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評者◆凪一木
その170 竜二の幸福論
No.3571 ・ 2022年12月17日




■ビル管理。この仕事の変わったところは、ダブルワークが出来ることだ。実働時間が少なく、また肉体労働がほとんどなく、老人でも出来る等の理由だ。ただし、現場によって差があるのは人間関係であり、精神的負担がゼロからマックスまで様々なのが玉に瑕だ。
 二〇一六年七月に、ネット上で、〈ビルメンしながら漫画連載してるけど質問ある?〉という投稿を見つけた。
 〈現在二七歳。ビルメン四年やりながら雑誌で漫画連載してるんだけど(中略)人生経験と語彙がなくて、ガキみたいな漫画しかかけないんだわ。ビルメンの話に戻るが、この仕事は本当に廃人になる。他人と関わらない、生活リズムが一般人から切り離される、頭脳労働も肉体労働もいらない(最低限の資格のみ。誰でも取れる)。ビルメンで生活を支えてはいるが、これにしがみついている限り俺は漫画家としては成長できないだろうなと感じている。(中略)ビルメン自体消去法で選んだ仕事だから、もう普通の仕事はできないと思う。〉
 この漫画家が同じ現場にいたとしても、私でも気づかないかもしれない。別の日の凪一木。
 先日、映画のあとに、対談をした。上映したのは『竜二』と『竜二FOREVER』の二本立てで、『竜二FOREVER』の監督細野辰興氏とのバトルだ。
 そこで話題にし、かつ訊ねてみたいテーマを予め決めていた。そしてその考察もあれこれと何日間か行っていた。だが、いつもの悪い癖で、当日になると、すっかり忘れてしまった。なので、今、ここに改めて記そうと思う。
 それは、「幸せとは、トータルなのか一瞬か」という話である。これは、「ヤクザ(一瞬)か、堅気(トータル)か」という話でもある。この連載の初めからのテーマでもある。
 松田優作が癌に罹り、一瞬とトータルを秤に掛ける。人生最大のチャンスであるハリウッド映画『ブラック・レイン』の出演に懸けるか、病気の治療に専念し、出演を辞退して再起に懸けるか。松田は結局映画の出演を選んだ。一瞬に懸け、ヤクザで死んでいったのか。つんく。忌野清志郎。声を取るか、長生きを取るか。深作欣二。男を取るか、長生きを取るか。その選択は、迷いに迷ってなのか、フラりと一か八か振られてしまったのか。
 例え話として成立するか分からないが、二〇〇九年の高校野球甲子園の決勝だ。勝ったのは愛知の名門中京だが、最終回に怒濤の攻めで主役となったのは負けた新潟の日本文理の方だった。映画監督マキノ雅弘は、死の間際、あの「ドーハの悲劇」を生で見ていた。悲劇の直前に「勝ったな」と言って死んでいった。悲劇は、その直後に起きたのだが、マキノの目に入ることはなかった。そのとき、悲劇を見届けてから死んだ方が良かったのか。マキノ雅弘は、さっさと映画監督を辞めて、余生を生き、「ワールドカップ」を観ながら死んだ。一瞬を積み重ね、死の間際まで撮影しながら死んでいった神代辰巳との対比は意味がないのか。
 戦争で夫を失ったまだ若い未亡人が、長い戦後を再婚することなく、その夫との記憶だけで幸せだったと言い切って死んでいった人を知っている。彼女にとっての人生は、一瞬の記憶だけではないのか。それだけの価値があったのか、記憶を大切にすることで価値が増したのか。別の可能性だって否定できない。
 燃え尽きる青春とか、命を懸けた恋愛、世界を敵に回す犯罪、誰のためにもならない快楽、迷惑をかけるだけの背徳、そんな「お騒がせな」「嫌われる」行為であっても、「トータルではなく、一瞬主義で」それを選ぶ人間がいる。
 死や永遠の豊かさは、この世だけで辻褄が合わないゆえのバランス装置だ。実際には、この世のみで完結している。あの世という概念自体がこの世のものだ。あの世とは、実は「一瞬」の想像の中に存在する。手を染めない者は想像するだけで、「その一瞬」の快感、恐怖、興奮を知らない。だが、一瞬には持続性も確実性もない。コミュニケーションによる説得力を持たない。夜の官庁の地下に一人、薄いトータルの遠吠えを繰り返しながら、上記の漫画家とは違って、いつか、一瞬に賭ける日が来るような恐怖を私は覚えている。
 一瞬が人生を決めてしまうことはあるはずだ。キングカズが、あんなにも現役を続けるのは、WCに「選ばれなかった」あの日があるからだ。葛西紀明の現役続行も、「落ちろ」と願った「選ばれなかった」あの日があるからだ。片岡鶴太郎の異常な健康志向も、『異人たちとの夏』に抜擢された際、原作者山田太一に「あんな脂ぎった男は勘弁してくれよ」と言われた発言が元であろう。
 戦後の数日間で行われた、日本軍による久米島住民の虐殺事件がある。地元の民間人二〇人以上が殺された。終戦が迫った時期に、日本から「守備隊」と称してやってきたわずか三〇人の軍隊に、住民は翻弄される。隊長の鹿山正は、島民の一六歳の娘を連れ歩いたという。
 住民は次々とアメリカに秘密を漏らしたスパイと疑われ、殺されていった。その被害者のうちの谷川さん一家の父(昇)は、妻と幼い子を五人抱え、近所の知り合いに一人で必死に頼みにきた。敗戦が決定した八月一五日の五日後八月二〇日のことだ。
 その様子を孫娘の新垣照子(現在八三歳)が、三メートルほど離れた場所から見ていた。
 「助けてくれー」と島の言葉で叫んで駆け込んできたのだ。ワラに包んだ魚三匹を持って。貧乏な家だったから、無けなしの魚だったことは想像がつく。だけど、助けたなら、匿うなら、自分たち一家も殺される。だから断る。とぼとぼと魚を下げ、門を出ていった谷川昇。その姿も悲しかったが、さらに、それを見送っている祖父の姿も、それ以上に悲しく切なかった。
 新垣照子は語る。「あの魚三匹を、食べてから殺されたのか、空きっ腹のまま亡くなったのか。それが今でも気になっている」。泣いていた。
 食べてからならば、最後、それで幸せだったのか。空腹よりはましだろう。祖父のその後の人生は幸せだったのだろうか。裁かれもせずに、戦後を生き延びた隊長の鹿山の人生は幸せだったのか。
 以上は、この八月二〇日から七七年後の同じ日に、NHK・ETV特集で「久米島の戦争~なぜ住民は殺されたのか~」で放送された。
 鹿山正は、虐殺を「辞める」ことは出来ただろうか。新垣照子の祖父も、谷川一家に手を貸すことが出来ただろうか。
 出来ない。だが、「その後の人生をどう生きたか」なのだ。長い戦後の余生がある。原罪があろうと無かろうと、人は皆、余生を生きている。
 長いが、終わるときは一瞬である。一瞬でなければ、後悔だけが残る。
(建築物管理)







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