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評者◆凪一木
その162 さようならマタギ
No.3563 ・ 2022年10月22日




■ウソ付き上司キツネへのメールである。
 〈お疲れ様です。九月八日朝、お話しされた件ですが、私は今まで通り、異動の希望はございません。前回も団体交渉で確認しました通り、異動に関しては、本人同意が前提です。再度確認よろしくお願いいたします。〉
 以後、延々とやり取りが続き、ウソはつく。言った覚えはない。録音テープを聞かせると、「撤回します」。私の同意がないまま異動命令が出される。三回の団体交渉の末、派遣先でのビラ撒き寸前まで行く。異動先と考えられていた御茶ノ水の某センターから、突如の変更となったのは、某官庁のA省に九年半いた社員の突然の失踪事件が起きたためである。そこに三月一日付けで私は異動となった。そのときのキツネの台詞はこうだ。「急にいなくなったから、喜ばれると思うよ」。失踪のため、机の鍵もあかず、あらゆるものが残ったままだ。九年半もいただけあって、主のような存在であり、箱買いの飲み物、使い捨てカイロだけで三〇個入りが一〇箱以上、冷蔵庫内の食糧は三カ月以上分ある。書籍も五〇冊ほどあり、九州から戻ることなく、三カ月後に兄がやってきて、鍵は戻り、あとはそのままだ。結局異動となった私は、元請けの親会社のような存在の大手ゼネンコン系に寄り切られたわけだ。配置換えというサラリーマンの悲哀を、この年齢にして初めて味わった気分だ。
 私には八歳違いの弟がいる。彼の結婚式以来、会ってはいないのだが、彼の転勤履歴を最近聞く機会があった。弟は、地元の高校を卒業後、やはり地元が本社の北海道の企業に就職するも、手始めが茨城県への異動、そして東京都となる。ここで結婚し家を建て、千葉県に通うも、単身赴任で愛知県、大阪府、滋賀県、和歌山県、そして今は福島県だという。約三〇年で計九都道府県の異動だ。叔父に税務署勤務の人がいて、札幌、根室、滝川、深川、旭川、函館、倶知安、網走、室蘭と北海道のほとんどの町を廻っていたのを私は知っている。定年後アメリカへ渡った。癒着防止のための金融機関でもないのに、弟は便利に使われている。茨城県に異動となって、「会社を辞める」と言って相談に来た弟を、私は無碍に一蹴した。今頃になってあの冷たい仕打ちが、ブーメランのように返ってきたのかもしれない。
 さて、霞が関のA省に異動となった私だが、しばらくすると、見覚えのある男が現れた。いや、この男がいることはもちろん知っていた。秋田県のマタギの町出身の永遠に「気の利かない」パワハラ男、菊一だ。私のいた民間ビルで揉めて、ホテルに飛ばされ、そこでも上手く行かず、飛ばされ、飛ばされ、このA省に半年前に流れて、私の隣の現場に来ていたのだ。五年ぶりに懐かしくもない不愉快な男の顔特徴は、まるで変わらない。マタギはしかし、ここでもうまく行かず、結局、私が来て二カ月後に、飛ばされる。
 飛ばされる一週間前に、当人の菊一は知らされていなかったのか、(既に噂には上っていたのに)こう言ってきた。
 「凪さん。あと四~五年はここにいることになるから、よろしくね」。
 意味ありげな気持ちの悪い笑顔を私に向けてしつこく確認するように念押ししていたマタギ。その直後の異動であった。
 ちょうど、知床観光船事故が起きていた。船会社の社長桂田氏が行うテレビでの談話や謝罪会見を見るにつけ、あの男を思い出す。かつて安藤昇の手下に銃を向けられ、その後に火事となったあのホテルの社長、横井英樹だ。スプリンクラー設置などの改修命令に背き、〈ホテル・ニュージャパンの労組幹部の話を聞いてみると、(中略)「以前は八五〇人もいたホテルの人間が、三一五人になり、そして横井が社長になって、今は、たったの一四〇人の社員しかいないんです。極端な人減らしで、夜間勤務できる者は、たった一五人しかいなかった」〉(『週刊新潮』八二年二月一八日号)
 出港の判断は、船長と桂田社長が協議の上で、というが「死人に口なし」のブラックボックスであり、この社長の話はキツネ同様にどこまで本当なのか信用できない。逆に、船長が指示を無視して出港させたとしても、「私の全責任です」という、映画のなかの高倉健みたいな立派なヒーローもいるだろうが、この社長は、横井と同じで、最後「高倉健に仕留められる側」であろう。軽井沢や関越道のバス事故と同様に、被害者は殆ど賠償金を得られず泣き寝入りとなるのではないか。
 ところで、マタギと民間ビルにいたときのことである。この男の話は聞くのが苦痛であった。「おんめえ、田中角栄知っているか?」が定番で、その日は、「姉歯」の話だった。いわゆる耐震偽装問題で二〇〇五年に発覚した。姉歯事件とも呼ばれ、構造計算書偽造問題である。地震国日本で、人間の命を一体何だと思っているのだ! という常識外の事件である。
 「おんめえ、姉歯の事件知っているか?」「当時報道された程度のことは、少し知ってます」「あれなんて、とんでもねえことよ」
 おお。さすがの常識外れのマタギも、これに関してはまともなことを考えているのだなあ、と少し関心した。ところがだ。
 「あれを罰するなんてとんでもねえ。姉歯の偽装を言い出したら、日本全国みんな、建物なんて建てらんねえべ。とんでもねえことよ」
 ああ。やはりこの男はどうかしている、相手にしてもしょうがない。そう思った。しょうがないが、少し訊いてみる。
 「どうしてですか」「みんなやってることだんべえ。車が皆、法定速度で路上を走るようなものだ。それじゃあ世の中おかしくなるっぺえよ」
 だめだ、こりゃあ。当然この男が指揮を執る現場では、ルール無視、パワハラ当然、理屈もへったくれもない無防備職場と化す。
 「船は出せません」。「いいから出せ。俺が責任を取る。お前は黙って従っていれば良いんだ」。このパターンで、大学病院での火災事件を「お前が勝手に点火したんだよな」と詰め寄られたことは既に書いた。だが菊一は現役だ。場所が場所なら輝く男でもあることは、実感として私にはある。
 過去に働いた地下鉄や橋梁、ビルディングの工事現場で、或いは業界誌に連載を書いていたので何度も参加したトラック野郎の集まりで、マタギのような気の良い男を、私は幾度か目撃した。だが、ビル管理は中途半端なブルーカラー現場である。水位の下がった水槽のようなものである。マタギは、陸上では生きられないように、そこでもまた、水を得た魚とはならないのである。そのことを私に指摘されると、打たれ弱いところも、可哀想であり、残念でもある。
 流れ流れてまたどこかで、三度目の残念な気持ちを味わうのであろうか。
(建築物管理)







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