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評者◆髙橋順一
コミュニズムの原動力とは何か――アルチュセールのマルクス主義理論を、それへの最も重要なインパクトとなったラカン理論の側から読み解く(全文・後編)
はじまりの哲学――アルチュセールとラカン
伊吹浩一
No.3548 ・ 2022年06月25日




■なぜ鏡に映った自己像は魅力的なのか。すでに見たように、鏡像を前にした幼児は、鏡のなかの自己像を、振り返って〈他者〉に承認を求めた結果として生じる「自我理想」の立場から眺める。それは、「〈他者〉からシニフィアンを授かり、自己をシニフィアンによって表象する道を選択すること」(151頁)に他ならない。だがこの過程においては、〈他者)が主体の望む理想的な自我を与えてくれている保証はない。したがってこれが本当の自分だ、という確信も与えられてはいない。「『私とは何者なのか』(…)『〈他者〉は何を欲望しているのか』『〈他者〉とは何者なのか』という問いに対する返答が〈他者〉からもたらされることはない」(同前)のだ。この状況において「欲望」が発生する。欲望は、〈他者〉が上記のような問いに答えてくれないという「欠如」「不完全性」(同前)に触発され、その答えを求めるべく発生するのである。そして欲望を発生させるこの〈他者〉の「欠如」「不完全性」は、そのまま主体が去勢とともに参入する象徴界の「欠如」「不完全性」ともなるのである。ここには伊吹が先の方でいっている次のような機制が働いている。そしてこれこそが欲動理論としてのラカン理論の核心をなす両義性の本質に他ならない。「言語世界に参入するとき、主体は〈もの〉〔母との近親相姦的融合・一体化〕の状態にとどまることを断念させられる。これが去勢である。このこと自体、主体にとっては理不尽で耐え難いものであるのに加え、しかも選択の余地なく引き入れられた言語世界、すなわち象徴界は主体にとってまったく意味不明な冷徹な世界である。だが『人間として』生きねばならないかぎり、『強制された』この事態を受け入れざるを得ない。あまりに理不尽である。それゆえこの出来事は心的外傷となり得る。そう、われわれは誰もが言語的存在であるがゆえに心的外傷を抱える者たちなのだ。だからこそ、欲動がわれわれの身体の中で蠢いているのだ。/欲動は〈もの〉に回帰し、それを再興しようとする運動であった。しかし象徴界に同化し得ない〈もの〉の再興は失敗を宿命づけられている。にもかかわらず、〈もの〉への執着は、たとえその試みが徒労に終わろうとも、衰えることはない。だから、この再興の試みは倦むことなく反復される。欲動の運動が目がけるのは、一の印、シニフィエなきシニフィアンである。一の印は、〈もの〉が存在した痕跡を示しているからだ、それゆえ、欲動の運動は一の印を発見していくものとして展開される」(219~20頁)。
 ここから私たちはラカン理論の要諦へと入っていくことになる。上記の内容からも明らかなように、象徴界とは、そこへと参入することが心的外傷さえも誘発するような「意味不明」な「理不尽さ」に満ちた世界である。にもかかわらず人間になるためには、そこへと参入することを避けることもまた許されない。こうした象徴界の不可避的な「耐え難さ」に対して、にもかかわらずというべきか、だからこそというべきか、「象徴界に同化し得ない〈もの〉の再興」を目指す欲動が生じるのである。このことが、「象徴界の不完全性を認識したそのとき」に欲望が始まることと重なるのだが、このとき同時にそれと相関するかたちで「現れ出る何かがある。対象aである」(152頁)と伊吹はいう。それは、主体が言語世界としての象徴界へと向かうとき、象徴界からやってくる「シニフィアンの連鎖、によっては『主体の固有性』が『与えられない』ために、「対象aが〔シニフィアンの連鎖という〕言語構造の余剰として生み出される」(152頁)ということである。では「対象a」とは具体的にいかなるものなのか。伊吹が次のようにいう。「主体には、かつて自分と母が近親相姦的に癒着し、その中で全能感に浸れていた状態があったという想定がある。この状態のことを〈もの〉と言う。しかし言語世界に参画した主体は、もはや〈もの〉を取り戻すことはできない。そのとき生み出されるのが対象aである。『対象aは、〈もの〉が象徴化の処理を受けた後でも残るもののことを指す』。象徴化の過程、すなわち去勢である。去勢を経ることで、言語では表わせない、主体の固有性を示す対象aが現れる。この対象aこそ、〈他者〉の欲望である ― と主体が見なすものである」(同前)。
 主体が象徴界へと向かうとき、母=〈もの〉は消失する。代わりに父=〈他者〉が現れる。その核心が「一の印」である。この時点で母=〈もの〉は、主体がもはや取り戻すことの出来ないものとなっている。主体にとってそれは、象徴界への参入の過程において主体の存在が本来属していたはずの現実界の不在化・不可視化を意味するとともに、主体の存在がシニフィアンの連鎖というかたちを取る意味=〈他者〉によってくり抜かれることを、その結果主体のうちに穴が穿たれることを、言い換えれば主体に空隙・不在が生じることを意味する。ところがこの母=〈もの〉の消失とそれによって生じた主体の穴、空隙・不在を埋めるかのように「対象a」が生じるのである。
 ここにはいくつかの問題が絡み合っている。まず一つは、この「対象a」が生じるとき、主体はもうすでに言語世界=象徴界へと入っているということである。にもかかわらず消失したはずの母=〈もの〉が「対象a」とともに回帰してきたとすれば、「対象a」は少なくとも実体ではありえないはずである。それは一個の「幻想」でなければならないのである。二番目には、したがって「対象a」が欲望を喚起し、その欲望の対象が「対象a」であるとき、この欲望は「幻想」に対する欲望となるということである。ただし注意してほしいのは、この「幻想」という言葉が「虚構」とか「錯覚」、つまりありえないものというように理解されてはならないということである。この「幻想」は不在であるにもかかわらず、主体に対しては確かなかたちである働きかけを行っており、その意味ではまぎれもなく「現前」しているからである。第三の問題は少し込み入ってくる。まず伊吹の文章を引用しておこう。「対象aとは欲動の対象でもある。原初的な母子の近親相姦的癒着関係の中におかれた子供に、この関係の中で得られる充足体験の印が身体に刻印される。それ以降子供は内的緊張が発生するたびに〔象徴界との齟齬〕この徴に直接備給するようになる。この段階での主体の身体は〈他者〉の身体であり、〈他者〉の欲望の対象は私である」(153頁 )。
