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評者◆凪一木
その168 デモとは何か。
No.3569 ・ 2022年12月03日




■先日、立ち食いそば屋で、順番を抜かされた。そのことに気づくのは、しばらくしてからなのだが、自分の分はどうなっているんだ? と怒ったわけでもなく、静かに問うた。
 店のオヤジは、「順番に作っているんだから、ちゃんと待ってろよ」と逆切れして、こちらを睨んだ。その後も二,三人、私の後の順番の人の注文品が出されて私を抜かしていく。実はすでに、私の分を、私と同じ注文品でもないのに(私よりも品数が少ない)、あとからの客が勝手に持っていって食べていた。その客が「(お先に)御免なさい」と、食べ終わったお盆を差し出してきた。
 店の配膳のおばさんがそれに気付いて、間違ったその人に詫びて、余分な金額を見逃がした。じゃあ、私のほうはどうかというと、配膳のおばさんが、「今すぐに作りますから」。
 そのままお金を返してもらって店を出ても良かったのだが、それまでも結構な時間を待っていたので、「ついでだ」と思い仕方なく待つ。
 これがけっこう長い。そして別に期待もしないが何のサービスもなく、初めに注文した品が出てきた。配膳のおばさんはスミマセンと謝るのだが、私に向かって逆切れした親父はウンともスンとも言わない。そんな状態で食べる食事がおいしいはずもない。どうしたら不快を避けて通る生活ができるのか。無理なんだろうな。
 二度とその店には行かないと思うが、しばらくしてから文句の一つも言いにいくかと言えば、それも余計な不愉快がさらに増えるような気がする。では、店の店主が一国の首相だったらどうなるか。国を捨てて出ていくか。そうもいかない。
 安倍晋三氏の国葬は、抜け駆けしようとしている姿である。質問にも疑問にも答えない首相。閉じて、自分たちだけ逃げようとしている姿である。国葬反対のデモは、解放しようとする行為である。これに対し、「国民の目を盗んで誤魔化すなんてことをせずに、広く世間に問うてから始めましょう」と私は言っているだけである。情報を共有し、知識や技術を共有し、広く開放して、共に生きていきましょう、と言っているだけである。「自分だけ、自分の会社だけ、自分のグループだけ、自分の仲間だけが得をし、生き残ろうという発想は、もうそろそろ止めましょう」と言っている一つの運動である。ルールを無視して醜い真似をするのは止めましょうと。
 かつて、大学病院のビル設備管理をしていた。そこでは、何かと行事の度に、人形町今半などの弁当が余分に余り、設備にも回ってくる。何度か紹介したが、この弁当の存在を、セコさの固まりであるノートルダム男の責任者は、我々下っ端の者には隠す。電気室に籠って、仲間の三人だけで食べている。残りの余った分をどうしているのかと思ったら、責任者の席の背中に自分だけの巨大ロッカーがあり、そこから出てきた。翌日も食べようとしたのか? 腐ってしまうだろうよ。
 弁当詐欺のための、内線電話での誤魔化すやり取りや、見え見えの時間工作など、横で見ていてあまりにも見苦しい。同僚が、そのことを投書で告発した。案の定握りつぶされたが、それを、朝の引き継ぎの場で釈明する責任者の姿はさらに痛々しい。「弁当を三人で食べたという証拠がどこにあるんだ」「国葬をして何が悪いんだ。丁寧に説明すると言っているではないか」。ノートルダムは突然死したので、私が少なくとも一言は苦言を呈してやろうと思っていた希望が断たれた。だが、デモは一つの手段である。阻止するための行動ではない。
 長崎に原爆が落とされたとき、爆心地から一・四キロの工場にいた一四歳の少年は、戦後に、外国航路の船員となった。石炭を積み込むために初めてアメリカを訪れた。そこでは日本と全く異なる光景を目にする。巨大都市ニューヨークの活気に満ちたきらびやかな街。そのとき、不意に或る思いがよぎる。長崎を原爆で焼きつくした国アメリカ。八月一三日に放送されたETV特集「“ナガサキ”の痕跡と生きて」での小玉輝幸さんの証言だ。
 「ニューヨーク行ったとき、人でごった返しとるでしょう。ここで自爆してやれば何百人死ぬぞと思ったことがあったですよ。やっぱり被爆の戦争犠牲者の一人としての考えだったんでしょうけど」
 だけど、それでは、自分の中のわずかな留飲を下げるのみである。国葬反対デモとは、爆弾テロとは違う。デモは、モリカケ桜から国葬までの醜い営為を記録するための刻印行動である。国会を越えたフィールドから俯瞰して、東宝争議にまで遡る歴史の敷衍行為でもある。
 「この老人たちの、死ぬ前の千鳥足ダンスを見ておけよ」。大事なのは、繋げて、残して、後継を促し、考えさせることだ。魂を根付かせることだ。
 半分以上の国民の反対を押し切って、カルト政治家を手続き踏まずに税で国葬する。忌野清志郎ではないが、「なに言ってんだー、よせよ、だませやしねぇ」。広瀬すずではないが、「何、この展開?」。まずは、国葬の段階で物を言い、国葬後も安倍氏及び統一教会問題を言い続ける。
 2ちゃんねる開設者「ひろゆき」こと西村博之が投稿する。
 〈例え反社の人でも葬式ぐらいは静かに送ってあげる礼節を持つべきだと、おいらは考えます。(中略)葬式で集まって騒ぐのは不道徳〉(9/14Twitter)
 それに乗っかって、烏合の衆が続く。議論も行動も閉鎖させようとする。
 「反安倍は劣等感の塊だ。非国民だ」「海外の人が見てどう思うでしょう。日本人として恥ずかしい」。相変わらずの薄っぺらな同調圧力だ。
 抗議活動とは、順路を示し、公安に申請し、許可が出ると、それは権利であり、是非を問われるものではない。ひろゆきの「道徳講義」は、狭い島国で、縮ませよう、狭めよう、黙らせようという、広い意味での、権力者側お得意のパワハラに過ぎない。
 ニューヨークで自爆を夢見た長崎被爆の小玉さんは、九〇歳を越えてあの日のことを絵にした。背中の傷を手当する優しい女性の絵だった。その日、背中の傷を見てくれませんかと兵隊に頼むと、いきなり殴られた。
 「次に会った女の人に、背中の状態を教えて戴けませんか? と言ったところが、『ああ、大した傷ではありませんよ。もう出血も止まっておりますから』と言いながら、三角巾と風呂敷を取り出して手当をしていただいて。そいで、やっぱり自分の嬉しさですよ。ただ人を助けてやろうという意気込みだったんでしょうね。そやけん、あの絵を描きました」
 アメリカの地に立ち、自爆テロを頭に描いた男が、キャンバスには優しさを、残酷の中にあった一つの優しさを描いた。
 デモもまた怒りではなく、霞が関をめぐる優しさのマーキングである。(建築物管理)







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