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評者◆粥川準二
人工合成胚は「感じる」のか、そして「考える」のか?――議論を始めるのに早すぎるということはないはずだ
No.3556 ・ 2022年08月27日




■国内の主要メディアはあまり取り上げていないようだが、コロナ報道にまぎれて、気になる研究結果が発表された。
 八月一日、イスラエルにあるワイズマン科学研究所のヤコブ・ハンナらはマウスの実験で、精子も卵子も子宮も使わずに「人工合成胚(synthetic embryo)」をつくることに成功した、と報告した。彼らはそれをES細胞(胚性幹細胞)から作成した。論文は同日付の『セル』で公表され、英語圏では多くの主流メディアや専門メディアが報じた。
 いうまでもなく、「胚」とは受精卵が少し発生したもののことであり、一個体――人間だったら「一人の個人」――になる可能性があるものである。だからこそ、人間の胚を壊してES細胞の作成や各種研究に使うことには、キリスト教徒をはじめ一定数の人々が反対し続けているのである。
 では、胚を「つくる」ことはどうなのだろうか? あるいは「胚に似ているもの」については?
 ハンナらは、マウスES細胞を、①胎盤になるようにしたもの、②いわゆる多能性(さまざまな細胞へと発生する能力)を維持したもの、③「卵黄嚢」になるようにしたもの、を用意した。彼らはそれらを一緒にした「細胞塊」を、自分たちが以前に開発した「人工子宮」で培養した。
 すると細胞塊のうち一部は発生を開始し、六日目には神経が現れ、脳が形成された。八日目には腸管や血管、そして拍動する心臓が確認された。
 また、ハンナらがその遺伝子を調べたところ、そのうち九五パーセントは通常の胚のものと同様に機能していたこともわかった。
 つまり、この実験でできたものは、形状だけでなく機能も通常の胚に近い。したがって「人工合成胚」と呼びうるものではあろう。
 ただし技術的な限界はある。マウスの妊娠期間は約二〇日間なのだが、それら人工合成胚が発生し続けたのは、最長で八・五日間であった。また、その心臓は肥大していた。
 成功率も低い。約一万個の細胞塊のうち、人工合成胚と呼びうる状態まで発生したのは約五〇個、つまりわずか〇・五パーセントであった。
 ハンナらは論文で、「このような合成された高度の組織体(=人工合成胚)から得られる細胞や組織は、組織分化の研究や移植バイオテクノロジーの研究に役立つ可能性がある」と、この研究の意義を述べている(以上は、『セル』掲載論文のほか、川勝康弘「精子、卵子、子宮を使わずに「マウスの人工合成胚」の作成に成功!」、ナゾロジー、八月九日、などを参考にした)。
 筆者は脳死者や生きている人からの臓器摘出には大きな問題があると考えている。だから人工的に臓器をつくることが可能ならば、それをめざす研究を歓迎したい。
 しかし――この類の研究やそれがめざす臨床応用に倫理的問題が存在しないわけではないだろう。
 この研究ではマウスのES細胞が使われたが、次にはマウスのiPS細胞、またはヒトのES細胞かiPS細胞が試されるに違いない。実際、ハンナはある記事で、次は自分自身(やほかのボランティア)の血液細胞や皮膚細胞を使うつもりである、と述べている(Antonio Regalado, This startup wants to copy you into an embryo for organ harvesting , MIT Technology Review, August 4, 2020)。おそらくiPS細胞を経由して人工合成胚をつくるつもりなのだろう。
 拙著『ゲノム編集と細胞政治の誕生』(青土社、二〇一七年)でも指摘したことだが、iPS細胞には倫理的な問題がないわけではない。iPS細胞はES細胞と違って、同じ遺伝情報を持つ人がこの世界のどこかでいまも生きている可能性が高い。iPS細胞は体細胞を提供した人のクローンなのである。
 生命倫理学者のジュリアン・サヴァレスキュ、クリストファー・ジンゲル、澤井努は早くもこの研究についてコメントした共著記事を公表し、こう指摘した。「最悪のシナリオは、ある人が病気を治すための臓器をつくる研究のために皮膚細胞を提供したが、それがその人の知らないうちに、あるいは同意のないまま、人工合成胚の作成に使われてしまうことである」(First synthetic embryos: the scientific breakthrough raises serious ethical questions, The Conversation, August 11, 2020)。その通りだろう。サヴァレスキュらは「クローンに対する恐怖に負けて、肝心の研究を妨げてはいけない」とも主張している。しかし、クローンだからこそ慎重になるべきだ、ともいえるはずだ。
 また、ハンナらの論文によれば、この人工合成胚では、神経や脳、拍動する心臓が確認できたという。この人工合成胚は、痛みを感じるのだろうか。何かを考えるのだろうか。そして心臓の拍動とは、私たちがしばしば「生きていること」の証しとみなすものではないか。
 ハンナらは前述の記事で、遺伝子工学(ゲノム編集?)を使って、そもそも頭部を形成しないように操作した人工合成胚をつくることを対応策として提案している。
 また、SNSや英語圏のウェブ記事では、この技術はまだ不完全なので倫理的な議論するには早い、といった冷笑的な論調も散見される。だが議論を始めるのに早すぎるということはないはずだ。筆者が研究機関の倫理委員会の委員などだったら、動物実験でできることをすべてやってほしい、その間に人間の人工合成胚で起こりうる倫理的問題を思考実験的に検討しよう、と提案するだろう。
(叡啓大学准教授・社会学・生命倫理)







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