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評者◆高橋順一
「しるし」から読み取られる時代のかたちを明らかに――80年代以降の諸現象における表象やイメージの変容を軽やかに解読 (完全版)
つながりのつながりのつながり
神尾達之
No.3568 ・ 2022年11月26日




■快著である。本書を読みながら私は、ここ数年来、いや正確に言うと2010年代に入ったあたりから自分を取り巻く状況に対して感じていた不透明なわだかまり感やもやもやが急速に消えてゆき、明快な視界が拓ける爽快感をおぼえることが出来た。まずこのことを著者である神尾に感謝したいと思う。
 <1968年>世代に属する私は、マルクス思想への信頼を維持しながらも、同時に70年代あたりから、マルクスの理論だけでは説明しきれない領域や新たな現象に対応しうる理論および言説を求めて、現象学、解釈学、精神分析理論、フランクフルト学派の批判理論、構造言語学、人類学(レヴィ=ストロース、山口昌男)、記号論、社会学の諸理論(ウェーバー、ジンメル、デュルケーム、マンハイム、エスノメソドロジー、役割理論、消費社会論など)、表象論(ケネス・バーク)、メディア理論(マクルーハン)、受容美学、ポスト構造主義理論などを遍歴していった。だが率直に言ってここ10年あまりは、そういった諸理論による知を通しても解明しきれない問題や現象が山積してきていて、自分の思考や認識の幅が極度に狭められしまっているのを感じざるをえなかった。とくに、PCやスマートフォンの普及によって、あるいはSNSによるコミュニケーション・ネットワークの爆発的拡大によって、さらにはAIテクノロジーの進化によって、私たちの世界はもはや人間を社会的プラクシスやコミュニケーションの媒体として必要としないような、自己準拠的なシステムによる自動化・自走化の動きに呑み込まれつつあるのではないのか、それをイメージ的に表象しているのが庵野秀明や押井守以降のアニメや漫画の世界なのではないか 、そしてこの動きは、人間の存在、とくにその<肉>の厚みを伴う身体の存在や精神の産物としての思考や批判の働きを、システムやネットワークの“円滑”な作動にとって有害な夾雑物・障害物として排除してしまうところまできているのではないか、という思いがつのってくるのを禁じえなかった。それが私の遍歴してきた知の世界の根本的な否定を意味するのは言うまでもない。こうした事態を前にしてまず私の頭に浮かんだのは、フィッシャー文庫版『啓蒙の弁証法』の最終頁にある紹介文の中の次のような一節である。「科学技術の進歩は飢餓や戦争や抑圧のない世界の創設がもはやユートピアとはいえない現実味を帯びてきたところまで前進している。だが著者たちは、近代の発明が「理論的教養のますますの崩壊という代償を伴っている」ことを知らねばならなかった。進歩は一方において、「予想もつかなったほどの自然に対する社会の支配力」をもたらしたが、他方においては直接手にとることが出来るもの、直接利用できるもの、技的に有効なものだけが現実的と見なしうるというテクノロジー的意識を広めていった。それは、人間性をめぐる偉大な理念である真理や自由、正義、ヒューマニティなど次第に非現実的な、言葉だけにすぎないものとみなされるようになることを意味する。それによって同時に、そうした理念を社会において現実化しようとする意志も失われてしまう。自由が何を意味するかが分からない人間には政治的にも自由を代弁することは出来ないのが実態である。まさしくこのことによって全体主義への動きが準備されるのである」(Max Horkheimer/Theodor Wiesengrund Adorno: Dialektik der Aufklärung. Fischer Taschenbuch Verlag. fünfte Ausgabe. 1977 傍点筆者 なお引用文内の「」は『啓蒙の弁証法』からの引用である)。