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評者◆稲賀繁美
「十二支:韓中日の東アジア比較文化史」の余白に――李御寧先生の追憶
No.3550 ・ 2022年07月09日




■韓国を代表する「知の巨人」あるいは「知の怪物」、李御寧(イ・オリョン、Lee O‐young)さんが、2022年2月26日に亡くなった。享年88。韓国で初代の文化長官経験者だが、たまたま幸運にもお近づきになれた者のひとりとして、この現代の賢人の追憶を、ささやかながら、幾つかの断片に残しておきたい。
 日本で李御寧といえば『縮み志向の日本人』が著名だろう。バブル期に夜郎自大の自己顕示欲を発揮して、エズラ・ボーゲルさんの語ったJapan as No. Oneの標語に浮かれた当時の日本人論流行。そこに冷水を浴びせた反日本論。――そんな世評も立ったが、これはきちんと本書を読みもせずに綴った、先入観任せの身勝手な反感にすぎまい。
 石川啄木『一握の砂』に収められた和歌「東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる」にみえる「の」の反復。そこに日本詩歌ならではの「縮み志向」の精華を説く解釈には、韓国随一の文藝評論家の、他の追従を許さぬ妙技が集約されていた。その背後には、直近の隣国言語である韓国語でも、同様の「の」の畳み掛けによるズームアップは文法上・不可能、との観察があった。
 「縮み」にこそ日本の美点をみる李は、ソニーのトランジスタ・ラジオの成功などの事例も自在にひいて、日本人は膨張策に走ると必ず失敗すると、警告を発する。案の定、バブル崩壊後の日本は、はや半世紀近い低迷から抜け出せない。ちなみに、日帝時代の幼少期に習ったきり忘れていたに等しい日本語が、来日するや突如ムクムクと復活し、本書執筆に繋がったとのこと。
 だがこの本の成功は、原著者にとってみれば意外で、いわば偶然の産物だった。それよりはるかに苦労して、心血を注いだ『恨の文化史』は、まったく売れなかった。ベストセラーは狙って書けるものではない、それがこの碩学の得た教訓だった。
 奇想天外なアイディアが陸続と脳裏に去来する天才肌だが、雄弁と実行力もあって、儒教社会の韓国では文化行政面でおおきな政治力も発揮した。韓国を一躍、情報化社会の最前線へと導いた功績は歴史に刻まれることだろう。ソウル・オリンピックでは、北のマスゲームに対抗して、開会式会場にたったひとりの男の子を走らせて、衆目を唖然とさせつつも、稀代の大成功を収めた。御本人は「記号学的真理」などと韜晦していたが、これって華厳の「一即多」の応用では? と筆者は睨んでいる。
 東京大学駒場の比較文学比較文化教室に招聘された折には、大臣に任命されて中途帰国。追って国際日本文化研究センターに客員招聘の折には、極力隠密行動を取られたが、程なく内外の新聞記者たちに嗅ぎつけられた。この折には『ジャンケン文明論』によって中日韓の国際関係を分析した。欧米流の二元論的対立ではなく、日本は先取、中国は包括、韓国は切断、グー・パーチョキの特技の循環により極東の和平共存を説く、三つ巴の相互依存モデルの提唱である。
 結婚式に招かれると、こんな祝辞で一座を沸かせた。曰く、結婚生活は映画史の進化に逆行する。新婚当初は70ミリ総天然色の薔薇色だが、いつしかそれは35ミリのモノクロ・フィルムに縮小し、さらには、ふと気がつくと家庭生活は無声映画になりかねない、そのあたりにくれぐれも心せよ、との訓示であった。当事者として今更ながら身に詰まされるが、奥様が癌を患った折の李先生の熱愛の看病は、知る人ぞ知る美談でもあった。
 その一方で、こんなことも、不意に漏らされた。日本では有名になるとそれなりにチヤホヤされるが、韓国では正反対。いろいろな論敵から集中砲火で悪者扱いされるので、たまったものではないのだ、と。親友であったナムジュン・パイクについても、彼は日本留学ののち欧米で活躍できたからこそ、いじけたカラタチにはならず、芳醇なオレンジに育った。それで韓国の魂を具現した国際派へと成長できたのだ、と。また、自分よりはるかに優れた才能など何人も見てきたが、多くは酒で身を持ち崩し、若くして亡くなった。だから自分は酒はやらないのだ、と。酒席で年少者の賓客をも、分け隔てなく饗してくださる折に、何度となく聞かされた言葉だった。論壇風発で笑い声も絶えない、無礼講の饗宴なのだが、思い返せば、そうした場でも、焼肉以外は口にできない、酷い偏食癖の持ち主でもあった。
 梨花大学の英文の教授でもあり、若くして著作集が刊行され、膨大な著書をお持ちだったから、英語もさぞかしご達者かと思っていたのだが、こればかりは、そうでもなかった。会話の発音は朴訥で、いささかたどたどしい口調。だが、それに臆せぬ才気煥発、破格の知性であり、信義に篤い文人でもあった。
 韓・中・日の学者を集めて、東アジア三国の「十二支」の文化比較を試みる企画を立てられ、筆者もそれへの参画を促された。神話・民俗・文学・美術と分野を並べてあらためて国際的に比較検討してみると、それぞれの文化圏の特質が、子丑寅……それぞれの動物意匠に沿って、見事な対比を描き出す。その各巻に、李碩学博士は、卓抜な序文を書き継いで倦むことを知らなかった。現段階では韓国語版のみの出版だが、将来これが中国語や日本語でも提供されることとなる日を、心待ちにしたい。(4月22日稿)







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