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評者◆福島亮
セルア・リュスト・ブルビナ『アルジェ‐東京』――問いかけは行動に向かわなければならない
No.3575 ・ 2023年01月21日




■十二月二三日の昼下がり、自宅でパソコン画面を睨んでいると、日本にいる友人から一通のメッセージが届いた。見ると、「十区の事件ですが……」という安否の確認だった。十区といえば、隣の区だ。何も知らなかったのでニュースを見てみると、クルド人が多く集まる地区で男が発砲し、死傷者が出たとある。付近では住民と警察との衝突が起こっているとも伝えられていた。たしかに、窓の外からはサイレンの音がひっきりなしに聞こえている。
 凶行に及んだのは、六九歳の男性で、これまでにも人種差別的な動機から難民キャンプを襲撃したことがあったという。
 本稿準備中も、クルド人による抗議のための行進が予告されている。それらの予告を見ていて、十年前のある事件の存在を知った。二〇一三年一月九日、パリ十区のクルド人情報センター敷地内で、三人のクルド人女性の銃殺遺体が発見された。三人のうち一人は、クルディスタン(クルド)労働者党(PKK)という分離主義組織の創設メンバーだった。三人を射殺した犯人は三四歳のトルコ人男性であることが特定され、彼とトルコの諜報組織MITとの連関が調べられた。だが、その実態が判明する前に犯人は刑務所内で死亡し、真相は闇の中に消えた。
 二〇二二年十二月二三日に発砲した男性は、外国人や難民に対する嫌悪感情を表明しているというから、今回の事件が「ヘイトクライム」であることは間違いない。だが、クルド人にとっては事はより深刻で、十年前の事件の再来を感じさせるものだった。実際クルド人団体をまとめている在仏クルド民主評議会は今回の事件にもトルコ政府が関与しているのではないかと主張しているが、まだ調査中である。
 日本でクルド人が置かれた不当な状況については、『東京クルド』(二〇二一年)や『マイスモールランド』(二〇二二年)といった映像作品によって少しずつ知られつつある。全難連の声明によると、法務大臣がトルコ国籍クルド人の難民申請を認めたのは二〇二二年八月九日が初めてである。したがってほとんどの場合、在留資格を定期的に更新する必要があり、もし更新が認められなければ、入管施設に出国まで収容されることになる。

 十二月二三日の発砲事件の翌日、レピュブリック広場でクルド人による抗議集会が開かれた。だが、私は行かなかった。というのも、じつは滞在許可証の更新中で、ちょうど期限切れの許可証しか手元になかったからである。路上での許可証チェックが厳密になっていることが予想される以上、行かない方が良いと判断した。現在も正式な許可証は交付されていないので、なんとも中途半端な状況だ。だが、銀行口座の残高証明や身分証明書を提出できる身だから、まったく不安はない。抗議集会の中継を見ながら、私が圧倒的な特権的地位にいることを感じていた。少なくとも、フランスにいて自分が狙われる側になる、追放される側になる、という恐怖は(スリは別だが)私にはほぼない。というよりも、そのようなことを考えもしない、という事実そのものが特権なのである。