上記のような状況の出現によって、傍点を付した箇所で言われているような危機的事態がもたらされているのではないかと思えてならなかったからである。私はこの危機感が基本的には間違っていないと信じている。今人間存在は身体においても精神においても、「理論的教養の崩壊」を通じて非人間化・没思考化の臨界に逢着しつつあると考えるからである。だがその一方で、そうした考えに対してはただちに一つの異議申し立てが生じる。私たちもまた構造主義-ポスト構造主義の文脈の中で、人間中心主義(ヒューマニズム)的な発想を批判してきたのではなかったのか、非人間化はむしろ私たち自身が志向しようとしたものではなかったのか、という異議申し立てである。引用文にある非人間化・没思考化の危機は確かに存在するが、それに構造主義-ポスト構造主義が批判した古めかしい人間中心主義的な思考への回帰によって答えることなど許されない。とするならば、私たちはどのようにこの非人間化の状況に立ち向かえばよいのか ― 、ここで私の思考は袋小路に陥ってしまうことになる。
 答えが見つからずに悶々とする中で、2011年3月11日には東日本大震災が起き、さらにはテロリズム(ここにはイスラム原理主義者だけではなくトランプやプーチン、習近平といった“テロリスト”たちの行為も含まれる)の蔓延の常態化、コロナ禍、ウクライナ侵略戦争といった出来事が、SNS、AIの普及・拡大と並行しながら起きていったた。このとき私が衝きあたったのは、いつのまにか私たちの世界(社会というべきかもしれない)が得体のしれない<不安>によって蝕まれているという事実である。もちろん<不安>をもたらす客観的な要因はいくらでも挙げることが出来るだろう。だがこの<不安>には、そうした要因に基づく説明では組み尽くすことの出来ないような底知れぬ闇がはらまれているように思えたのだった。ちなみに私自身がその淵源をたどっていこうとして辿りついたのは、1995年の阪神・淡路大震災 ― 突然襲う自然災害 ― とオーム真理教事件 ―“テロリスト”オームによる殺戮行為 ― および2001年9月11日のいわゆる<同時多発テロ>であった。どうやら私たちはこれらの出来事を境に安心出来る日常を失い、<不安>が常態化する世界を生きるようになったように思えた。何かがそこから大きく変わったのだった。繰り返しになるが、それは客観的要因に基づく説明では組み尽くせないような何ものかによってもたらされた事態であった。それが何なのか ― 、このとき、<不安>に蝕まれる日常のそそけだつようなおぞましさや恐怖の感覚だけしか現在の世界を読み解くための指標にはなりえないとのではないか、ということに気がついた。それは同時に、この<不安>の根底に横たわる何ものかがこれまで遍歴してきた諸理論による知ではストレートに読み解かれえないということを意味した。ここでも袋小路が待ち受けていた。そんな中で私は神尾の著作に遭遇したのである。



 神尾は本書の問題意識を次のようにまとめている。「本書は注射針を起点として、エイズが猛威を振るった1980年代から、エイズに代わる新種の感染症が、恋人たちだけでなく世界を変えつつある2022年までを一つの「時代」とみなし、その「しるし」がさまざまに変異するプロセスを記述する。かすかな徴候は、言語化された思考や感情や感覚のレベルで抑圧されていたものの回帰とみなすことができる」(12~3頁)。
 この文を読みながら私は、そうか、と思わず叩膝した。この間の諸現象やそこから見えてくるはずの時代状況を読み解こうとする際に、私の念頭にまったくなかったもの、それは「感染症」という視点であり、その伝染や伝播の視点であり、その媒介となる細菌やウィルスの変異や転移という視点であった。そしてその視点は、明確な理論や言説によるコミュニケーションや受容に代わる、感染や伝染という<コミュニケーション>や<受容>のかたちを示そうとしているように思えた。さらにいえばこの視点は、なぜ私たちが今不安のただ中にあるのかという問いへの答えになっているように思われた。