 ここで明らかになるのは、「幻想」の中身が母との「近親相姦的癒着関係の中で得られた充足体験」であるということである。この体験が「印」として、つまり「記号、つまり『誰かにとって何ごとかの代理となる』ものとして」、主体の身体に刻印されるのである。ここで思い起こしておかねばならないのは、鏡像段階における「自己の身体像をみずからのものにするためには、一の印が〈他者〉の領野で捉えられねばならない。自己の鏡像を前にした子供は、承認の印を求めて背後にいる〈他者〉を振り返る。〈他者〉からもたらされる承認は、愛される者としての承認である。〈他者〉からもたらされるこの印が一の印として機能する」(84頁 傍点筆者)といわれていたことである。このことは、「一の印」から始まる主体へのシニフィアンの到来とともに、主体の「私」が〈他者〉へと置き換わることを意味する。そしてその置き換わりは、自己の鏡像を見て後ろを振り返り〈他者〉の承認を求めることから始まるのである。つまり欲望が〈他者〉の欲望となることと、「一の印」の到来とは表裏一体の形で生じるということである。表向きこれが、もっぱら父としての〈他者〉への同一化に向かう過程を意味しているように見えるのはいうまでもない。だがその裏でじつは「対象a」へという「幻想」へと向かう欲動が働いており、その欲動が目ざしているのは母=〈もの〉なのである。父=〈他者〉へと向かう「印」、すなわちシニフィアンの連鎖の裏側に、「近親相姦的癒着関係の中で得られた充足体験」を内容として含む「幻想」としての「対象a」へと向かう欲動が張りついているということである。このねじれはいったい何を意味するのだろうか。このとき思い起こされるのは、すでに一度言及したことだが、引用文のなかにあった「愛される者」という言葉である。この言葉は、「幼児は、母との近親相姦的な癒着関係の中におかれているとき、自分を母の欲望の対象、すなわち想像的ファルス(φ)であるとみなしている」(89頁)という言葉と対応している。すなわち「愛される者」とは、父を愛する者でも父に愛される者でもなく、母を愛し母に愛される者、より正確にいえば母を愛し、自分も母に愛されていると思い込んでいる、つまり「理想自我」(自己の見る自己)と「自我理想」(他者の見る自己)が母を媒介にして合致しているような主体のあり方を意味しているのである。とはいえそこにはじつはさらに錯綜した自他関係が生じているのを見逃してはならない。
 今述べた子供の主体における「私は母を愛する」と「母も私を愛する」の一致は去勢によって消失する。ところがこの消失の過程に上記の「対象a」に向かう欲動が重ね合わされているのである。このとき「想像的ファルス」の去勢によって主体は「象徴的ファルス(Φ)」を持つことになる。ところで「象徴的ファルス」とは何か。じつはそれは「母の欲望の対象」(同前)なのだ。このことは、「象徴的ファルス」を持つことが、父=〈他者〉への同一化による主体の自立を意味するとともに、去勢によって失われたはずの母=〈もの〉との、「私は母を愛する」と「母も私を愛する」という相互関係の想像的な回復が可能となることであるのを同時に示唆している。なぜなら「象徴的ファルス」は「母の欲望の対象」であるからだ。つまりここには、父=〈他者〉に同一化する過程がそのまま母=〈もの〉の再興となりうるという背理 が生じているのである。この背理の核心となるのが「対象a」に他ならない。もちろんそれは「幻想」の水準において生じる事態である。だがすでにいったようにこの「幻想」はたんなる「虚構」や「錯覚」ではない。それは主体の機制に対して非常に重要な働きを行っているのである。言い換えれば主体の存立構造とその機制について考えようとするとき、この「幻想」性の水準を媒介にしないようなアプローチはありえないのである。これについて伊吹は先のところで次のようにいっている。「去勢によって〈もの〉が消失してもなお、欲動に駆り立てられる主体は〈もの〉〔〈もの〉が帰属する現実界〕へと回帰していこうとする。だが、言語的存在になった主体にとっては〈もの〉は永遠に失われたものである。そのとき対象aが出来する。対象aは〈もの〉が象徴化の処理を受けた後でも残るものである。対象aは〈もの〉が消え去った後に残る欲動の対象であり、象徴界、あるいは想像界と現実界との隔たりによって産み落とされる余剰物なのだ。ここに出現するのが、幻想である($ ◇ a)。幻想は、主体が象徴界に参画することで、象徴界の効果として想像界に現れるものである。元来満たされることはない欲望の満足の原型は欲動において形成されるが、それは、欲動の満足、すなわち享楽は欲望する者にとっては、元来不可能なものになっているからである。そのとき幻想が現われ、主体の満足は、幻想において想像的名物語の形をとって追い求められるのである。それゆえ、幻想は欲望を支えるものであると言われる」(173頁)。
 いわゆる幻想(ファンタスム)の図式と呼ばれる「($ ◇ a)」においては、「斜線を引かれた主体」、すなわち象徴界に参画した途端斜線を引かれて抹消される主体以前的主体$ の欲動が、「a」、すなわち「対象a」によっては決して満たされることはないことを、◇(ポワンソン)によって表している。逆にいえば、$ は決して実体として現前することのない空隙・不在でしかありえないからこそ、対象aもまた空隙・不在でしかありえず、したがってそれらは「満たされることはない」のである。斜線を引かれた主体は、母=〈もの〉との近親相姦的=ナルシシズム的癒着関係の実現という究極的な対象に向かって欲動を発動させるのだが、象徴界に入った途端主体にとって代わられ消失する。それは、斜線を引かれた主体が、シニフィアンの構成する言語世界からこぼれ落ちてしまうことを意味する。したがってその欲動は決して満たされることはないのだが、その消失によって生じる空隙・不在の場に対象aが、主体の究極的な対象への欲望をいわば幻想性の水準における引き受けるかたちで出現するのである。こういってもよいかもしれない、すなわち、満たされないにもかかわらず欲望が生じるためには幻想が必要なのである、と。
 もう一度伊吹のテクストに即してまとめておこう。「対象aは『欲望の原因としての対象』と言われるが、主体の欲望は〈他者〉の欲望を欲望することからはじまる」(153頁)。このときじつはこの〈他者〉は父だけではなく母でもありうる。すると「対象a」の出現のプロセスには、父に対応する鏡像段階と母に対応するプレ鏡像段階、さらにはエディプス期とプレエディプス期の広がりが含まれていることになる。ラカンに即していえば、そこには現実界、想像界、象徴界の全振幅が含まれるのである。自己と他者の関係がこの振幅において捉えられなければならない。もしそうだとすればこの時点で「『〈他者〉は何を欲するのか』と主体が問いかけ」(同前)る際にはまだ、そこにおける〈他者〉は父でも母でもよいはずである。しかし問いへの答えが返ってこないとき、はじめて一つの裂け目が生じる。今まで〈他者〉は父でも母でもどちらでもよかったのだが、「〈他者〉は何を欲するのか(自我理想)」という問い、それは同時に「自己とは何か(理想自我)」という問いでもあるのだが、この問いに対して返答をもたらさない(=もたらすことの出来ない)〈他者〉は、父でなければならないのだ。なぜなら父はシニフィエなきシニフィアン、意味を欠いたシニフィアンだからである。母はそうではない。だからこそ「このとき対象aが出現する」(同前)のである。父から得られない答えを求めるとすれば、去勢によって消えたはずの母=〈もの〉というもう一人の〈他者〉に求めるしかないからである。その結果、「対象aは〈他者〉の欲望の対象〔自我理想〕であると主体の想定する答え〔理想自我〕であるとのと同時に、言語によって言い表せない余剰」(同前)となる。