書評/新聞記事 検索  図書新聞は、毎週土曜日書店発売、定期購読も承ります

【重要なお知らせ】お問い合わせフォーム故障中につき、直接メール(koudoku@toshoshimbun.com)かお電話にてバックナンバー・定期購読の御注文をお願い致します。

評者◆凪一木
その176 新刊の罠
No.3577 ・ 2023年02月04日




■新刊が出た。これが、思いもよらず、この生活の見直しを迫られることになる。
 FacebookとmixiとTwitterに投稿する。そこでどのくらい「イイネ」が付けられているかを確認する。コメントやメッセージがあれば返信する。Lineやメールも見る。この作業に嵌まってしまうと、ギャンブルや麻薬と同じく依存症に陥ってしまう。かつてはGREEやMYSPACEもやっていた。Freemlの一つでは約三〇人のグループを主宰していた。ニフティのフォーラムBBS(掲示板)の頃から様々に手を出している。
 ビル管理で、これらSNSを行っている者は、一〇〇%に近いほどいない。高年齢層かつ社会情勢から遠い層ゆえもあるが、情報への無関心・無感動もある。この数字は、社会の別の一面を捉えている姿とも言える。
 そして、私の場合、本を出版したことが引き金となって、妄執の如くに、その評判や反応を気にし始めたのだ。同じビル管の同僚たちから見ると、滑稽で理解不能な奇人変人にしか見えないであろう。異端というよりも、もはや私は異常者だ。
 都会と田舎の生活を文明批評的に描いたドラマ「北の国から」では、都市に浸蝕された主人公の純が、大切な携帯電話を水たまりに捨てられる場面がある。「ああ~」。純は情けない声でその水没する電話を拾いに行く。「ひどく惨めな少年だ」と、当時の私は批判的に見ていた。だが、今の私はどうだ。ドラマの純くんを笑えない。完全にスマホに毒されている。この生活を見直さなければ、精神も崩壊する。
 元々が凝り性だ。テトリスをトイレ以外は食事もせず、二五時間ぶっ続けで遊戯していたこともある。だが、ゲームやパチンコといった一方的なツールとSNSとは違う。双方向で、応答がある。それらは、匿名の、およそまともではない類の悪質な犯罪すれすれのものもある。相手にする必要などない。なのに気になる。自殺に追い込まれた者だっている。
 「分かってる者」はまだいい。これに対し、否定したがる者もいる。もちろん物の見方に正解などないが、否定論者に比べて、分かっている者は正解らしきものがあることは知っている。だから、その中心的な層は、「その見方、味わい方」みたいな本は買わないだろうし、教科書めいたテキストには興味もない。そこに正解はない。結論からいうと、本当のことは、予め知っていることであり、そのことを知りたがる人が、より遠いファンや信者が正解を求めて、「それがない」と言って、憤慨するのである。世の中には当然「分からない」者がいる。当たり前だ。
 否定的な目で見る人たちにはある傾向がある。ひとつには、全体を見ていない。ひとつには、たとえば熱狂の中心地を見ていない。そして、ひとつには、対象に対する、似た者としての嫉妬心を持っている。だが、思った以上に、否定する者は単に大衆を馬鹿にしていたのではなく、大衆を知ったつもりになっていたわけで、一瞬でも大衆を知ってしまった対象に対して、そのことを認めたくなかった、或いは、そのことが理解できずに攻撃する。
 私のこういった文体の需要も、ある種の人たちには響くのだが、その人たちは力がない。何の力がないかというと、身も蓋もないことを言うと、影響力と購買力だ。そんなに読みたい人がいないことはわかっている。多分読みにくい。それが特徴だと言われても。
 山田太一が、『「七人の刑事」を探して 1961‐1998』(羊崎文移/今日の話題社)について、こう書いている。