おそらく私たちが一番不安に思うのは、コロナ禍などからも明らかなように、正体不明の、次々に変異を重ねる細菌やウィルスによる感染症がある日突然爆発的に流行し始め、社会生活はおろか生命さえも重大な危機にさらされるという事態だからである。それは、感染症の流行がもたらす理不尽に私たちが支配されることでもある。それはまさに私たちが得体のしれぬ闇に支配される状況といってよい。ただ問題は生理学的、疫学的な次元だけにはとどまらなのだ。今感染症に関していったことは、突然襲う自然災害や顔の見えないテロリストによる突然の破壊や殺戮にもそのまま当てはまるからである。さらに思い起こしてほしい、中世末期のヨーロッパにおけるペストの流行が当時の人口を三分の一近く減少させただけではなく、中世という時代を終わらせ時代を近代へと転轍させる大きな要因ともなったことを。つまり感染症の流行、そこで生じる伝染や伝播の様態、社会生活への影響などは、そのまま社会的な、あるいは政治的ないしは文化的ですらあるような<事件=出来事>、ないしはそれを読み解く解読格子としての意味を持つのである。私は本書を読み進める中で、「感染症」という視座が、今私の感じている袋小路状態を打破する手がかりになるのではないかと感じ始めていた。袋小路状況を私にもたらした一連の出来事や、そこから見えてくるラディカルな時代の変化を読み解く鍵は、私が経めぐってきた知の世界には存在しなかった、この「感染症」という視座に含まれているのではないか、ということである。
 神尾は、引用文にもあるように、私たちが今現在まさに直面しているコロナ禍にまでつながる、私たちの時代の感染症や伝染、細菌・ウィルスの問題の発端を1980年代に顕在化したエイズ(HIV)の問題に見出そうとする。そしてエイズをめぐるその表象の在り方を通して逆にエイズの側から同時代の社会や文化の「しるし」を、あるいはその「しるし」から読み取られる時代のかたちを明らかにしようとする。さっそく神尾による「しるし」の解読のプロセスを追っていってみよう。



 エイズ(HIV)がはじめて人類の前に姿を現したのは1980年代初頭であった。そしてこの「病」は極めて特異なことに、生理学的、疫学的現象としての「病」という次元にとどまらず、その表象のされ方の次元においても様々な問題を惹起したのであった。当初いわれた男性同性愛(ゲイ)とのスキャンダラスな関わりがそれに拍車をかけたのはいうまでもない。そしてエイズはそれまで経験したことのない<不安>を私たちにもたらしたのであった。このエイズに対し神尾は、それが同時に、そうした<不安>も含めた80年代の世界の表象の機制や布置を構成する重要な環となりうるのではないかと考えるである。神尾が援用する、浅田彰のエッセイ「隠喩としてのAIDS」はそのことを裏づけている。浅田がその中で、エイズが「免疫機構の病」であること、さらに「内と外、<自己>と<非自己>の境界線上に発生し、それをグシャグシャに混乱させてしまう」(17ページ)と指摘する。
 周知のように「免疫」はコロナ禍においても注目された。コロナウィルスはその枝状突起(スパイク)によって免疫機能を突破して細胞の内部へ侵入することが知られている。逆にいえば、コロナ禍はあらためて私たちに、「内」を「外」方の異物の侵入から防御する免疫の重要性を再認識させたのであった。免疫は何よりも「内」と「外」を厳格に遮断する機能なのである。このことは何かを想起させないだろうか。そう、デカルトに典型的な、そして近代の世界認識の基本パラダイムとなった主(内)・客(外)の二元論である。そしてその裏には「内」と「外」それぞれにおいて成立する強固な自己同一性の論理が張りついていることを忘れてはならない。この二元論と自己同一性の論理によって、私たちの世界はその安定した秩序を保証されてきたのだった。免疫はまさにこの秩序のもっともミクロなレヴェルにおける範型に他ならない。ところが浅田によれば、エイズはこの「内」と「外」を厳密に区分する二元論を「グシャグシャに」破壊してしまうのである。