「対象a」は、シニフィアンの来訪とともに生じるのだが、同時にシニフィアンから逸脱するものである。シニフィアンは父に属しているからである。「対象a」は「幻想」の次元において生じる母=〈もの〉に向けられた欲望である以上、父=シニフィアンの連鎖には収まらない。このことを、当初あった「性欲動」と「自我欲動」の区別に即していうならば、「自我欲動」の枠組みからはみ出す「性欲動」のエネルギーが、主体の自己保存を目指す「自我欲動」の領域にまで侵入し、「性欲動」と「自我欲動」の区別を事実上無効化してしまっているということになるだろう。逆にいえばその媒介点となっているのが「対象a」なのである。あるいはここには、「現実原則」と「快感原則」の対立が「生の欲動」と「死の欲動」の対立へと置き換えられていくフロイトの『快原理(快感原則)の彼岸』の議論を投影させてみてもよいかもしれない。父が現実原則=生の欲動を象徴しているとするなら、主体が生きることを、言い換えれば自己保存の成就を目指すためには、当然ながら父に従わなければならない。だが父への服属欲求が、つまり父にようになることを主体が自ら欲求する度合いが強まれば強まるほど、父=現実原則=生の欲動の裏面において、母によって象徴される父とは対蹠的な、「性的なもの」に彩られた快感原則=死の衝動もまた強まっていくのである。この衝動が性欲動のエネルギーとしての「リビドー」の起源であるとしたらどうであろうか。ここで伊吹の文章を引いておこう。「対象aはリビドーの支えとなっているものでもある。身体がシニフィアン化されるとは、言語を受け入れるということ、つまり去勢を受け入れることである。去勢を通過し言語世界に参入することによって、主体は自分自身の存在を失うが、リビドーはこの失われたものの再来であり、主体に存在を与え得るものへと備給されるエネルギーである。対象aは去勢を受ける中でおのれの固有性を獲得すべく生まれるものであるから、対象aはリビドーの支えとなると言えるのだ。象徴界において、失われたものが対象aやリビドーとして戻ってくるというわけだ」(154頁)。
 これは「抑圧されたものの回帰」といってもよいかもしれない。象徴界への参入によって失われた、つまり抑圧された母=〈もの〉が「対象a」として回帰してくるのである。そしてそのことが主体の欲動、言い換えればリビドーを喚起するのである。ただし忘れてはならないのは、この過程が「幻想」性の境位・水準において生じることである。回帰してくる「対象a」は決して実体ではない。あくまで「幻想」でなければならないのである。このことは、「対象a」が凸的なものではなく凹的なもの、つまり空隙・不在において現前するものであることを意味する。ここであらためて図1を思い出してもらいたい。そこにおける「存在(主体)」と「意味(〈他者〉)」の重なり合う領域、言い換えれば「主体(存在)」が「意味(〈他者〉)によってくり抜かれ ― これが「去勢(-φ)」の意味である ― 、「意味(〈他者〉)」が「存在(主体)」によってくり抜かれて ― これが「対象a」の再来の意味である ―  生じる「無意味」と名づけられた空隙・不在、つまり穴こそが、シニフィアンが来訪する場であると同時に、「対象a」が「抑圧されたものの回帰」として再来する場でもあるである。このことは鏡像段階において形成される自己像、言い換えれば身体イメージのなかにはこの空隙・不在の場としての穴が穿たれていることを示している。「去勢を通過することで統一性を有した身体イメージが確立されるが、(…)一つの盲点、イメージの中の欠けている部分がある。つまり-φである。(…)身体イメージには『穴』があいている。(…)対象aは、言語によって織りなされたシニフィアンの連鎖からこぼれ落ちた余剰物である。そもそも対象aは具体的に示されると対象aではなくなる〔「幻想」としての対象a〕。対象aは言語やイメージで表象できないことを特性としているからだ。それゆえ象徴秩序にあいた『穴』である」(154~5頁)。この「去勢」と「対象a」という二重の意味を帯びた「穴」が、身体イメージには穿たれているのである。ここであの最初に掲げられた問いの答えがようやく見えてくる。すなわち「なぜ鏡に映った自己像は魅力的なのか」という問いの答えである。伊吹の文章を見てみよう。「身体イメージにも穴があいている。鏡には映らないものがある。そこに対象aは置かれることになる。シニフィアンでは代理表象できない穴に対象aが到来する。しかしそれは具体的形象を本来持たないものである。それゆえ、身体イメージが対象aを包み込むことになる。だが、『実際、穴はすでにある全体性の表面を事後的に破ってその上にできあがるものとして想像すべきではない。逆に穴がその形態を生み出すのであって、穴の縁構造がその作用をするのである』。/身体イメージに穴があくのではなく、穴が最初にあり、その穴に対象aが到来し、その周囲にシニフィアンによって織りなされた身体イメージが組織され、そして対象aを覆い隠すことになる。それゆえ、身体イメージは対象aを隠し持ったものなのだ。だから主体はおのれの身体に魅惑されてしまうのである。対象aは欲動の対象である」(157頁)。
 「対象a」が身体に穿たれた「穴」へと蝟集し、そこから事後的に身体の全体イメージが形成されるとするならば、自己の身体とは母=〈もの〉という愛してやまない欲動の対象をうちに宿した自己の身体に他ならず、そこにはナルシシズムの契機を含んだ母=〈もの〉との愛し-愛される相互関係が不可避的に発生しているはずである。そして鏡像段階における主体の身体にかかる事態が生じるからこそ、自己の身体は魅力的なものとなるのである。これは別な視角からいうと次のようになる。「私は私自身によって見つめられることによって私になる。私以前の『私』、自我が確立される前の『私』とは、いわば『見つめられる身体』である。身体の表面にまなざしが注がれることで私が生まれる。この眼差しは私のものであるが、しかし自我理想の立場から注がれたもの、自我理想からそそがれるであろうと私が想定したまなざしである。〈他者〉とのまなざしの交換の中でたしかめられた私に対する承認によって、眼前にある鏡像は私のものであると主体は確信する。そのとき主体は、自我理想からもたらされるこのまなざしと化す。『幻想の構造の主要な組織化のメカニズムは、対象と化す主体の同一化です』。幻想の中では主体は『対象a』と同一化するのである。眼前にある鏡像は自我理想からのまなざしによって立ち現れるが、言うまでもなくまなざしそのものは見えず、鏡像には映らない。私の鏡像、私の身体には鏡に映らない部分がある、『穴』があいているのだ。その穴に対象a、つまりまなざしが到来する。『鏡像段階以前のこの根源的なものは、鏡像段階によって意味を失うものでも消し去られるものでもない。それは鏡像段階以後にも残り、そのナルシシズム的な満足の幻影に問いを投げかける』。」(194頁)。
 最後に伊吹によって引用されているフィリップ・ジュリアンのテクストが、私の指摘したかった問題をまことに鮮やかに言い表している。象徴界からやってくるシニフィアンの連鎖を通して自我や意味を具えた主体が形成されることだけが主体の問題なのではない。「鏡像段階以前のこの根源的なもの」は、こうした主体の形成以降も「残り、そのナルシシズム的な満足の幻影に問いを投げかける」のである。この「根源的なもの」が、母=〈もの〉の「幻影」であるのはいうまでもない。
