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評者◆福島亮
パップ・ンディアイ、歴史家にしてアクティヴィスト――静かなる革命家はフランスを変えうるか
No.3551 ・ 2022年07月16日




■今年の五月、ある大臣の任命をめぐってフランスに激震が走った。任命されたのは、パップ・ンディアイ。エリザベット・ボルヌ内閣の閣僚リストに国民教育・若者省大臣として彼の名が加わると知った時の驚きは忘れられない。
 激震の理由は、前任のジャン=ミシェル・ブランケールと真逆のスタンスの人選だったからである。本連載第一八回で関大聡が報告しているように、ブランケールといえば「イスラム・左派主義(イスラモゴシスム)」批判の中心人物として知られている。これは、一義的には「イスラム過激派に協調的な左翼」を批判するものであるが、そのような「左翼」が存在するという明示的な根拠は示されていない。「一義的」と述べたのは、「脱植民地主義」「トランスジェンダリズム」「ウォーキズム」などに対する一連の批判のなかに「イスラム・左派主義」批判もあり、それぞれを単体で捉えてもあまり意味がないからである。これに対してパップ・ンディアイはといえば、ブランケールによる「イスラム・左派主義」批判に真っ向から異論を唱えていた。端的に言って、前任者と後任者とで主張は真逆である。
 パップ・ンディアイとは誰か。日本語で読むことのできる彼の著書は、『アメリカ黒人の歴史』(創元社、二〇一〇年)一冊である。現代フランスを代表する作家マリー・ンディアイの兄、といえば親しみが湧くかもしれない。
 二〇二一年に彼が国立移民史博物館館長に任命された際、ニューヨーク・タイムズ紙は、彼にかんする賛辞の言葉のなかから「静かなる革命家」という言葉を引用していた。私も、パップ・ンディアイを静かなる革命家だと考えている。革命家、という語が含み持つ猛々しさは彼には似合わない。だが、情熱を決して手放さずに着実に社会を変えていこうとする意志の勁さは、革命家というにふさわしい。今回はその歩みを辿ってみたい。

 時は一九六〇年代中頃。パリ南部の郊外都市、アントニーにある学生寮で二人は出会った。セネガルから留学していたティディアーヌ。彼は最難関のグランゼコールである国立土木学校で最初に学位を取得したサブサハラアフリカ出身者だ。そしてフランス人女性のシモーヌ。彼女はボース地方の農家出身である。
 六五年、二人のあいだに男の子が生まれた。彼はパップと名付けられた。その二年後、パップには妹マリーが生まれる。
 パップが三歳の時、父ティディアーヌは家族のもとから姿を消し、セネガルに戻ってしまう。詳しい理由はわからない。以降、理科教師をしていた母シモーヌの手でパップとマリーは育てられる。フランスで生まれ、フランス人の母の手一つで育てられた二人の子どもたちは、黒い肌を意識することはほとんどなかった。後々、パップは自らを「遅れてやってきた黒人」と呼ぶことになるが、それは彼が自らを「黒人」として意識するようになったのが、ずっと先、二〇代半ばのことだったからである。
 パップがずば抜けた秀才であることは誰の目にも明らかだった。大学入学資格を最優秀の成績で取得し、名門のアンリ四世高等学校の準備学級に進学。八六年、難なく高等師範学校に合格した。それからわずか三年で大学教授資格(アグレガシオン)を取得し、翌年(九〇年)には博士論文提出資格(DEA)を取得。この時点で彼はまだ二五歳である。絵に描いたような秀才だ。
 当時の彼は、このままエリートコースを突っ走り、フランス国立行政学院を経て、上級公務員になろうと考えていた。その陰には、彼のもとから立ち去った父の存在があった。
 じつは、パップは十代後半から、自らの姓を父と同じN’Diayeではなく、Ndiayeと綴るようになっていた。小さな修正ではある。だが、ここには父の姓から距離をとり、フランスの行政システムにできるだけ円滑に入り込もうとする意志が反映されている。とはいえ、この出世への情熱には、勉学で身を立てれば、幼少期に姿を消してしまった父が目をとめてくれるかもしれない、という思いもあったとパップは述べている。大臣の就任演説で、彼は自身を「メリトクラシー(能力主義)の純粋な産物」と呼ぶことになるのだが、そこには父の関心を引こうと懸命になっていた青年期の苦心が込められているのではないか。