そして注目すべきなのは、この浅田の言葉を受けて神尾が、「この挑発的な表現が、エイズを血の経路から知の回路へとうつすトリガーの一つとなる」(同)といっていることである。エイズにおいて見えてきた、免疫機構を破壊し「内」と「外」の区分を「グシャグシャに」する力・契機は、そのまま新たな知の世界、より正確にいえば近代の知の秩序の内部においては見ることの出来ない未踏の知をはらんだ世界表象の機制と布置の在り方を拓く「トリガー」にもなりうるのである。このとき、浅田がスーザン・ソンタグを踏まえてエッセイのタイトルを「隠喩としてのAIDS」とした意味も見えてくる。エイズという感染症=病と世界表象のあいだには、相互に置換可能な「隠喩」的関係がありうるからである。そして隠喩に未知の意味や表象を発見する機能が備わっていることはつとに知られている。何より重要なのは、エイズの出現した80年代が、当時のポスト構造主義の言説=理論や消費社会論、さらにはメディア・表象論が明らかにしようとしたように、近代世界の実定性を構成してきた主客二元論的な世界観・人間観が、つまりは「内」と「外」の厳格な区分の上に立つ世界秩序が崩れ始めた時代であったということである。この崩壊は、上記の隠喩、あるいは換喩による明示的意味を超える未知の意味発見の試みを導くのはもちろん、ボードリヤールのいったオリジナルとコピー(シミュラクル)の区別の消滅という事態、さらには資本主義と社会主義という二元論の解体(「敵=外」と「味方=内」の峻別の論理の終焉)や、あらゆる「内」(国や地域の固有性)が資本と商品という「外」によって浸透されていくグローバリゼーションの出現をも導いていく。今自分に即して振り返ってみると、この辺りまでは何とか追いかけていくことが出来たのだが、その後の崩壊のさらなる加速、すなわち電子ネットワークの爆発的な拡充や自己準拠型システムによる様々な分野の自動化・自走化の拡大は、私たちの内なる感覚・知覚の布置さえも大きく組み替えていき、それに対応するかたちでイメージや表象の世界をも大幅に変容させていくようになると、私の時代への対応のための知的遍歴はついに機能不全に陥ってしまったように思える。
 それにひきかえ、神尾の「感染症」の視点においては、それが解読のための格子(マトリックス)として、「病」の次元における「内」と「外」の区分をすり抜ける伝染・伝播のプロセスを、隠喩を媒介としながら表象の次元における転移・転位・複合・浸透・変異などの契機に置き換えつつ、無限に多様な80年代以降の諸現象、たとえば漫画、アニメ、音楽、映画における表象やイメージの変容の機制と布置をじつに軽やかに解読していくのである。本書は、これ以降まさにそうした多様な「しるし」に対する、「感染症」視座によって生み出された解読格子に基づく読み解きの試みとして展開されていくことになる。



 そうした神尾の試みを詳細に追っていきたいところだが、紙数の関係もあり私がもっとも関心をそそられた「2.寄生と共生」、「3.転位、そして転移」の章の議論を紹介しておきたいと思う。そこには神尾の本書における試みの特徴がもっともよく現れていると思うからである。「2.」の冒頭で神尾は、「1990年代に入ると、エイズをめぐる表象は、表向きは、他者から寄生されることへの恐怖へと転異する。しかし、寄生は共生にも転化できる。むしろ寄生は共生のための準備かもしれない」(54ページ)といっている。「寄生への恐怖」にはまだ「内」と「外」の峻別の論理がまとわりついているのに対し、「寄生の共生への転化」にはまさにそうした「内」と「外」の峻別の論理が消滅し、転移・変異や相互浸透としての伝染・伝播が自在に「内」と「外」の、ということは自己同一性の障壁をくぐりぬけて未知な世界を拓いていく予感が示されている。ここから何かが始まるのである。
 神尾が「2.」でそうした「寄生」と「共生」の関係の変化を読み解く例として挙げ