 その一方でこの構造は、自己と他者の見る-見られるというまなざしの構造ともなる。これに関して伊吹は興味深い指摘を行っている。「〈他者〉からのまなざしは主体にとって愛をもたらしてくれるかもしれないが〔母との「ナルシシズム的な満足」関係〕、それと同時に不安を生じさせるものでもある〔母との関係に埋没し主体を失うかもしれないという不安〕。まなざしは主体の存在の根底をなしていながら、主体の存在を危ういものにする〔父=〈他者〉=象徴的ファルス(=シニフィアン)に即した主体形成を危うくするということ〕。まなざしそのものは主体が想定しているものであるかどうかはわからない、謎であるからだ〔〈他者〉が母なのか父なのかの決定不能性〕。主体の基盤は底が抜けている。だから、〈他者〉からのまなざしに注意を払い、警戒し続けることになる〔まなざしの主がもし母だということになれば、主体はナルシシズムの底なし沼にはまって主体としての自己確立は不可能となる。主体たり得ようとするならば父からのまなざしとして〈他者〉のまなざしを受け止める他はない。とはいえ母を捨て去ることができないのはいうまでもない〕」(195頁 )。まなざしの構造においても母と父のあいだの裂け目、両義性が働いている。その結果まなざしは主体を構築する要素と主体を破壊する要素の両義性を負うことにある。それは別ないい方をすれば、まなざしを主体化するプロセスには逆に主体化を阻止する要素も含まれるということである。まなざしの主は母なのか父なのかを決定したいという願望、同時に生じるそれが決定出来ないことへ不安、さらには主体全体を覆う自己保存とリビドーの葛藤 ― 、伊吹がまなざしをめぐって見出す主体のこうした葛藤構造には、アルチュセールのイデオロギー論の問題が結びついてくるし、フーコーの「パノプティコン」論の問題も結びついてくる。「通常ならばわれわれは不安を抱くことはなく、精神は安定している〔父=象徴秩序の世界への安住〕。だが対象aとしてのまなざしが突如出現し、主体に襲いかかるとき〔母=〈もの〉が幻想の境位において来訪するとき〕、あるいはまなざされていることが感じられなくなったとき〔象徴秩序への安住を保証する父=〈他者〉のまなざしを感じられなくなったとき〕、不安が惹起される。そのとき、主体に精神的安定を与えていた幻想〔アルチュセールのイデオロギー〕が動揺し、亀裂が入り、場合によっては崩壊する。/パノプティコンが狙いを定めるのはそこである。パノプティコンは人間の精神を改造することを目的としつつ、そのときとられる手段は、身体の表面にまなざしを注ぎ込むことである。鏡像段階で示されたように、身体の表面は自我である。あるいは私の眼前に広がる世界は私の身体の表面を中心にして構成され、世界そのものを開く。近代哲学が主体の認識にはつねに『私』という表象がついてまわり、それなくして認識自体は構成されないと述べてきたように、身体の表面としての自我は、私の認識そのものの中心にあるのだ。/あるいは、主体の外部に対象を成立させるには、リビドーが内部から外部へと向きを変えねばならないが、このリビドーを支えるのが対象aであり、対象aが鏡像にあいた穴に置かれることで、主体は自己の鏡像に魅惑され、同一化するのだった。それゆえ、対象aは主体の世界像に中心であると言える。対象aのまなざしがあることで、世界を認識することがはじめて可能になる。世界の根底にあるまなざしに異変が生じれば、世界観の瓦解へと直面する事態となる。パノプティコンが標的にするのは、そこなのだ」(195~6頁)。
 少し伊吹の捉え方とはずれるかもしれないが、私は、自己の鏡像=身体の表面へのナルシスティックな愛(その根源には母=〈もの〉への執着があり、それが今度は対象aとして再来する)が「私」=自我の起源として作用する、というふうにこの文章を解釈したいと思う。言い換えれば、この「対象a」へのナルシスティックな欲動が、却って象徴秩序のなかで主体を構築し支える中核としての「私」を根拠づける根源となるということである。それは、リビドーを外部に向けることによって、デカルト的な、「私」=自我と対象との主客二元的な世界認識の基盤ともなる。ただしそこに母=〈もの〉の契機が依然として張りついていることには注意しなければならない。それにしても「対象a」へと向かう欲動が、フーコーのいう「パノプティコン」におけるまなざしの主体化=主体の〈他者〉への服属化の媒介項になるという指摘は、私にはやや驚きであった。私が着目するのはあくまで母と父の両義性、言い換えれば裂け目であり、そのことから生じる「主体の基盤は底が抜けている」という壊乱状況であったからである。伊吹の指摘はアルチュセールのイデオロギー論の問題にも及ぶ。「まなざしは不安を惹き起こすものであると同時に主体を生み出すものでもある。見つめられる身体から新たな自我が生起するのだ。主体はそのとき幻想から幻想へと横断する。これは一つのイデオロギーから別のイデオロギーへの移行でもある。まなざしは新たなイデオロギー的主体を生起させるのだ」(196頁)。そして問題はまなざしにとどまらない。伊吹は次に「声」の問題を取り上げる。この議論もまたたいへん興味深い。
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 伊吹によれば、母との近親相姦的癒着関係にある「前主体的主体」(197頁)は、自らの要求を「叫び声」(同前)でもって表現する。すると母は乳房を差し出すなどして主体の要求を満たしてやる。この繰り返しの過程において、要求と「声」との関係がやがて「欲望として分節化され」(198頁)るようになる。「だが、要求が十全に得られている段階〔鏡像以前的・プレエディプス的な母との癒着段階〕では欲望は要求と混同されている。欲望、すなわち『欠如』が要求によって満たされるからである。対象aが欲望の原因となるのはこの段階を経ることによってである〔ここにおいて対象aの原型が見出される〕。乳房という対象aが主体に欲望を発動させる原因となっていくということである。この段階においては、行為の主体(主語)は曖昧であり、『私=母』である」(同前)。
 しかしこの母=〈もの〉との癒着関係の段階は終わる。いうまでもなく父=〈他者〉の登場によってであり、「一の印」から始まるシニフィアンの連鎖の来訪によってであり、何よりも癒着段階の証しとしての「想像的ファルス」の去勢によってである。その結果として、「要求と欲望の不一致、『切断』がもたらされるときが訪れる」(同前)。このとき主体に生じるのは、「母=私の欲望の対象を模索せねばならない」という欲求と、「象徴界に巻き込まれていく」(同前)という事態とのあいだの相剋的な二重性である。主体はその相剋のなかで、「他者に呼びかけ、他者が返答し、あるいは他者が主体に呼びかけるという言語的交換、つまりパロールの中に欲望を求め続けるのである」(同前)。この「パロール」、すなわち語ることが始まるとき、「欲望の起源となる叫び声の純粋さ、意味を持たない無垢さ」(同前)は失われる。ここから象徴界の言語世界が始まるからである。そこでは「叫び声」に由来する「純粋な声」「もの的な声voix chosique」(199頁)に代わって、「現象的な声」「経験的な声」(同前)が「パロール」を構成するようになる。
