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評者◆睡蓮みどり
まだ戦後は終わらない――カンテミール・バラーゴフ監督『戦争と女の顔』、アンティ・ヨキネン監督『魂のまなざし』
No.3552 ・ 2022年07月23日
■信じがたいことが現実に起きた。安倍元首相が手製の銃によって暗殺された。真っ先にテロだと思ったが、テロではなかった。日本は表向き、宗教が根付いていない国とされてきたが、そもそも日本はずっとカルト国家である。とりわけ自民党とカルト宗教は根深い関係にある。みんな知っているのになぜかタブー視されてきた。
高校生時代のことを思い出した。何の授業だったか,「Pure Love Candy」のことを聞かされた。その名前が書かれた飴を絶対にもらってはならないと強く言われた。大学に入ると宗教勧誘も多くなるので気をつけろとも促された。実際にあらゆる宗教勧誘にあった。孤独な新入生は狙われやすい。今回の報道を受けて、犯人の母親が在籍していたという旧統一教会が会見まで行った。「Pure Love Candy」を配っていたのは同じ団体が母体である。 このことが事件すぐ後の週末の選挙にどう影響するか、とても恐ろしかった。同情票という意味のない言葉がちらほら聞こえてきた。人が命を奪われるという行為が堂々と行われてしまうことの危機感はおそらく多くの人に影響を与えたはずだ。結果としては、今回も自民党の議席が当然のように過半数を超えた。女性議員の比率が過去最多となったことは純粋に嬉しいが、政治について勉強不足だという人まで堂々と入ってしまっている。決していい方向に向かっているとは思えない。改憲はどうなるのか。私個人は改憲に反対だ。まだ隠されたままの様々なことはなかったことになってしまうのだろうか。この国がこれ以上戦争へと向かわないことを願う。 * 1945年秋、終戦直後のレニングラードを舞台にした映画『戦争と女の顔』をご紹介したい。最初に言っておく。ものすごい大傑作である。この映画の重要な人物となるのは元兵士の二人の女性だ。いまは看護師として働くイーヤ(ヴィクトリア・ミロシニチェンコ)と戦地から帰ってきたばかりのマーシャ(ヴァシリサ・ペレリギナ)。彼女たちはそれぞれPTSD(心的外傷後ストレス障害)に悩まされている。冒頭でも、突如引き戻されてしまったイーヤの表情がこの映画の雲行きを印象付ける。彼女たちがどんな経験をしたのか、簡単に明かそうとはしないが、イーヤの表情を凝視しているうちに、次第に予想外の物語展開にひきこまれていく。 本作は2015年にノーベル文学賞を受賞したロシアの作家スヴィトラーナ・アレクシエーヴィチの処女作『戦争は女の顔をしていない』に出てくる証言が原案とされている。戦争体験がどれほど人々にストレスを与えるかは知られているところだ。PTSDは、時間が何も解決してくれないということに大きな問題がある。簡単にトラウマの原因となったその瞬間に引き戻されてしまう。不自然にも感じられるほど背丈の大きなイーヤはまるで、画面からはみだしてしまうのではないかと思わせるほど、不穏な存在として描かれる。戦友マーシャの代わりに育てていた子どもを自分のせいで失ってしまうイーヤ。そこからふたりが、新たに子どもを持とうと画策することになる。 子どもが希望かどうか、ということに関してはイエスともノーとも言えない部分がある。少なくとも簡単にそう言いたくない。子どもはあくまで別人格の他人であり、所有物ではない。子どもの存在=自分が生きる希望だとするのはエゴだと思うから。一方で、最も身近な小さな存在を守ることに喜びを見出すこともまた想像はできる。守るべき他者がいること、裏切らない(はずの)他者がいることで強くなれることもある。この二つは矛盾するだろうか。 ただこの映画において、子どもを産むことを単なる希望と捉えてしまうにはもっと複雑で、残酷なものが潜んでいるように感じるのだ。そもそも、死んだ子どもの代わりとして新たな子どもを持とうとすること。そして、子どもを望んでいない女に子どもを産ませようとすること、それを受け入れること。イーヤとマーシャの関係性は単なる友情というよりも、まるで女王と奴隷のような主従関係とも言えるような倒錯した愛のかたちさえも感じさせる。そういう点でこの映画は『愛の嵐』を想起させる。この映画において、男はただ子どもを手に入れるための手段であり、男という存在そのものは生きる糧にはならない。 マーシャと一度関係を持った上流階級のウブな男サーシャが、マーシャを妻にしたいと考える。サーシャの母はマーシャを「戦地妻」という呼び方を使い見下し、戦争から戻った男たちは英雄扱いし褒め称えるのと真逆の対応をする。ここでマーシャが戦地での出来事を告白するのはある意味とても自虐的である。もし本当にこの家に入り込もうとするならば決してしない行為だ。隠しておけばいいことを彼女は話し、そのことで周りを傷つけようとする。コントロール不能になり、目的が途中で変わっているように見える。まるで自分以外はみんな敵だといわんばかりに。 この映画に重要な色として出てくる赤と緑。血と生命の色。この映画が始終この真逆の二色に覆い尽くされていることが胸をざわつかせ、見入ってしまう。交わらない色が交わりそうでこわくなる。この不安は終わらない。まだまだ戦後は終わらない。 * まだロシア帝国支配下にあった1915年から独立を経て1923年までのフィンランドが舞台の『魂のまなざし』は画家のヘレン・シャルフベックの物語である。焦点を当てているのは、ヘレン(ラウラ・ビルン)と19歳年下のエイナル・ロイター(ヨハンネス・ホロパイネン)との関係性である。二人の間にあったものが、一体何だったのか。生涯かけて友情を貫いた? すれ違ってしまった二人なのか? いや、そんなことを型にはめて、美しい友情にする必要も、ましてや美談にする必要がないのだと改めて感じた。エイナルを描きたいと思ったことも、彼が別の若い女性と結婚してしまって打ちひしがれたことも、どっちも本当なのだ。 関係性で言えば、同居していた母親との関係性が興味深い。ヘレンに呪いをかけ、依存を強いる存在は相当なストレスであっただろうが、その怒りは確かなエネルギーとなり、時として作品にぶつけられていたようでもある。母への憎しみも、離れられなかったことも両方事実だろう。この映画に登場するインテリアの内装から、自然の木漏れ日まですべてに温かみがあり美しい。そのなかで、時折そこだけ何の温度もないかのようなヘレンのまなざしに惹きつけられる。決して優しいだけではない、深い孤独と絶望と怒りが滲んだ美しい目。 ヘレン・シャルフベックという人は本当に何かを恨んだりしなかったにちがいない。名声欲のない人としても描かれている。生涯の友人であり続けたヘレナ・ヴェスターマルクと一緒にいるシーンはさりげないものの、この偽りのない友情がヘレンにどれだけいい影響を与えたかを窺わせる。キャンバスに書かれた多くの人間たちの顔を見ていると、こう思う。おそらく彼女は欲望そのものを深く愛し、かつ欲望からは自由の身でいたのだろう。真に自由でいられるということは、いつだって涙が出るほどにひとりきりで寂しいものだ。 (俳優・文筆家) |
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