 しかし、ここにはまだひとりの秀才がいるにすぎない。静かなる革命家はまだいない。
 九一年から九六年まで、パップは奨学金を得て合衆国に留学する。博士論文を完成させるためだった。当時の彼の研究テーマから現在の姿を読み取るのは難しい。というのも、彼が専門として選んだのは経営史だったからである。ヴァージニア大学教授オリヴィエ・ザンツのもとで、パップはナイロン製造企業デュポン社の軍産複合体制を研究する。
 第一の転機は合衆国で訪れた。ある日、パップは黒人学生団体から会合に招待される。それは黒人だけが参加できる会合だった。肌の色を理由に招待された。そのことが、まずは新鮮だった。黒人学生との交流を通じて「黒人」であることをパップは自覚するようになる。
 この時期の彼の仕事を検討すると、一方では専門の経営史研究を着実に進めている。だが他方で、アメリカ黒人史にかんする研究も行っていた形跡がある。合衆国研究であ
ることに変わりはないのだが、どこか研究に揺れが生じているようなのだ。ともあれ、九二年には、ザンツの著書『ブルーカラーのアメリカ』(原題『アメリカ企業の形成』)のフランス語訳を刊行し、秀才としての姿は健在だ。もっともそれは翻訳者としてのデビューに過ぎなかったともいえる。翻訳者の地位が相対的に低いフランスで、パップの名が知られることはなかった。彼が自らの言葉で社会に切り込むにはまだ時間が必要だ。
 九六年、パップは留学で得た成果をまとめ、フランスに帰国。社会科学高等研究院に博士論文を提出した。論文は、『ナイロンと爆弾』と題され、デュポン社という化学繊維会社が、いかにして原子力爆弾の製造にまで加担するようになったかを文書館資料を駆使して実証したものだった。審査員から論文は高く評価され、九八年にパップは同研究院の准教授に着任する。清々しいほどの出世である。博士論文は二〇〇一年に書物として刊行され、書評にも恵まれた。これによって合衆国史の専門家として自己を確立したといって良いだろう。
 だが、私にとって興味深いのは、この頃、歴史家としての自己確立と並行するようにして、黒人としての自己認識を表現するべく、パップが社会活動に参加しはじめていることである。
 第二の転機がこうして訪れる。〇四年に創設された「フランスにおける多様性促進行動サークル(CAPDIV)」のメンバーにパップは加わった。CAPDIVの活動は黒人、同性愛者、ユダヤ人などあらゆる差別の撤廃を目指したものだった。CAPDIV代表者のパトリック・ロゼスは、翌年(〇五年)、「フランス黒人団体代表委員会(CRAN)」を設立する。パップはそこでも学術委員に名を連ねた。こちらは団体名からもわかるように、黒人団体に焦点を絞った組織である。
 CRANが組織された背景には、「二〇〇五年二月二三日法」と呼ばれる法が引き起こした一連の論争がある。アルジェリア戦争中にフランスに渡ったアルジェリア人兵士(アルキ)への補償などを定めた条文のなかに、フランス植民地主義の「肯定的な役割」が謳われていたのである。このあまりに独善的な文言に対しすぐさま反駁がなされたのは言うまでもない。同法は翌年一月に廃止される。一連の反駁と並行して、〇五年秋にはパリ郊外暴動も発生している。
 パップの活動が目に見えて変化するようになるのはこの時期だ。〇四年から〇五年を契機に、合衆国およびフランスにおける「黒人」をめぐる社会問題への言及が顕在化するようになるのである。例えば、〇六年には東京日仏会館で「フランスにおける公的領域への黒人の登場に関する考察」と題した講演を行っている。
 そして〇八年、パップの記念碑的書物『黒人の条件』が刊行される。副題には「フランスのマイノリティにかんする試論」とある。序文を寄せたのは妹マリーである。全六章からなるこの書物によって、パップはフランスにおける黒人研究(ブラック・スタディーズ)の草分けとなった。ここにはもう、経営史の秀才としての彼の姿はない。あるのは、歴史家にしてアクティヴィストとしての、現在の彼の姿である。
 「フランスの黒人は、個々人としては可視的である。だが、社会集団として、また大学の研究者たちによる研究対象としては不可視的だ」。同書の冒頭で、パップはこう述べる。ここで訴えられているのは、フランスにおける黒人研究の不在である。同書の終わり近くで、エメ・セゼールのネグリチュードが取り上げられる。このように、黒人の連帯のための運動は、少なくとも三〇年代以降、フランスにあったはずであり、先述のCRANもその系譜のうちにある。にもかかわらず、フランスにおける黒人の状況を包括的に論じた社会科学分野の研究は極めて少ない。