 ここから伊吹は、私の見るところ、もっともスリリングで興味深い議論を展開していくのである。そこにはおそらくフロイトの精神分析理論の理解にとってある意味意表を突く、だが同時に極めて重要な内容がはらまれている。そしてそこからは、ラカンの精神分析理論を理解する上で重要な鍵となる内容もまた浮かび上がってくると思われる。それは次のような言葉とともに始まる。「ところがもの的な声、純粋な声が反響するときがある。『主体が象徴秩序から疎外され、〈他者〉から疎外されるまさにそのとき、そこで純粋な声が反響する』。主体は、象徴界に参入し、シニフィアンの連鎖に回送される存在と化すとき生み出されるが、しかし、シニフィアンは主体そのものを表象できない。かけがえのない存在である主体の固有性〔前主体的主体の固有性〕はシニフィアンでは表わせないのだ。主体はシニフィアンの連鎖においてしか存在し得ないが、しかし固有な存在である主体はシニフィアンから『疎外』される。『声』はそのとき鳴り響く。『声』は、象徴界からこぼれ落ちる余剰物、対象aである。『声』、もの的な声は、主体が象徴秩序から疎外されるとき、空虚の中で、沈黙しながら『響く』」(199~200頁)。
 ここまでならある意味今までの議論の範囲のなかで理解されるであろう。父=〈象徴的ファルス〉に導かれて象徴界へと参入する主体は、にもかかわらず母=〈もの〉への執着を捨てることが出来ない。だが母=〈もの〉は象徴界へと参入する瞬間消失してしまっている。じつは消えた母=〈もの>への執着だけが残るこのとき、そこに欲望が生じるのである。そしてその欲望を充足すべく再来する対象が「対象a」なのである。このことは、「声」という面から見るとき、象徴界の成立とともに「パロール」を構成することになる「現象的な声」「経験的な声」を引き裂くようにして、「叫び声」が、つまり「純粋な声」「もの的な声」が再帰的に「鳴り響く」ことを意味する。ではこの「声」はいったい何を伝えようとするのか。ここで問題は劇的な転回を示すことになる。伊吹の文章を引用してみよう。
 「この前言語的な声は象徴機能によって欲望へと統制されていたはずであるにもかかわらず、再び出現し、主体に『呼びかける』。『疎外』されてもなお、『声』は、シニフィアンの法、去勢の法に服従しろ、シニフィアンの連鎖に自己を投企しろ、と主体に呼びかける。言語的存在になれ、と」(200頁 傍点筆者)。「純粋な声」「もの的な声」はいうまでもなく母=〈もの〉の領域から発せられる声である。だがその声は、母=〈もの〉を代弁する声ではなく、傍点を付けた部分が示しているように象徴秩序のなかで主体となるよう命令を発する声となるのである。このねじれは何を意味するのだろうか。伊吹は、まず「この呼びかけに応え得る能力responsabilit?が、主体を世界の構成員にする。呼びかけに対する呼応能力responsabilit?を有する者こそ、責任responsabilit?を担い得る存在なのだ」(同前)と指摘することによって、この「呼びかけ」とそれへの「呼応」が、世界、すなわち象徴界の秩序のなかで主体が主体たりうる条件であることを明らかにしようとする。ちなみにこの責任=応答能力をめぐっては、クロード・ランズマン監督の映画『ショア―』によって提起された、「アウシュヴィッツで殺された死者たち、あるいは死者たちの不可能となった<証言>に対してわれわれはどのように応答するのか=責任を引き受けるのか」という問いをめぐって歴史主体の責任=応答能力の問題が議論されたことがあった。伊吹もまたこの問題について、200頁から始まる長い註(60)のなかで言及している。そこで伊吹は、応答関係の「成立こそ『人‐間』が存在するための根本的な条件である」(201頁)とした上で、主体は呼びかけに対する応答を繰り返すなかで、より正確にいえば応答を繰り返すよう誠実に努力することによってはじめて「人‐間」、つまり世界のうちにおいて主体になりうるという。主体であるためにはこの努力をつねに反復し続けなければならないのである。伊吹はさらに次のように続ける。「応答可能性としての責任の原型は主体確立以前の母子関係の中で与えられる。両者の間でなされる呼びかけと呼応を土台としながらわれわれは言語世界、すなわち象徴界へと促され、参画するようになる。責任=応答可能性は主体確立の過程につねについてまわる特性なのである。しかし、この過程が主体の想像的先取り=予料によって展開されるゆえ、つねに揺らいでいる。それゆえ、確実性を求めて反復されるのだ。これが責任をとること、他者の呼びかけに応えることによって主体になるという事実を引き受け直すこととして現れる。イデオロギーからの呼びかけに応えようとする主体の姿が、これである。/応答可能性・能力としての責任を担おうとする主体は、まさに超自我の命令を神経症的に解釈する主体の典型である」(202~3頁 )。
 この最後の文は、応答=責任能力の問題をアルチュセールのイデオロギー論へとつなげようとする伊吹の視点を示している。ただ、伊吹の論脈から外れるかもしれないが、ここで一つだけ問題を提起しておきたいと思う。それは、責任=応答という課題を果たそうとする主体がはたして傍点を付した部分でいわれているような主体のあり方に限定されるのか、という問題である。端的にいおう、アウシュヴィッツの死者からの呼びかけも、「イデオロギーからの呼びかけ」になるのだろうか、それは自分の内なる「超自我」の一種に過ぎないのだろうか、そしてそれを引き受けることは、その呼びかけを「神経症的に解釈する主体」となることなのだろうか。もちろんフロイトの「超自我」は、この後ハイデガーに関連して触れられているように「良心の声」(207頁)という性格を持ち、さらに「負い目」「罪責感」(208頁)を喚起するものでもある。その限りでは、死者の声に応答することは超自我への応答であるといって構わないのかもしれない。だがやはり引っかかるのだ。たぶんそれは、「超自我」「神経症的」といういい方から、アウシュヴィッツの死者が求める<倫理>の契機が感じられないためであろう。ではここに欠けている<倫理>の契機とは何だろうか。私は「恥ずかしさ」ではないかと思う。「恥ずかしさ」は「負い目」「罪責感」と重なりつつも決定的に違う性格を持っている。それは「恥ずかしさ」によって惹起される居ても立っても居られない感覚と関わる。この感覚は、自分の外にいる他者の存在によって自分の存在が決定的に否定・否認されていると感じたとき生まれる感覚である。ここでは他者がむしろ「人‐間」を破壊し、他者と自己のあいだには決定的な断絶が、橋渡しすることの出来ない隔たりがあることを告知するものとして現前するのである。この告知が行われた瞬間、人は「恥ずかしさ」を覚え、居ても立っても居られない感覚に陥ることになる。アウシュヴィッツの死者は二度と帰ってこない。証言することも出来ない。記憶からさえ抹消されかかっている。この他者である死者たちの取り返しのつかなさ、死者たちとの決して超えることの出来ない距離を突きつけられ、それを痛切に自覚したとき、「恥ずかしさ」とともに逆説的ではあるが、死者たちとの<連帯>の可能性がはじめて浮かび上がってくるのではないだろうか。私はこれが「恥ずかしさ」の<倫理>の核心となるはずだと考える。言い換えれば「恥ずかしさ」の<倫理>とは、フロイトの「超自我」や「神経症」になお残るデカルト的な意味での、閉じられたソリチュードな主体の狭さ、あるいはそうした狭い主体を前提とするかたちで成立する「人‐間」理解を打破し、真の意味での他者の発見、他者との連帯の可能性を与えてくれるはずのものなのである。
