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評者◆関大聡
セリーヌの『戦争』――一世紀の時を経た大戦争の出現
No.3555 ・ 2022年08月13日




■「俺は戦争を頭の中に捕まえた。戦争は俺の頭の中に閉じ込められた。」
 このフレーズはセリーヌを語るため今後も繰り返されることになるだろう。『夜の果てへの旅』(一九三二)や『なしくずしの死』(一九三六)の小説家として知られるルイ=フェルディナン・セリーヌ(一八九四‐一九六一)は、二〇世紀フランスの作家としてはプルーストにも比肩すると評される。他方で、一九三七年以降の反ユダヤ主義文書の発表や、ナチ占領期における対独協力の疑惑などから、今日に至るまで論争の的になり続けている。
 そのセリーヌの未発表の草稿群が大量に発見されたと「ル・モンド」が報じたのは二〇二一年八月のこと。草稿は、一九四四年、戦前・戦中の言動を理由に訴追されることを恐れたセリーヌ夫妻がドイツに逃れたときにパリのアパルトマンに放置したもので、作家自身が「盗まれた」と訴えていた。今回の発見騒動の発端となったジャーナリストは、三〇年以上前にある人物から草稿を託されたと主張し、その人物の希望により、セリーヌの未亡人であり権利保持者であるリュセット夫人が亡くなるまで草稿を保管していたと言う。以来、盗難物の隠匿をめぐる裁判が起きたりもしたが、この五月になんとか『戦争』の刊行に漕ぎつけ、今後も『ロンドン』などの未発表草稿の刊行が予定されているというから、これが文学史上の大事件として受け取られるのも納得できよう。

 『戦争』は、第一次世界大戦を舞台とする小説である。「フェルディナン」と呼ばれる主人公の属していた小隊がフランドル地方で全滅し、彼自身も頭と腕に大怪我を負ったところから物語は始まる。セリーヌ自身、二〇歳のときに徴兵され、頭部と腕に大怪我を負い、腕は手術で切断されかけるほどだった。伝記『セリーヌ』の著者アンリ・ゴダールが言うように、この従軍経験と入院生活、戦場と銃後の暮らしの落差の発見、それにイギリスへの出発と続く一連のシークエンスは、それまで比較的大人しい青年だったセリーヌにとって「回心」とも「転換点」とも「変身」とも呼ばれうる。戦争経験の痕跡は『夜の果てへの旅』をはじめ、ほぼすべての小説に見出されるもので、学術的な裏付けを望む向きには、ヨアン・ロワゼルとエメリック・サガンによる『大戦争のトラウマとルイ=フェルディナン・セリーヌ』(二〇二一)も刊行されている。
 では『戦争』の新味はどこにあるだろうか。まずは、これまで著者が作品ではっきり語ろうとしなかった、戦場で負傷した直後の様子が語られていることが挙げられる。ただし、二点ほど注意が必要である。一つ目は、これは証言ではなく小説であり、主人公はフェルディナンと呼ばれるものの、虚構を多分に含んでいる点。二つ目は、現実には一九一四年十月二七日に起きた負傷を語るこの物語は、それから二〇年経った一九三四年に執筆されている点だ。著者は二年前に『夜の果てへの旅』を発表しており、本名のデトゥーシュではなく筆名のセリーヌを選び取っている。したがって、一九一四年当時に起きた事実との時間的な隔たりは無視できないものがある。
 ところが、ページを開くと直ちにそのような注意を剥ぎ取られ、読者はベルギー西部の激戦地に導かれる。負傷したばかりのフェルディナンは、吐血し、嘔吐し、同じ小隊の死んだ仲間たちの姿を亡霊に見ながらも付近の町に辿り着き、病院に収容される。病院には死の臭いが貼り付き、打ち付けたショックで頭からは大砲音や轟音が鳴りやまない。戦争は「頭の中に閉じ込められ」た。この戦争体験が、二〇年の歳月を経てなおセリーヌの筆を動かし、その執筆からさらに八〇年以上が経過して初めて刊行されたという奇蹟。「なんといっても生は広大なものだ。ひとは至る所で迷う」。結語となるこの言葉そのままに、『戦争』は時間と空間、現実と虚構を彷徨った後、突如として私たちの目の前に現われ、一世紀以上前の戦争の姿を現実形で示した。まずはここに、数奇な運命をたどった本書の何よりの魅力を見たいと思う。