 「一九五七年十二月のある日、私は突然にパリ第八区のソーセー街にある内務省の『国土監視局』(DST)から呼び出しを受けた」。留学する前にこの一文を読み、不安を覚えたのを思い出す。仏文学者の鈴木道彦の『越境の時』(二〇〇七年)のなかの一文である。一九五四年に船で一ヶ月かけてパリに渡った著者は、学生街で北アフリカ出身の友人を得て、アルジェリア民族解放戦線(FLN)のメンバーと交流した。呼び出しを受けたのは、鈴木の交流関係について尋問するためである。帰国後、鈴木は小林善彦、二宮敬とともに『太陽の影』(一九五八年)という翻訳書を出しているが、これはアルジェリアに出兵したフランス人兵士の手記である。同じ年、アンリ・アレッグの『尋問』も長谷川四郎の訳で刊行されており、アルジェリア戦争における拷問の実態が日本の読者に伝えられた。
 鈴木はサルトルやファノンを読むなかで、植民地システムにおける「民族責任」という認識を手にする。日本人として抑圧する側にまわる状況が存在する場合、自分はどうしたら良いのか。このような民族としての責任、という視点から、著者は在日朝鮮人の存在に思いを寄せ、身を賭していく。
 『越境の時』を留学前に読んだ時、私は状況に対する著者の責任ある態度に胸を突かれた。今でも時々そのことを思い出す。以前も触れたように(本紙三五五九号)、去年はアルジェリア独立六〇周年の年だったこともあり余計に『越境の時』が心に去来した。またそれだけでなく、プルーストの没後百年を記念して刊行されたアンソロジー『プルースト‐世界』に鈴木のインタビューが掲載されていることも先の読書経験を想起させるきっかけだった。
 だからだろうか、私の留学の終わりが見えてきたある日、書店であの本を見つけた時は何かの巡り合わせのように思えた。セルア・リュスト・ブルビナの『アルジェ‐東京』という本である。この本は、FLNの弁護士だったアルジェリア人の父を持つブルビナが、鈴木にインタビューして著した一冊である。著者は二〇一七年に日本を訪れ、鈴木と面会している。本書には書斎とおぼしき場所で、鈴木が手紙や当時の資料について話している様子の写真も収められている。
 ブルビナは、ポストコロニアル研究の理論的著書によって知られる哲学者である。博士論文では、ミッテラン政権によるパリ大改造がこの都市に与えた政治的象徴作用を分析した。その成果の一部は、二〇〇七年に『パリ大改造』と題して出版されている。表紙に印刷されたルーヴル美術館の写真は、ブルビナの問いをよく示している。なぜルーヴル美術館の前にピラミッドがあるのか。ナポレオンによるエジプト遠征(一七九八年)の結果、ロゼッタストーンをはじめとするオリエントの知がフランスに持ち込まれ、科学的なオリエント認識が生まれた。同時に、ヨーロッパ人による権威と規律に基づくオリエント支配が確立していく(サイード)。王の墓であると同時に征服の証でもあるピラミッドをミッテラン政権がたくみに利用していることが表紙の写真からもわかるのである。
 ピラミッドが象徴するように、フランス共和国の威光の影には征服の歴史がある。征服や植民地化は、いかにして人間から人間性を剥ぎ取っていくのか。このような観点から書かれたのが二〇〇八年の著書『カフカの猿』だ。巻頭に収められた表題論文のタイトルにある「猿」とは、カフカの短編「ある学会報告」の語り手である「ペーター」という名の元猿のことである。アフリカの「黄金海岸」で生捕りにされた彼は、人間の言葉を話すようになり、アカデミーで自らの身の上を告白するに至る。ブルビナは、カフカのこの小説を、同じ頃に書かれた植民地を舞台とする他の短編「流刑地にて」や「ジャッカルとアラブ人」と比較しつつ、分析する。
 これらの著作に共通する著者の特異性はなんだろうか。理論によってもたらされる想像力――ブルビナの著書『アフリカとその亡霊』(二〇一五年)にカメルーン出身の哲学者のアシル・ムベンベが寄せた序文を踏まえるなら、彼女の仕事をこのように形容することが可能だろう。実際、パリやカフカを読み解く際の手つきは、理論が想像力をがんじがらめにするのではなく、逆に理論が想像力を思い切り膨らませる歓びに満ちている。
 ところが、二〇二二年十月に刊行された『アルジェ‐東京』はこのような仕事とはいささか異なる性格を見せている。というのも、本書では、理論は影を潜め、逆にほとんど剥き出しのままの資料がごろりと提示されているからである。
 合衆国の歴史家マシュー・コナリーが明示し、また本書でも示されているように、FLNの闘争の特徴は、その外交戦略にあった。すなわち、アルジェリアの住人だけでなく、国際社会に情報を発信し、できるだけ多くの支持を集めることに彼らは重きを置いていたのである。このような戦略が可能になったのは、「第三世界」における連帯の機運が盛り上がっていたからである。一九五五年のバンドン会議以降、アジア・アフリカの連帯がスローガンとなる。日本もこのスローガンと無縁ではない。本書でも詳述されているように、その際尽力したのは自由党の議員、宇都宮徳馬だった。宇都宮は戦下のアルジェリアを訪問し、北村徳太郎や淡徳三郎とともに日本北アフリカ協会を設立し、FLNを援助した。
 政治家だけでなく、学生たちもアルジェリアと連帯しようと奮闘した。一九五七年、全学連の定期大会にアルジェリア・イスラム学生総連合会(UGEMA)のショアイブ・タレブ=ベンディアブとムスタファ・ネガディが招待された。この時通訳として協力した谷口侑は、当時まだ東京外大の学生だったが、FLN極東代表部の創設に尽力し、日仏二カ国語の新聞「アルジェリア・ニュース」を一九五八年に刊行する。
 日本における市民運動の存在も無視できないだろう。一九六〇年二月一三日、フランスはアルジェリアの砂漠地帯で核実験を実施した。砂漠に生息するネズミの名前を用いて「ジェルボアーズ・ブルー」というコードネームで呼ばれたこの実験に対して、日本の反原水爆運動参加者たちから非難の声があがった。これはFLNの外交戦略とは別の要因だが、当時の日本に連帯を支える運動体が複層的に存在していたことは想起するべき事実だろう。
 ブルビナは以上のような時代的背景を詳細に辿っていく。恥ずかしながら、私はブルビナの書物を読むまで、当時の日本とアルジェリアのあいだでここまで複雑な連帯が結ばれていたことを知らなかった。今回改めて『越境の時』を再読し、加えて、鈴木が当時どのような文章を書いていたのか限られた範囲ではあるけれども、読んでみた。鈴木は『太陽の影』を皮切りに、ジュール・ロワ『アルジェリア戦争――私は証言する』(一九六一年)や、フランツ・ファノン『地に呪われたる者』(一九六九年)を翻訳する。同時に、李珍宇や金嬉老といった在日朝鮮人と鈴木は向き合っていく。その際に、彼が「民族責任」という考え方を出発点にしていたことは先に述べた通りである。ただ、そこにはもう一段深い問いかけがあるのではないかと今回思い至った。
 アンリ・アレッグの『尋問』には、サルトルの「ひとつの勝利」と題された文章が収録されている。この文章の一部を、鈴木は『太陽の影』の訳者解説で引用しているのであるが、そこに鈴木の行動の礎となっている人間的な問いのひとつがあるように思われる。少し長くなるが、長谷川の訳を引用しよう。
 「〈自分の爪をはがされたら、わたしは口を割るだろうか?〉と自問することなしに死んだ者たちは幸いである。しかしさらにさらに幸福なのは、子供時代を出るか出ないうちに、次のようなもう一つの質問を自らに課することを余儀なくされなかった者たちである、――〈わたしの友だち、わたしの戦友たち、わたしの指揮者たちが、わたしの面前で、敵の爪をはがしたら、どうしよう?〉」

 問いかけは行動に向かわなくてはならない。自分の目の前で仲間たちが「敵」の爪をはがしている時、仲間の手を止めなくてはならないのだ。本文でも触れたように、じつは私は三月で留学を切り上げることになる。そのため、本連載も三月で最終回となる。留学の前に私の胸を打った鈴木の言葉は、今度はその行動の記録として、帰国前の私の胸を打ち、背を押すのである。
(フランス語圏文学)







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