 ところで話を伊吹の文脈に戻すと、じつはこの後展開される「呼びかけ」のもう一つの側面が今いった問題に対応してくるのである。伊吹は前の引用文に続けて、アルチュセールのイデオロギー論が「超自我の命令を神経症的に解釈する」側面だけに着目して、結局は「人々を現状に縛りつけるイデオロギーのみを強調する結果になってしまった」(203頁)ことを指摘した上で、「その要因」が「享楽を命令するという超自我のもう一つの側面を見てい」なかったことに求めようとする。なぜなら「享楽とは象徴界を逸脱することいであるのだが、しかし所与のイデオロギーを越えていく可能性もそれは宿している」(同前)からである。ここでも私たちはあらためて一つの驚きと出会うことになる。「超自我」からの呼びかけは、象徴界に留まれという命令だけでなく、まったく反対に「象徴界を逸脱すること」を意味する「享楽」の命令をも含んでいるというのである。これはいったいどういうことなのだろうか。
 伊吹は、「この呼びかけを発するのが超自我である」(204頁)といった上で、超自我は主体に対して「父のようにあれ」と「父のようにあってはならぬ」という正反対の二つの声を発するという。前者は、「父のような〔象徴的〕ファルスを所持し、象徴秩序への参画を呼びかける声」であるのに対し、後者は、「表層的には享楽を禁止する命令」だが、じつは「禁止」は「不可能」であることを回避するための方便にすぎず、本当は「享楽の可能性」を「示唆」(同前)する声なのである。ちなみに「享楽」とは、象徴界において消滅する母=〈もの〉への実現不可能な欲望を、「幻想」の境位において部分的に実現させること ― それを実体的かつ全面的に実現させれば主体は破滅する ― に他ならない。したがって前者の声が、父=〈他者〉=象徴的ファルスに従うことを促す声であるとすれば、後者は母=〈もの〉への欲望を肯定し、そこへの回帰を促す声でなのである。「この奇妙な声によって呼びかけられ〔尋問され?:ここは伊吹自身の〔 〕〕呼び出された主体、外からの声によって出頭を命じられた主体は、かくして責任=応答と享楽の間で宙吊りにされる」(同前)。
 伊吹はここで基本的にはこの問題を主体形成の根拠である、「おのれを主体として立ち上げる根源的な地点に遡行し、象徴秩序の組織化を繰り返せねばならない」(206頁)という「反復強迫の機制」の問題の文脈に即しながら論じようとしている。とするならば、なぜそこで母=〈もの〉への欲望に促される「享楽」の呼びかけがなされねばならないのか。伊吹自身「その原動力は死の欲動である」(同前)といっている。すでに見たように、少なくとも私の理解では、「死の欲動」は「主体確立以前の母子関係」に、言い換えれば近親相姦的な母子の癒着関係に根ざすものである。この主体における、執拗ともいえる母=〈もの〉の再帰、そしてその結果生じる、父=〈他者〉と母=〈もの〉との、「想像的ファルス」と「象徴的ファルス」との、さらには主体の存在と他者の意味との弁証法的葛藤 ― この弁証法的葛藤の生じる場が、現象界と象徴界のあいだにある穿たれた穴、空隙・不在としての想像界、より正確に言えば想像界に定位される主体の身体ということになるだろう ― こそ、伊吹が引き出そうとしているラカン理論の要諦ということになるであろう。「万能感に支配された、母との近親相姦的癒着関係がかつてあったことを示す〈もの〉は、去勢を経て象徴界に住まうようになったわれわれにとっては取り返しのつかない形ですでに失われている。にもかかわらず、われわれはそれを再び獲得しようとする。この運動を展開させるのが欲動である。欲動に突き動かされるがままに、〈もの〉を再獲得しようとする。すなわち享楽するとき、罪責感が発生するのだ。母との癒着関係を断ち切る超自我からの主体に対する非難が『有罪』の判決を下すのである。(…)しかし〈もの〉の再獲得、つまり享楽することは超自我によって『禁止』されているはずである。禁止されていることをなぜあえて行おうとするのか。それは『去勢を蒙るよりは禁止を受ける方がたやすい』からである」(209頁)。
 すでに見たように「禁止」は不可能を出し抜くための方便である。とするならそこで生じる「罪責感」もまた額面通りには受け取れないことになる。「われわれはつねにすでに法に従うそぶりを見せながら、その陰で法の侵犯を密かに狙っている」(同前)からである。罪責感もまた自らの欲動の肯定のための逆説的な方便といえるのではないだろうか。たしかにこの罪責感は一方で、主体が「おのれの罪を自覚し、それを贖おうと」して「道徳的」となることや、その罪責感が起源となって主体内部に、超自我に根ざしつつ道徳や倫理や良心が形成されることへとつながっていくに違いない。だがそのことは、罪責感が主体の内部へと閉じ込められた上で昇華され、主体の自律を促すようになるということだけを意味するわけではない。罪責感には、それが強まれば強まるほど、禁止を侵そうとする欲望が高まり、侵犯した瞬間に感じる享楽の悦びを一層強め高めるという面もあるからである。この、ラカン/アルチュセール的というよりもバタイユ的といったほうがよい命題には、私の見るところ主体を、デカルト的、あるいはカント的な自律の閉域に閉じ込めることなく、他者との ― この他者は断じて〈他者〉ではない ― 欲動、享楽を媒介とした交感・交響(コムニオン)を通して生み出される共同性ないしは共同体のうちへと解き放つ可能性、力がはらまれていると思われる。ちなみに先ほど触れた「恥ずかしさ」の<倫理>もまた、このような罪責感のあり方と表裏一体なものとして捉えられるのではないだろうか。だからこそ私は、「『恥ずかしさ』とともに逆説的ではあるが、死者たちとの<連帯>の可能性がはじめて浮かび上がってくる」と書いたのであった。この問題は本書第5章のコミュニズム論の課題につながっていくはずであるが、それについてはまた当該する箇所で考えてみたいと思う。
 かなりのスペースをとって第2章と第3章における伊吹のラカン解釈の軌跡を追ってきたが、ようやくほぼその全体像をつかむことが出来たように思う。少なくとも私はそう思っている。もちろん伊吹からすれば、私の理解の仕方に対していろいろ異論があるに違いない。だが私にとって伊吹のラカン解釈を追う作業は近来になく精神と思考を刺激される機会となり、とても充実した時間を過ごすことが出来た。伊吹には心から感謝したいと思う。あらためてラカンを読み直してみたいという欲望が高まってきたことを感じつつ、ひとまずこの作業を締めくくりたいと思う。
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 ここからは、第4章以下で展開されているマルクス主義者としてのアルチュセールの理論的・政治的実践の意味についての伊吹の議論を見ておこうと思う。