 複数の理由が挙げられるが、パップが真っ先に挙げているのは、フランスの人口調査に起因するマイノリティの不可視化である。フランスにおける黒人の人口調査のうち最も新しいものとしてパップが挙げているのは、なんと一八〇七年のものなのである。つまり、そもそも黒人が人口の何割を占めているのか、彼らが何人いるのか、というデータが存在しないのである。差別の実態を実証するためにも、統計が必要である、とパップは主張する。これは「人種」という語を抹消しようとする動きに真っ向から対立する主張である。「共同体主義(コミュノタリスム)」への批判が根強くあるフランスにおいては、リスキーな主張だ。彼は何を目指しているのか。
 英語圏におけるブラック・スタディーズ、カルチュラル・スタディーズ、そしてポストコロニアル・スタディーズを方法論として援用しつつ、パップが同書で目指しているのは「一八世紀以降のフランスにおける黒人をめぐる総合的歴史」を書く試みである。そのため最終章では、パップ本人が参加したCRANの活動も取り上げられている。こういってよければ、歴史家としてのパップとアクティヴィストとしてのパップの双方が見事に融合した書物が『黒人の条件』なのである。
 この書物以降の彼の活動は、一見すると穏健だが、その核心に芯の勁さを感じさせる。例えば、一九年にオルセー美術館で行われた「黒人モデル」展への協力が挙げられる。展覧会では単に絵画や彫刻を展示するのみならず、セゼールがネグリチュードという語を初めて使用した学生新聞『黒人学生』なども展示され、ここにもまた「総合的歴史」の試みが反映されている。
 本稿冒頭で触れたように、二一年には、マクロン大統領の任命により、国立移民史博物館の館長にパップは就任している。博物館の活性化が彼に託されたのである。一九三一年に行われた植民地博覧会のパヴィリオンであるポルト・ドレ宮をもとにした博物館は、フランス植民地主義の歴史のみならず、移民と国民をいかに統合するかといった幾つもの困難が堆積する博物館である。この博物館の館長になるということは、これまでパップが積み上げてきた学者としてのキャリアとはまったく異なる行政の場に身を置くことでもあった。
 そして今年の五月、パップは新たな内閣の閣僚に任命された。ブランケールの苛烈な「イスラム・左派主義」批判によって生じた分断を統合することがパップ起用の狙いだといわれている。
 今回の閣僚就任に際して、とりわけ右派から寄せられた批判は数限りない。例えば国民連合のマリーヌ・ル・ペンは、パップは「ウォーキズム」をフランスに持ち込もうとしており、「私たちの子ども」の教育にあたるなど言語道断であると声を荒げた。また、「脱植民地主義」批判で知られるピエール=アンドレ・タギエフも(彼が言うところの「活動家」に比べてパップが穏健であることは認めつつも)パップをアメリカ的アイデンティティ政治の導入者として批判している。
 それだけではない。現在パップが直面しているのは、このようなイデオロギー的論争ばかりでなく、深刻な教員不足でもある。日本でも教員不足が生じているが、フランスでも同様の事態が生じているのである。未経験者のパップにこの窮状の対処ができるのか、という声もあがっている。
 静かなる革命家はフランスを変えうるだろうか。なるほど、パップの任命は、左派陣営をマクロン政権に巧妙に取り込むためのバランス役だという指摘もある。いくら前任者のブランケールを批判していたとはいえ、政権を危うくするほどではない、という計算も働いただろう。とはいえ、これまで見てきたように、学者として、またアクティヴィストとして彼が一級の人物であることは間違いない。そのようなパップを任命するのは、政府として思い切った試みではないか。
 対して今の日本の状況はどうか。ひとりの日本人として、閉塞状況を打ち破るような大胆さをフランスが持っていることは、それだけで羨ましく見える。変える、という選択がフランスにはまだできる。では日本は――。
(フランス語圏文学)







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