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評者◆福島亮
状況を眼差す歴史家、ギヨーム・ブラン――『緑の植民地主義の発明』から『脱植民地化』まで
No.3559 ・ 2022年09月17日




■「変える、という選択がフランスにはまだできる。では日本は――」と、締めくくった本連載二三回目の原稿を図書新聞に送ったのが七月四日である。それから四日後に元首相銃撃事件が生じた。「変わらなくてはいけない」という局面に、本当ならば日本は突入しているはずである。「国葬」が予定されているというが、日本が変わるか変わらないかの直近の試金石は、まずはこの「国葬」にあるといえるだろう。
 とはいえ、「変わらなくてはいけない」のはフランスも同じである。五月一二日から九月五日まで、国立文書館で「一八四八年の奴隷制廃止令」の展示会が行われている。また、六月二五日から九月までパリ四区のナポレオン兵舎と郊外のヴァンセンヌの森で「一九三一年国際植民地博覧会」をめぐる展示会が開催されている。これだけをみると、奴隷制や植民地主義といった過去の過ちにフランスが真摯に向き合っているように見える。
 ところが実際に展示会場を訪れてみると、それは展示会と呼ぶことすら躊躇われる代物だった。前者の「奴隷制廃止令」展についていえば、文書館の片隅に、三枚ほど「行政命令」が展示(あるいは設置?)されているだけだった。また後者についていえば、ナポレオン兵舎の外壁に説明用のパネルが一〇数枚掲げられているのみで、そもそも建物のなかにすら入れない(意気消沈し、ヴァンセンヌの森まで行く気は失せてしまった)。いくら名目が立派でも、内実が伴っていなければ意味がない。どんなに中身が空っぽでも、文書上は立派な展示会が開催された体になるのだから、偽善といわれても仕方ないだろう。
 脱力するような名ばかりの「展示会」がある一方で、草の根レヴェルでの希望に満ちた試みもある。七月三〇日、クロルデコンの被害者を支援するための募金キャンペーンが有志によって開始された。本連載第二一回で、フランス語圏カリブ海地域におけるクロルデコン問題に触れた。バナナ栽培という植民地的経済構造のもとで発生した大規模農薬汚染事件がクロルデコン問題である。募金キャンペーンは、企画者であるリリットとシャシャがパリからトゥールーズまで歩き、その様子をSNSで拡散しつつ、募金を集めるというものだった。個人ができることは限られている。とはいえ、郊外の住宅地で行われた出発式には、二人の熱意に賛同したマルティニックのミュージシャンであるデデ・サン・プリも駆けつけた。小さくとも、連帯は可能なのだ。
 また、国立図書館で五月一〇日から八月二一日まで開催されていた「一九世紀の探検旅行」展も規模こそ小さいが充実していた。去年二〇二一年は、パリ地理学会の創設二〇〇周年だった。この展覧会では、これまであまり知られてこなかった女性探検家や非ヨーロッパ人の探検家にも光をあて、西欧が「神話から歴史」をいかにして生み出したのか、地理学会の文書資料を駆使して示したものだった。
 「情報」としてではなく、「状況」のなかで書物と出会うこと。私が留学していてよかったと思うのは、目の前で起こりつつある状況のなかで書物と出会えた瞬間である。本稿では、先に述べた脱力と希望のなかで出会ったギヨーム・ブランの仕事を紹介したい。ブランはここ数年、破竹の勢いで活躍している若手歴史家である。