 まず問題にされるのがアルチュセールの国家論、とりわけ「国家と国家イデオロギー」の関係をめぐるアルチュセールの議論である。率直に言ってアルチュセールの国家論には、エンゲルス-レーニンから続く悪しき「マルクス=レーニン主義」の伝統においても最低最悪の虚偽理論というべき「国家=暴力装置」論 ― nationを欠いた、stateにもなっていないstate論というべき代物 ― の残りかすがまとわりついている。吉本隆明の『共同幻想論』やベネディクト・アンダーソンの「想像の共同体」論、さらにはフーコーの「生権力」や「規律=訓練権力」、さらには「統治性」をめぐる議論をすでに知ってしまっている私たちからすれば、「国家=暴力装置」論の恐るべき幼稚さ、粗雑さには正直唾棄の念しか感じられない。だからアルチュセールがその一端を担ってしまっていることには失望せざるをえない面があるのだが ― 念のためいっておけば、これは国家本質論の問題であって、全体主義国家や権威主義国家の暴力性の問題とは全く別な理論的次元に属している ― 。だが伊吹はそのアルチュセールの国家論から慧眼にも、「マルクス=レーニン主義」国家論の水準を遥かに超える理論要素を抽き出し展開していくのである。それは、第4章の「抑圧装置とイデオロギー諸装置との相互補完関係」以下の議論のなかで行われるのだが、それを可能にしたのはやはりラカンを媒介にしたアプローチであった。
 アルチュセールは国家を「抑圧装置」と「イデオロギー装置」という二つの側面から捉えようとする。そして両者は決して別なものではなく、相互に補完し合っている。「このように国家装置にはイデオロギー的なものと抑圧的なものという二種類があり、どちらか一方が欠けても社会構成体は維持されない。両者の差異は、イデオロギー的な機能と暴力的な機能のどちらが優勢であるかによって決まるが、時にイデオロギー諸装置も暴力的に、抑圧装置もイデオロギー的に機能することを見失ってはならない」(233頁)。
 たとえば国家の根幹というべき法の問題を考えて見れば分かるように、国家には法を実際に執行する司法や警察が体現する暴力的抑圧や強制の側面と、法の持つ強制力の根拠となるその正当性、言い換えれば法の「正義」や「理念=理想」を示す精神的・倫理的側面が並存している。そして両者は、アジア=太平洋戦争下の日本における「特高警察」の暴力と「禊ぎ」の異様な皇神精神主義との癒着が示すように、緊密に結びついているのである。では両者が結びつく結節点、環となるのは何なのだろうか。そこでアルチュセールが注目するのが「主体」である。「重要なのは国家のイデオロギー諸装置の機能の仕方であり、それは、結局、支配的イデオロギー(支配階級のイデオロギー)を担う主体をつくり出すことである。だから、『私的な制度〔たとえば学校とは情報機関など〕は、〈国家のイデオロギー諸措置〉として完全に『機能』しうる』」(235頁)。
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 国家の支配にとって理想的なのは、暴力という「抑圧装置」に頼ることなく、イデオロギーによって、より正確にいえば「イデオロギー装置」によって、人々が国家へと自発的に服従するようになることである。このときそうした支配の実現の環となるのが、個々人を自発的な服従の担い手にするための「イデオロギー装置」の具体的なメカニズムに他ならない。じつはそれが、個々人を「主体」へと仕立て上げる装置、メカニズムなのである。では主体とは何か。伊吹はそれが「自由な主体」であるという。つまり「『体制』に従順に従う『自由な主体』」(同前)である。伊吹の引用するアルチュセールの言葉を見ておこう。「イデオロギーのイデオロギー的表象は、あらゆる『主体』が、つまり一つの『意識』を与えられ、しかもその『意識』が主体に注入し、また自由に受け入れている諸『観念』を信じるあらゆる『主体』が『自分の観念にしたがって行動』しなければならず、したがって自分自身が持つ自由な主体という観念を、自分自身の物質的な実践の諸行為のなかに刻み込まなければならないということを、自ら認めるように強いられているのである。もし主体がこのように振る舞わなければ、『それは良くないことである」』(236頁)。
 このアルチュセールのテクストは、主体という「装置」が個々人に対してイデオロギー(=支配)への服従のためにどのような作用を及ぼしているかを語っている。いうまでもなくその焦点は「自由」にある。その服従はあくまで自由に、言い換えれば自発的に行なわれなければならないのである ― アルチュセールのいい方に「注入」や「強いられる」といった「マルクス=レーニン主義」の伝統への未練を感じさせる用語があるのは気になるが ― 。伊吹はそのことを次のように正確に言い表している。「かくして、人はイデオロギー装置の中でイデオロギーを担う主体として産み出されるとき、自由な能動的行為者であるという幻想が与えられると同時に、イデオロギーに支配され、イデオロギーの隷属者になる」(237頁)。
 だが主体をこうした視点から捉えようとするならば、言い換えれば主体を、イデオロギーへの従属を促す装置以外の何ものでもないというように考えようとするならば、そのときどうしても避けて通れない一つの問題が浮上してくるはずである。それは、カントが『実践理性批判』において提示した定言命法の問題である。あるいはカントにおける「統整的」という概念の問題も同時に問われなければならないであろう。周知の通りカントは、「あなたの意志の格律が常に同時に普遍的な立法の原理として妥当しうるように行為せよ」という定言命法の持つ自己統制力に道徳法則の成立の究極的な根拠を求めようとした。これは、いかなる外部の他律的超越性に従うことなく、自己の内なる普遍的な立法性のみに従って、より正確にいえば、自己の内なる普遍的な立法性から発せられる命令のみに従って行為することだけを道徳法則の根拠とすることを意味する。そしてそれがカントによって想定される主体の最高の自律(アウトノミー)の条件となるのである。
 また「統整的」という概念はカントにおいて、すでに成立している現実や概念から分析的に認識や行為の指針を引き出す構成的な態度とは対蹠的に、自己のなかに定言命法の根拠となる普遍的な立法性を、たとえそれが現実には存在しないものであっても、自己の格律となる理念ないしは理想としてア・プリオリに定立し、それに基づいて思考し判断し行為しようとする態度を意味する。ここでもカントが問題にしているのは最高の自律のあり方、その根拠である。そしてもしこのようなカントの自律が成立するなら、主体はイデオロギーへの従属、つまり他律のメカニズムを打破して、文字通りの意味での主体、つまり真の意味での「自由な能動的行為者」たり得るはずなのである。
 これについて伊吹はアルチュセールに依りつつ独特な議論を展開している。たしかにカントは意志の自律を主体の条件として重視していた。「人間の意志は生理学的な欲求という意志以外のものに逆らって、善いことを為すために自己の行為を自己自身で決定することができる。自己の意志によってのみ自己の行為を決定できる者こそ、自律的存在、つまり自由なのだ」(239頁)。
