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評者◆睡蓮みどり
大切な映画とまた出会えた――山岡信貴監督『アートなんかいらない!』、トッド・スティーブンス監督『スワンソング』、アレックス・トンプソン監督『セイント・フランシス』
No.3556 ・ 2022年08月27日




■少し前にとうとうコロナというものにかかり、家から出られない日々が続いた。熱も咳もなく喉が少し痛い程度の軽症で済んだからよかったものの、朝一に病院に電話してもすでに予約でいっぱいで為すすべがなかった。最も嫌いな4文字「自己責任」という言葉を真正面から突きつけられたような気分。宅配サービスを普段から利用したり、同居人の助けがあるからまだいいけれど、そのようなサービスや助けを借りられない人はどうなってしまうのだろう。
 ところで、コロナ禍になってからというもの、基本的にやる気の低迷が続いている。もちろんその間に着実に年齢を重ねているということもなくはないだろうけれど。感動しなくなること、何もしたくなくなること、まずいなと思いつつも、何もできないで時間ばかりが過ぎていく。だんだんと人間でなくなるような感覚だ。
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 『アートなんかいらない!』という映画を見た。「アート不感症の人」による思考の旅が続いていく。荒川修作の映画を作り、縄文時代に惹きつけられ、その後コロナ時代に突入し「アート不感症」となってしまった監督自身のことでもある。この言葉を聞いて、少なくとも私は「アート不感症」だとは思いたくないとすぐに思った。「不要不急」という言葉が横行したとき、「アート不要論」という言葉も出てきた。「不要」といわれたら反射的に「そんなわけあるか」と言いたくなってしまう。とにかく反発したい。「要るにきまっている」と格好つけた青二才でいることは簡単だ。しかし、その瞬発力もなければ、立ち止まって考える
思考力もない。無思考であるとも言える。私は一度でも立ち止まって、本当に必要なのかと熟考したことがあっただろうか? 思考の廃人? うん、これはまずい。
 「『アートなんかいらない!』と宣言してしまえば確かに一言で済む話なんだけど」と監督は言う。言い切ることのできない、なんとも歯切れの悪い言い方で。そして、2部構成で約3時間、30人近い人たちのインタビューが続き、「アート不感症」を一人称とした思考のナレーションが町田康の声で入る。椹木野衣が「影の声」として本作に参加。
 これは一体何か? 自分探しなのか? 私小説のつもりなのか? という少し意地悪い言葉が頭をよぎったのは事実だが、徐々にここまで真剣にアートについて思考することそのものに感動を覚えはじめる。それに巻き込まれてしまっていることが楽しくなってきている。とはいえ、映画を見てみたところで何かわかった気になることはできず、振り出しに戻るのだ。監督の思惑通りなのかもしれない。そうして思考は続く。
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 『スワンソング』は実在したヘアメイクドレッサー、パトリック・ピッツェンバーガーの物語。タイトル通り人生最後の作品「スワンソング」で、パットは何を表現するのか。いまや老人ホームに暮らしているパットは、禁煙を言い渡されてもタバコを吸い、少し面倒臭い人物とみなされている。かつて親友だった街一番のお金持ちであるリタの遺言に「死化粧をしてほしい」と書いてあったと知らせが届く。現役を引退して長く、また二人の間にはわだかまりがあったようで、すんなりとは引き受けないものの、パットはリタの元へと向かうことになる。
 その旅路で、彼は過去のことをあれこれと思い出す。華やかだったかつての自分ではなく、思い出すのはかつて愛した恋人のことや、友人のことである。恋人はかつてエイズでこの世を去っていた。まるで目の前に本当に存在しているかのように、かつての人がパットの前に現れるのだ。ユーモラスなだけでなく、スウィートなポップスにのってとてもセンチメンタルに。
 「『スワンソング』は、急速に消えていくアメリカの“ゲイ文化”へのラブレターなのだ」という。一方で、LGBTQをテーマにした映画がこの10年で急速に数を増やしていった。一時期の“流行りのテーマ”として消費されることがとても不安に感じたほどだ。90年代におけるゲイカルチャーへの懐かしさ、そして現代の様子も盛り込み、この映画の眼差しの愛情深さを体感する。ダンスフロアーでスターのように輝くパットの姿は、かつて17歳の頃に実際に監督の目に映った記憶なのだろう。パットは間違いなく監督のなかで生き続けてきたのだ。ウド・キアー演じるパットの存在感、この映画がもつきらめきにとことん魅了される。
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 34歳、大学中退、定職についていない、ということに心当たりが痛いほどあり、とても人ごとと思えない。主人公のブリジットはそんな女性だ。34歳というのはもっと大人だと昔は思っていたが、どうやらそんなこともないらしい、ということを身をもって実感している。彼女もまた、決して成熟していない大人で、何をすべきかもわかっていない。だが一方で、他者や社会のせいだとしてやさぐれるわけでもなく、彼女なりに考えを持ち生き抜いているタフさもある。『セイント・フランシス』は、彼女があるレズビアンのカップルの子どもフランシスの子守として働くことになるほんのひとときの物語だ。
 痛みに焦点を当てるのではなく、続いていく日常に光を当てるのがこの映画の魅力だ。ブリジットは出会ったばかりのボーイフレンドとの間にできた子どもを産まない選択をするのだが、人工中絶後の体調不良を、こんな描写では見たことがない。生理の描写もそうだが、たいていの場合、映画のなかで女性の身体から血が流れることは過剰な意味を持ちすぎる。日常のこととしては描かれにくい。女性自身がコントロールできるから、また日本より安いからという理由もあり、欧米ではピルを服用するのが主流ではある。だからと言って避妊は女性だけがしなければならないわけではない。産後うつの母を思いがけず救うブリジットの一言は、優しさや共感ではなく、自分の母親から聞いたまさかの経験談。ぐずる赤ん坊を前に公園で授乳するときに文句を言う人とどう接するか。オブラートに包むどころか、女性描写としてタブーとされてきたことを直球勝負で包み隠さずに描く。それも、ごく自然に。そんな日々の感覚や“等身大の女性像”を脚本に落とし込んだのは、ブリジットを演じたケリー・オサリヴァンだ。
 かつて2001年に公開されヒットした映画「ブリジット・ジョーンズの日記」シリーズ。三作目邦題のサブタイトルは「ダメな私の最後のモテ期」だった。このタイトルに集約されている女性像は「30を過ぎて結婚に焦る女の奮闘」であり、なおかつ「ダメな私」などといってしまっている。私は当時ブリジットと同世代ではなかったものの、あっちのブリジットが“等身大の女性”として描かれることに反感を覚えた。こっちのブリジットは結婚を強く望んでもいないし、子どもがほしいと焦ってもいない。ちょっと浮気な恋をしてみても執着はしない。だけど将来を何も考えていないわけでもない。過剰に人を羨んだりしないし、やたらと自己評価を下げたりしないのだ。ただ目の前にいる人たちに対して真摯でいる。
 不本意ながらも始まった6歳のフランシスと過ごす時間は、思いがけずも美しい。日々成長するのは子供だけではない。親も、まわりの大人も、一緒に成長していく。この映画には何度も素晴らしいシーンがあり、思わず涙ぐみ、幸福なため息が出そうになった。大切な映画とまた出会えた。(俳優・文筆家)







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