 一九八二年生まれのブランは、現在レンヌ第二大学の准教授である。二〇一三年に提出した博士論文で、ブランは、カナダ、エチオピア、フランスの国立公園の歴史を比較分析した。このように、ひとつの地域の歴史を掘り下げるのではなく、国立公園のような共通項を立て、複数地域を比較する手法がブランの仕事を特徴づけている。
 博論で展開した分析をもとにして書かれた『緑の植民地主義の発明』(二〇二〇)は、ブランの出世作である。本書は、主にエチオピアでブランが行った農民へのインタビューとフィールドワークを活かしたドキュメンタリー風の書物である。
 アフリカ、ときいて、広大なサバンナを駆け巡る動物たちの映像を思い浮かべる人は少なくないだろう。だが、あの広大な土地に暮らす住人の姿を思い浮かべられる人はそう多くないはずである。というのも、そこに住んでいた人の多くが移住させられているからである。
 ブランはいう。他では失われてしまった世界が、アフリカにはまだ国立公園として残っていると人は信じている、と。実際は、そんなものはまやかしである。ユネスコ、世界自然保護基金(WWF)、国際自然保護連合といった国際機関がやったことは、ある大陸を「自然化」すること、すなわち、「脱人間化」することだった。ここでいう脱人間化とは、文字通り、そこで生活している人々を「自由意志」で、あるいは罰則を用いて立ち退かせることを意味している。ブランはこのような不正義を「緑の植民地主義」と呼ぶ。同書の狙いは、副題で次のように明示されている。「アフリカはエデンである、という神話に決着をつけるために。」
 「エデン」という語は、「緑の植民地主義」がいわゆる植民地時代の遺産であることを物語っている。すなわち、アフリカは「人の手が入っていない、野生の世界である」、という偏見、これが今日、「緑の植民地主義」を下支えしているのである。
 「エデン」神話と「脱人間化」。思えば、一八七二年に世界で最初の国立公園に指定された合衆国のイエローストーン国立公園の歴史からして、それは脱人間化の歴史ではなかったか。イエローストーンで行われたのは、先住民の立ち退きである。『緑の植民地主義の発明』はアフリカの事例に特化しているが、ブランが本書で示した問題系はアフリカだけに限らない。