 〈私は頁をめくりながら呆然としていた。これを誰が読むのだろうか、と。それから、じわりと思いがけず感動のようなものが湧くのを感じた。これは、羊崎さんという人の詩なのだ、と。大げさなようだが、これは限られた人だけが享受できる詩なのだ、と。(中略)これは無論多くの人に共感して貰えることではない。しかし、本はもともと万人向けに書かれるものではない。通じる人には通じるという本があって当然だし、通じない人が劣っているということでもない。〉
 他の著者はどうか知らないが、私は、自分の本を読むのが好きだ。何度読んでも飽きない。癖があって、少し変だ。何を馬鹿なことを言っているのだ。そう思われる人も多いはずだ。もちろん、ここをもっとこうすれば良かった。あそこの表現を変えれば良かった。そういった後悔や諦念を味わいもする。それでも、そこまでしかできなかった自分への愛おしさも手伝って、そこまでしか達することのできなかった状況を思い、引き受ける残酷さと心地よさとがある。失敗がまた良い。負けに不思議の負けなし。拙さに不思議の拙さなし。そして何より、そこまで書いたことが不様で良い。表現は常にギリギリだ。本当のことは書くことができない。それでも、ギリギリ残せるのではないかと追求して、探って書いている。本のなかに私がいることだけは確かである。本も映画もライブの記録であるから、そこでは故人も生きている。
 映画『仁義なき戦い』のラスト、「弾はまだ残っとるがよ」と主人公が漏らす。ああいう表現というものは、時が経てば経つほどに、その凄さが増してくる。
 そんな文字を一文字も書けずに終わるのかもしれない。知らない以上は、理解はもちろん、そのグロテスクさ、しぶとさ、強靭さなど、近付くだけでも厄介な「嫌な部分」を、怖がっている自分さえ認めたくなかったのであろう。(SNSでの攻撃)対象の作者に負けたかのような気分を味わいたくなかったのだろう。だが、それで済む問題ではないのは、作品は、作者の手を離れて、もっと「大衆から大衆へ」その「嫌な部分」を共有し合う役割を果たしていく。
 麻薬ではないが、その受け渡しを「中身」を知らされずに「させられている」のが作者でもある。批判する人たちは、そのことを知らない。その程度に薄い。本当のことはそこに隠れている。
 実は、当然のごとく私への批判もある。
 携帯電話料金が毎月一万七〇〇〇円程度のところ、新刊の出た翌月五五〇〇円上がった。スマホ依存によるものだ。同時に電話機自体の経年劣化もある。かつて未成年の頃、ひと月の電話代を八万八〇〇〇円払ったことがある。ビデオのダビング会社に入社して、毎月二万円も高いと社長が不思議に思って調べたら深夜の私の電話だった。不問にされたが、私にとって、新規の機械やソフトは子どもの頃から危険な魔物である。ギャンブル狂の父親譲りでもある。
 これまでもそうであったが、大転換をする時が来た。この連載と共に、書籍も終わり、SNSに駄文を書き続けることも引退だ。テレビ登場時にも、時代とつながっている錯覚で延々とテレビを見続ける人間が当時現れたという。まったく笑えない話だ。
 さようならSNS。
(建築物管理)







リンクサイト
サイト限定連載

図書新聞出版
  最新刊
『新宿センチメンタル・ジャーニー』
『山・自然探究――紀行・エッセイ・評論集』
『【新版】クリストとジャンヌ=クロード ライフ=ワークス=プロジェクト』
書店別 週間ベストセラーズ
■東京■東京堂書店様調べ
1位 マチズモを削り取れ
(武田砂鉄)
2位 喫茶店で松本隆さんから聞いたこと
(山下賢二)
3位 古くて素敵なクラシック・レコードたち
(村上春樹)
■新潟■萬松堂様調べ
1位 老いる意味
(森村誠一)
2位 老いの福袋
(樋口恵子)
3位 もうだまされない
新型コロナの大誤解
(西村秀一)

取扱い書店企業概要プライバシーポリシー利用規約