ているのは、1988年から連載が始まった岩明均のマンガ『寄生獣』であり、1995年に刊行された ― 私が<不安>の始まりとして位置づけた、あの阪神・淡路大震災とオームの年である ― 瀬名英明の小説『パラサイト・イヴ』であり、やはり同じ年に刊行された篠田節子の小説『夏の災厄』であり、最後に2000年に刊行された『メモランダム 古橋悌二』である。
 『寄生獣』においては、地球外からやってきて人間に寄生し、その人間に他の人間を殺すようコントロールする寄生獣が登場する。そしてそれに気づいた人間と寄生獣のあいだで壮絶な戦い始まる。このときポイントとなるのは、寄生獣が人間に寄生する際の部位が脳であることである。このことによって寄生獣と人間の関係は、「言葉によるイデオロギー闘争」(55ページ)という次元を含むことになる。寄生が感染・伝染の次元から暗喩的に言語=知の次元へと変換されることが示唆されている。と同時に寄生獣と人間の戦いが、脳への寄生を阻止したため腕に寄生された主人公新一と寄生獣ミギーとのあいだの、寄生から微妙な共存関係へと変容していくことも見逃せない。神尾はこう締めくくる。「6年間に及ぶストーリー展開のなかで、排除〔エイズへの恐怖の段階〕は共存の思想へと変じる、ただし、共存であって、まだ共生ではない」(同)。
 『パラサイト・イヴ』で取り上げられるのは、私たちの細胞を構成する基本物質の一つでありながら、もともとは細胞外の細菌であったミトコンドリアである。このミトコンドリアの性格が「内」と「外」の壁の攪乱を示唆していることはいうまでもない。そして「『パラサイト・イヴ』では、「ヒトの外部からヒトの身体の内部に他者が侵入するのではなく、ヒトの内部に棲みついていた他者であるミトコンドリアが,共生のバランスを破って反乱する」(57ページ)という事態が描かれる。ここでは、「内」と「外」の共生が本来の初期設定であることが、反乱という否定的事態を通してネガのかたちで示されるのである。
 『夏の災厄』では、ある意味凡庸とさえいえる新型脳炎ウィルスの感染拡大という状況が設定される。問題は、このパンデミックと平行して「インフォデミック〔真偽を問わない情報のパンデミック〕」(59ページ)が起きることである。このパンデミックとインフォデミックの関係を通して、インフォデミックを引き起こした住民のコミュニティを支配している「内」と「外」の遮断という発想が、パンデミックを引き起こしたウィルスの、「自己複製しつづけるという唯一の目的のために、そのつどの環境に応じて、すばやくフレキシブルに感染のシステムを変異させる」(61ページ)ふるまいに対していかに無力でしかないかということが示されるのである。もはや「内」を「外」から守ろうとする発想は通用しないのだ。
 この後、95年の境に「エイズへの恐怖」から「エイズとの共生」というかたちで論調が変化し始めたことを指摘した上で、神尾は、アーティストでありゲイであることカミングアウトしたことで知られる古橋悌二を取り上げる。古橋は、『メモランダム 古橋悌二」に収録されている1992年の手紙の中で、「VIRUSが知らない間に私の中に入ってきて私の細胞と共存しているように、あなたも私の細胞と共存しているのです」(65ページ)という。そして彼は、感染による免疫機能の低下が、「内」と「外」の障壁が下がることによってかえって今まで見えていなかったもの、聞こえてなかったものが感知できるようになるというのである。それは、感染がまさに転移・転位・変容というかたちでのコミュニケーションや感覚・知覚受容の拡張に置き換えられる瞬間である。このとき<不安>はこの拡張のもたらす歓喜に置き換わりうるのである。
 さて「3.」はどうか。私は、ここで展開されている議論こそが本書における核心をなしているように思える。なぜならそこで取り上げられている免疫学者多田富雄の「免疫の意味論」とそれに対してくわえられる神尾の考察が、わくわくするくらい面白かったからである。