 今年はアルジェリア独立六〇周年の年である。八月二五日から二七日にかけて、マクロンはアルジェとオランを訪問した。二五日、マクロンは「私たちは共通の過去をもっている」と述べ、アルジェリア戦争関連資料を調査するための歴史検証委員会の創設を宣言した。委員会はアルジェリアとフランス双方の歴史家によって構成されるという。
 大統領訪問の背景には、アルジェリア産天然ガスの輸入増強といった、ウクライナ戦争以降とりわけ緊迫感を増すエネルギー・経済情勢があるだろう。
 とはいえ、二〇一七年、大統領就任直前のマクロンがアルジェリアの植民地化を「人道に対する罪」と呼んでいたことは、(たとえ対立陣営がいうように政治的パフォーマンスとしての側面が強いにしても)思い起こしておくに値する。
 実際、二〇二〇年七月に、マクロンはアルジェリア出身の歴史家バンジャマン・ストラに植民地化およびアルジェリア戦争の記録をめぐる報告書の作成を依頼し、二〇二一年一月、ストラは報告書と提言をマクロンに渡した。同年三月、アルジェリア戦争中に弁護士アリ・ブーメンジェルをフランス軍が拷問および殺害したことをマクロンは認めた。また、同年九月、アルジェリア戦争に際しフランス側に立って戦ったアルジェリア人、いわゆる「アルキ」に対してマクロンは謝罪している。さらに同月、アルジェリアにルーツをもつ若者と大統領の懇談会がエリゼ宮で行われた。若者のなかには、先のブーメンジェルの孫もいた。
 これらマクロンの活動や表明が、そのつどフランス国内で反発を招いているのも事実だ。今回の「アルジェ宣言」にしても、報道を見る限り、「楽観的」というやや突き放した見方が目につく。
 フランスとアルジェリアとの行く末を現段階で占うのは私の能力を超えている。ここで目を向けたいのは、先に紹介した二〇二一年九月に行われた若者懇談会である。そこで、ある参加者は次のように述べていた。アルジェリアは「フランスの学校において必ず扱われるべきテーマである」と。どうやら植民地問題を考えるひとつの鍵は、学校教育にあるといえそうだ。
 今年の二月、ブランの新著『脱植民地化』が出版された。原題は複数形で書かれている。副題には「アフリカとアジアが置かれた歴史」とあり、この「歴史」という語もまた複数形である。「~が置かれた歴史」というのは、著者によって意識的に用いられた表現である。ブランが提示しようとしているのは、複数の地域の「植民地状況」(バランディエ)に照準を定めた、いわば「状況づけられた歴史」の検討である。
 本書は、レンヌ第二大学でブランが学部三年生むけに行った授業をもとにしている。そのため、二年前に本連載第一回目で紹介したオレリア・ミシェルの『黒人と白人の世界史』がそうであったように、専門家向けの書物ではなく、広範な読者に向けた書物である。
 ブランの問題意識は明瞭だ。第一章冒頭で「どのような世界で私たちは生きているのか」と彼は問う。『緑の植民地主義の発明』とも通底するこの広大な問いを検討するために、ブランはアフリカとアジアにおける脱植民地化の比較検討にとりかかる。
 本書は、全体で一二の章からなる。第一章から第三章までは、どちらかというと方法論的な議論がなされており、第二次世界大戦までが扱われる。「(複数の)脱植民地化」の背景がこうして描き出される。以降、第四章では、インドシナ戦争を中心に、アジアにおけるポスト植民地時代の幕開けが検討される。続けて、第三世界主義を扱う第五章、英領アフリカを扱った第六章、アルジェリア戦争を論じた第七章という具合に、時系列順に脱植民地化の歴史が概観され、最後の第一二章ではエリトリア国境紛争、ルワンダ・ジェノサイド、インド・パキスタン関係という三つのポスト植民地的状況が扱われる。
 読者の理解を促すための工夫が本書の至る所に光っている。特に目立つのは囲み記事である。ファノンやメンミといった基本文献や、比較的最近の報道記事の抜粋からなる五〇の囲み記事が本書には挿入されている。いくつか例を挙げよう。オートヴォルタ(現ブルキナファソ)の大統領だったトマ・サンカラがアディスアベバで行った「新植民地主義」批判の演説(一九八七年)。サイードが行ったアルベール・カミュの「植民地的無意識」に対する痛烈な批判。さらには、ルワンダでのジェノサイドを取材したジャン・ハッツフェルドのルポルタージュ……。これらの囲み記事を読むだけでも刺戟的だ。地図が積極的に活用され、脱植民地化の歴史が視覚化されていることも本書の工夫のひとつだろう。私としては、ギヨーム・ブランの仕事はぜひとも翻訳され、日本語読者に届いてほしい。
 ここ数年、非専門家に向けて書かれた植民地/脱植民地関連のドキュメンタリーや書籍がフランスでは充実しつつある印象がある。例えば、帝国史研究をリードする気鋭の歴史家ピエール・サンガラヴェルーが二〇一九年に作成したドキュメンタリー番組『脱植民地化』は、脱植民地化の歴史を豊かな視聴覚資料によって教えてくれる(仏独共同出資のテレビ局ARTEで放送。こちらも題名は複数形で表記されている)。このドキュメンタリーは、二〇二〇年に同じ題名で書籍化された。
 個々の地域や大陸に特化した研究書はすでに蓄積がある。その蓄積をどこまで広範な読者に発信できるかがいま問われている。すべての書籍や映像を検討したわけではないから印象論に過ぎないのだが、ここ数年フランス語で発信される植民地/脱植地関連の書物を見ていて感じるのは、この発信=教育への情熱である。この情熱は、マクロンのように、植民地闘争を直接経験していない世代が多くなってきたことと連関しているのかもしれない。

 現在は過去を引き摺った時間である。「どのような世界で私たちは生きているのか」という問いに対し、「過去」への眼差しは不可欠だ。エデン神話が国立公園という装いのもと「緑の植民地主義」として残存していることを明らかにしたギヨーム・ブランは、最新の書物『脱植民地化』によって、「現在」の諸状況が引き摺る「過去」の複雑さを総覧した。ブランがこれからどのような仕事をするのか、私は心の底から楽しみにしている。
(フランス語圏文学)







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