 セリーヌと言えば、『夜の果てへの旅』で確立された、しばしば「民衆的」と評される文体に注目がいくが、推敲を経ていないとはいえ『戦争』にも同様の文体が見受けられる。蔑称や差別語を数多く含む隠語の使用(巻末にリストがある)は、ここでは戦争の介在により必然性を帯びる。軍隊では当然のように猥雑な隠語が用いられるが、それにも増して、戦争経験は親世代との間に決定的な断絶をもたらし、それは何より「正しい」言葉遣いとの断絶であった。見舞いに駆け付けた父母の話を耳にしながら、フェルディナンは何も答えず、「この父母ほど胸クソ悪いものは見たことも聞いたこともない」とひとりごちる。またしばらくして父から届いた「完璧な文体で完璧に書かれた」手紙には、「この胸クソ悪い手紙の中で最悪なのは、父親の文章の音楽を好きになれないことだ」と毒づく。後に文体を「小さな音楽」と評する彼の文体観が早くも表明されているが、ここではそれが、ブルジョワ的で礼儀正しい父母の話し方、書き方への憎悪として表明されている。
 第一次世界大戦は、とりわけそれに従軍した若い作家を中心に、「言語への不信」を惹き起こした。文字どおり言語を絶する経験をした彼らには、慣例的な表現手段の虚妄性が容易く見えてしまったのだ。とはいえ、有名なアンリ・バルビュスの『砲火』(一九一六)をはじめ、戦争文学は必ずしも文体的な発明を生まず、むしろ自然主義的な文体に留まっていたとも言われる。こうした見方は最近、ジェローム・メゾの『話す小説の時代(一九一九‐一九三九)』(二〇〇一)などにより再考を促されており、戦後のポピュリズム文学やプロレタリア文学が民衆的な「話し言葉」をいかに文学に移そうとしたかの研究が進んでいる。メゾによれば、フランス語におけるセリーヌの「革命」も、こうした同時代の試みから理解されるべきだとされるが、それが事実だとしても、戦争が引き起こした言語への不信を徹底して突き詰め、「正しい」書き言葉に反旗を翻した功績は、何よりセリーヌに帰せられるべきものである。『戦争』には、舌先を失った砲兵が発した言葉が、その言い回しそのままに表現されているくだりがある。この現実は、この言葉でなければ伝えられない。その必然性を作家は異論の余地なく示したのである。

 ある日、病院で過ごすフェルディナンに寝耳に水の知らせが届く。戦場での勇敢な使命の遂行と名誉の負傷を理由に、軍人勲章が授与されることが決定されたのである。これにより彼の立場は、「英雄」のそれに決定的に変わる。兵士たちの英雄化は、第一次世界大戦中にとりわけ推し進められ、今日も至るところでその記念碑を見出すことができる。現実のセリーヌも勲章を受けたのだが、『戦争』はそうした英雄化への抵抗でもある。
 父母たちが集まり記念の祝賀会が催されることになったとき、親たちはいかにも真面目な顔で「あの汚らしいドイツ人たちにやり返さないと」「新聞で連中の残忍さについて惨たらしい詳細を読みました。本当に信じられません!」「ああいうことを止める手立てがなくては……」と議論し合う。戦場で死と隣り合わせになったフェルディナンたちには、まるで何か至高の「手立て」があるに違いないと確信したような大人たちの話しぶりが馬鹿らしくて仕方がない。「彼らはこの残酷な世界、果てのない責め苦というものが理解できない。だからそれを否定するのだ」。大戦前のヨーロッパ世界において、文明の進歩や理性への信頼、楽観論(オプティミズム)は広く共有されていた。そして兵士の英雄化とは結局、性善説が戦争という悪を前にして見出せる、唯一の慰めなのだ。「彼らは俺の腕への称賛を惜しまなかった。この素敵な傷に対してなら、オプティミズムを解き放てるのだ」。セリーヌが過剰に用いる猥雑な言葉、性的な描写、グロテスクな笑いは、「彼らの巨大なオプティミズム、間抜けぶり、腐りきった愚行」に向けられたものであり、戦場からの呪詛の声である。それは戦争そのものの断罪であると同時に、戦争により世界が壊れたことに気づかない者たちへの怒りである。
 今日まで続く戦争の悲惨と、それを取り巻く言説の愚劣さについて、セリーヌは獰猛に攻撃する。この点で本書の刊行は時宜を得たものと言わねばなるまい。ところで、セリーヌにおいて戦争と反ユダヤ主義は切っても切れない関係にある。であれば、これに言及せずに時評を閉じることはできない。次回は、セリーヌを取り巻く近年の言説について紹介することから始めたいと思う。
(フランス文学・思想)







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