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評者◆凪一木
その171 ある監督の誘惑
No.3572 ・ 2022年12月24日




■この連載第一回からのテーマであるが、フリーランスの自由職業で生きるか、もしくは「寄らば大樹の陰」つまりサラリーマンで生きるか。還暦を前にして、私に大きく突き付けられている。
 フリーランスのほとんどの宿命ではあるが、作家で食べられなくなり、バイトを掛け持ちし、糊口を凌ぐために目的から遠回りな仕事も引き受け、働き方が荒れていく。自由が一番の利点で、そのために遣り甲斐搾取も含めて、あれこれを特に収入面で我慢してきた芸能の民が、遂には奴隷そのものとなって、「サラリーマン以上に」支配下に置かれての仕事となっては本末転倒だ。
 ならば、サラリーマンそのものに転じて、奴隷として、奴隷なりの自由を探っていこうか。
 前回取り上げた映画『竜二』は、やくざを辞めた主人公が堅気となる。何かといえば酒屋の店員だ。それでも大企業であれ、個人商店であれ、サラリーマンはサラリーマンだ。やくざはどんな大きな組織の下であれ、社会的な認知のされ方や守られ方、保障は存在しない。
 かつて私は、足立区でビデオ店の店長をしていた。在日韓国人オーナーから全面的に任されていたので、ほぼ自由経営だ。口出しはない。しかし基本給があり、売り上げによる歩合もあったので、安定したサラリーマンである。このとき、大学生とフリーターのアルバイトを一〇人以上雇っていた。だが一人、Tという酒屋の店員が飛び込みで駆け込んできた。夜だけバイトをさせてくれと。猫の手も借りたい八月の暑い時期だった。
 Tの昼は酒屋、「夜七時半から深夜二時までお願いだ」と。別に構わないと入れた。二〇歳前後のバイトたちから見ると三〇歳の彼は、少し浮いていた。そのうちに、Tの腕に刺青が入っていると相談を受ける。そのぐらいビデオ屋が気にすることではない、と私は気にも留めなかった。
 勤務して二カ月目のことだ。見慣れない男が店にやってきた。お客さんというのは、初めて店に入っても、「何度か入店している客だ」と言えばバレないと思っている。少々店員をやったことのある人間ならわかると思うが、絶対にバレる。お店というのは、あちらこちらから人が集まる繁華街の店であっても、観光地の店でさえも、ほぼ常連客で持っている。たまに来る客は、それはそれで分かるのだ。いつも店頭に二四時間立っているわけでなくとも、少々長くいるバイトでも分かる。まして一見の客は、直ぐに分かる。こいつは一見の客だ。
 足立区西新井だったが、小さな暴力団の組がたくさんあって、それらの格好の趣味が当時はビデオ屋であった。夜中じゅう、組の事務所の留守番をさせられる若いもんが時間つぶしをするのに丁度よかった。もちろん組長にもビデオファンが多かった。
 そして九六年の一〇月、まったくの一見客が昼間の一二時ごろやってきた。一見してすぐにその筋の者と分かる。「Tという男がこの店にいると聞いたのだが知らないか」。私はピンときた。その筋の者だが、西新井ではない。あてずっぽうだが、たぶん同じ足立区の綾瀬から来たのではないかと思った。「いませんね」。自らが店長だとは名乗らずに、否定した。翌日も組員らしき男は現れた。今度は昼下がりの一四時頃で、やはり同じ質問だ。これはまずいと思った。
 「私はここの店長です。ここの会員数は二万人いるけれども、常連は決まっていて、それ以外の人はすぐに分かる。この土地の人間でない場合も分かる。どこから来たんですか?」「俺か。上野からだよ。親分の女に手を出した男で、探しているんだ。ここで見たという情報があったのよ」「うちとは違うんじゃないですか」。バレたと思った。
 その日、実はシフトに、タトゥー男のバイトTが入っていた。「狙われて危ないから」とその日で最後と辞めてもらう。ところがその日の深夜一時半。あと三〇分で店を閉めるというときだ。二人組がいきなり店にやってきて、もう一人のバイトに断って、Tをさらっていったという。近くに住む私のもとに電話が入り、店に駆け付ける。血だらけになったTが店に戻ってきた。「どうしたんだ」。何も答えない。もう一人のバイトは淡々と店を片付け閉めている。この店では日常茶飯事であった。とにかく辞めてもらった。
 そのとき、八三年の映画『竜二』を思い出したわけで
はなかった。だが、実は今になって、遠くからのいや~な呼び声が聞こえてくるのである。
 サラリーマンは大変だが、世間のしがらみと社会のルールさえ守っているふりをすれば、適当に目を瞑っていれさえすれば、やりすごせる。己を前面に出さず、名刺を渡しても自宅の住所ではなく、会社の住所だ。いきなり敵がやってくる恐怖もない。自分の腕一本で生き抜く気概も必要ない。世間の(同業者、同人種という)温かい目と、社会的な保障や保険などがいくつも用意されていて、少なくともアウトローではない。警察も検察も公安も味方をしてくれそうだ。安全と便利さが用意されていて、簡単なことでも自らが自分で稼ぎ、凌ぎ、買い、掴み、獲得する幸福感はない。
 ヒリヒリするなかで生きていきたい。やくざでも堅気でも、どちらの世界にも弛緩した人たちがいて、自分の生きる場所は「そこではない」と感じた。それが『竜二』である。やくざの偉そうな張りぼての薄っぺらさに飽き飽きし、サラリーマンの「野菜が高くて大変だ」と嘆きながらの毎日にも再び飽き飽きする。
 「映画ばかり見てお前は現実を知らない」と、言われたことがある。それはしかしサラリーマンの論理だ。逆に、映画をそれほどまでに異常に見過ぎてしまった人間の現実を、その人間もまた知らないのである。麻薬、暴力、虚偽、異常、背徳、いろいろとある。
 北九州監禁殺人の松永。次々と現れるサイコパスその他の犯罪。彼らについて傍観しながら、サラリーを貰って生きる生活はもう嫌だ。そう叫びそうになる。人類の創早期から、人間はビールなど酔っぱらう飲み物を作っている。ただ生きるのではなく、快楽に走る。
 ある監督が会いたいと盛んに言ってくる。一七年ぶりに映画を撮ったという。年に一回くらいは会っているが、私がサラリーマンをやっていることはよく分かっていない。私が話していないせいもある。ビル管は、三日に一回の泊まりで、有給休暇を使い切る私のような者は、これまでのフリーと同じく年中暇に見える。その監督から、やくざ稼業から「おいでおいで」と誘われているみたいだ。会うのを躊躇っている。覚悟や生き方を問われているようだ。
 九六年に酒屋の刺青男の前に現れた上野の組員みたいだ。怖い。
(建築物管理)







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