 免疫学者としてだけでなく、現代能楽の優れた作者としても知られていた多田は、1991年「免疫の意味論」を『現代思想』に連載し始めた。その中で多田は、免疫系の働きを踏まえながら「超(スーパー)システム」という概念を提起する(70ページ)。「「超システム」とは、「変容する「自己」に言及(リファー)しながら〔自己言及である〕自己組織化していくような動的なシステム」であり、「マスタープランによって決定され固定したシステム」とは区別される」(同)。多田は「超システム」の例として「脳神経」を挙げるが、さらには「資本主義下の大都市」や「会社の多角経営組織」、「多民族国家」などにも「超システム」は適用される。そして興味深いのは、多田の考察が、「免疫系という超システムを保持していた「自己」が、エイズウィルスに侵入されることによって自己矛盾に陥り、「自己」の同一性が崩壊する」ことの「文化的意味」にまで及ぶことなのである。ここまできて私はまたしても叩膝せざるをえなかった。そうか、私が袋小路に陥ったのは、私の理論遍歴が「超システムを保持していた「自己」」のレヴェルにとどまっていたからなのだ、今問題なのは、その「自己」が「エイズウィルス」という他者、いいかえれば得体のしれないもの、闇の侵入を受けて「自己矛盾に陥り、「自己」の同一性が崩壊する」、その先に現れるもの、その「文化的意味」だったのだ ― 、そのことに気づいたからである。そうなるとその「文化的意味」が何だったのかが気になる。神尾は次のように概括する。私にはこの文章が本書のもっとも簡潔な要約になっているように思える。「私はすでに、本書の第1章で「表象の転異」という言い方をした。それは、エイズをめぐる表象が他の領域にスピンアウトし、二つの領域がつながることで、表象は価値転換することを意味した。免疫系の研究からエイズを探求するようになった多田は、免疫学という既存の学問領域を離れ、生物から言語、都市、組織に至るまで同じ「プリンシプル」を観察した。表象が転異するだけでなく、表象をきっかけにして認識のレベルが変わったのだ。「転位」が起こった」(75ページ)。神尾は私の袋小路を軽やかに超え、「転位」の先へと駆けていく。
 このような多田/神尾の考察の在り方に一つモデルがありうるとすれば、ベンヤミンのアレゴリーかもしれないという気がする。アレゴリーを通した表象の構造には、もはやシンボルにおけるような表象するものと表象されるものの間の生きた有機的な関係は存在しない。いわば両者は異次元の関係になるのである。だがこのことは両者が完全に切れてしまったことを意味するわけではない。隅々まで明確化された十全な意味表示関係に基づく表象に代わり、暗号解読にも似た、いわば脱節的であると同時に接合的であるような ― これは、デリダがハイデガーの「アナクシマンドロスの箴言」の読解の中で使った言葉である ― 関係がそこには出現するのだ。ベンヤミンはそれをアレゴリーと呼んだのだった。ベンヤミンはこのアレゴリーに依拠しながら、世界を文字通りアレゴリカルに読み解いていく。その最大の成果が『パサージュ論』であることはいうまもない。またこのベンヤミンの視点を共有するという意味でも、そして表象の転異(位)という点でも、神尾の仕事は、両性具有的な境界の攪乱者デヴィッド・ボウイへの異常な傾倒で知られる思想家田中純の、『都市の美学』や『政治の美学』以下の仕事とも共通する性格を持っていると思われる。ただし神尾の方がはるかに軽やかでありフレキシブルではあるが。
 いずれにせよ冒頭でもいったように本書は快著である。そこでは神尾が駆け抜けた1980年代からコロナ禍の現在にまで至る時代の姿が、それを凝視する神尾のまなざしとともにしなやかに描き出されている。私は今、本書から受けた震撼の度合を少し時間をかけて測定しなければならないと思っている。最後に一言。気ままに書いたせいで触れられなかった諸点が多く残ったことを、著者である神尾と読者諸賢にお詫びしておきたい。
高橋順一(思想史)







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