望的に避難所を求めるヨーロッパは、「隊商宿」とも訳される「キャラバンサライ」、異国人たちの集まる場所だが、作品はヨーロッパの人道的使命を誇らかに語る代わりに、欧州がいかに門戸を鎖して内と外を区切り、非人道的な待遇を強いるかを描く。
 フィクションだがドキュメントでもある本作に、希望や「救うもの」を語ることは難しい。それでも人は、安息の地、まだ見ぬユートピアを求め、境界を越えようとするだろう。作中ではイランの詩人の言葉が引かれていた。
「あわれ、人の世の旅隊は過ぎて行くよ
この一瞬をわがものとしてたのしもうよ」(小川亮作訳)
 こうした境地には程遠い私も、もう少し旅を続け、また読者に再会できる時を願う。とりあえず福島に今度会ったら、長く借りたままの『パリ感覚』を返そうと思う。
(フランス文学・思想)







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