 つまるところ純粋に自己内的に自己に向かって善きことを為すように命令することが出来る者が自律を、つまり自由を体現する主体に他ならないということである。このカントの考え方は、近代市民社会、言い換えればブルジョア社会の原理(とくに法=権利的側面における)を表している。昨今流行語にもなっている「コンプライアンス(規範遵守)」という言葉はまさにそのことを示している。ブルジョア近代社会は個々人にコンプライアンスを自己の内なる命令として強制し、それを遂行できる個人のみを主体として認知するのである。カントが「啓蒙とは何か」で、帰責能力をもった成人性を主体の条件にしているのはそのことの証しといってよいだろう。
 だがそこにもう一つの問題が存在することを伊吹は指摘する。「しかしカントは、その一方で人間は内面的にも外面的にも因果法則(原因・結果の関係)に従うものだと考えていた。行為は時間の流れの中で展開され、いま私が行うことは、私が自由にすることのできない過去の出来事の蓄積を条件とし、そこから必然的に生起するものに規定されているからだ。『私は自由である』と素朴に考える『心理的自由』の中に自由の根拠を求めても徒労に終わるだけだろう。そこで示される自由の根拠はすべてパトロジックな(意志以外のものに規定された)ものであるからだ〔パトロジックpathologique=本来は「病理学的」という意味になる〕。それゆえ『実践理性批判』においても、人間の精神は全般的には、根源的にパトロジックな(感性的動因を持つ)ものであるという認識を基盤にする。つまり、他律的であるのだ」(同前)。
 ここでは大きく二つの問題が相互に関連しつつ提示されている。一つは「因果法則」の問題である。真の自律は「因果法則」から解放されていなければならないはずである。逆にいえば因果法則が支配している限り、そこには自律も自由も存在しないことになる。因果法則は自立的意志に反するからである。だがカントの自律が定言命法によって根拠づけられている限り、たとえ自己内部においてではあったにしても、命令(原因)とそれへの服従(結果)という因果法則が成立することになるのではないか。だとすればカントの主体は、自律=自由を標榜しながら、命令‐服従という因果関係の支配の下にある限りにおいて自律=自由の担い手とはいえなくなってしまうのではないのだろうか。いや、それは自己内である限りは自律の範囲内に収まるから因果関係ではない、という考え方もあるだろう。だがそこで第二の問題が生じる。ではその主体の自己(自由)の究極的な根拠となっているものはいったい何なのか、という問題である。伊吹はそれを「パトロジックなもの」、言い換えれば意志以外のもの、つまり感性的なものだといっている。端的にいえばそれは、デカルトが主体の存立条件から排除した身体、あるいはフロイト的にいえば欲動や情動を含むエス・無意識の領野に他ならない。このパトロジックなものに根ざした因果関係に対して意志は無力なのはいうまでもない。ところがカントはこの因果関係を認めているというのである。もしそうだとするならば、カントの定言命法における自己内命令、あるいは自己内命令として現れる意志の自律は決定的かつ最終的に否定されることになる。それはカントの自律=自由の成立根拠の解体につながるであろう。
 ここでふたたびマルクスやフロイトによって見出された、ブルジョア近代的な主体とは対蹠的な主体なき主体=非主体としての主体の意味が問われなければならない。ブルジョア近代的主体が、自己の自己に対する関係において、たとえばデカルト、カント、前期フッサールが典型的なように、意識する自己と意識される自己のあいだの絶対的な同一性を前提としているのに対し、マルクス・フロイト的主体においては、自己と自己のあいだには同一性はもはや成立しえない。むしろ両者の非同一性が主体=非主体の成立条件となるのである。このとき、すでにカント自身も気づいていた主体を襲う奇妙な契機が問われることになる。すなわち「罪悪感」 ― これはフロイト/ラカンの「罪責感」とは区別して考えなければならない ― である。それは、主体が自己の命令に従っていると自認しながら、じつは因果法則に従うことによって、じつは自己のなかの身体や欲動が原因となって引き起こされる行為=結果に従ってしまうことによって ― その結果自律=自由が失われ、自己の自己に対する非同一的な矛盾・齟齬が生じる ―生じるねじれの意識の現われに他ならない。そして驚くべきことに、それが逆説的なかたちでカントの自律=自由の証明となるのである。カントはすでに、主体が因果法則に対して不自由であることに気づいており、むしろこの不自由を意識的に自覚することこそ主体の自律=自由の証しになるという逆説的な認識を抱いていたということである。これはカントにおいて主体の自律=自由がすでに無条件には成立しえていないことを示している。このことは、少し乱暴ないい方をすれば、物自体の認識不可能性を抱えて、表象の世界を超える現実そのものに到達することが絶対的に不可能であることを強いられているカント的な主体の宿命に他ならなかった ― じつはこのカント的な主体が負っている「現実に到達しえない」という条件は、不在なるものとしての現実界・不可能性の欲望の場としての想像界・無限のシニフィアンの連鎖によって主体が構成される場としての象徴界の関わりを通して主体の運動を捉えようとするラカンの視点と明らかに通底するのである ― 。ここで伊吹が引用しているジュパンチッチの文章を引いておこう。「罪悪感は、主体が根源的な自由と関係するときに生まれる。まさにここでわれわれは、倫理的主体に特徴的な分裂 ― 『私にはそうするよりより仕方がなかった。しかし悪いのは私である』という形で現れる分裂 ― を目の当たりにすることになる。自由は、このような主体の分裂を通してその姿を現す。重要な点は、自由とは『他にどうしようもなかった』という事実、『必然的なことの成り行きに流された』という事実と決して矛盾するものではないことである。逆説的はあるが、自分が『必然的なことの成り行きに流されている』ことを意識したときこそ、主体は自分が自由であることを知る」(241頁)。
 「自由」は「そうするより仕方がなかった」という自立=自律の否定、つまり絶対的な受動性と矛盾しないというのだ。ブルジョア近代的な主体が、そのもっとも典型的なモデルと見なされてきたカント的な自立=自律主体においてすら深い逆説、矛盾、ねじれを負わされていることが今や明白になる。ちなみにこの「罪悪感」は、カント的主体=ブルジョア近代的主体のもっともラディカルな批判者であったニーチェの「疚しい良心」にまっすぐにつながっていると思われる。あるいは「私とは一個の他者である」と看破したランボーにも。そして「疚しい良心」も「私とは一個の他者である」も、主体のただ中に敷かれた同一性を食い破る断裂線を、さらにはその裂け目から露呈する深い亀裂とその底に横たわる暗部を示している。
 ラカンの精神分析は、自己が「他者」によってはじめて成立することを告げている。だがそれは、たとえばランボーのテーゼを媒介なしに無邪気かつ肯定的なかたちで受け入れれば事足りるというような単純なものではない。自己と他者のあいだにもまた極めて錯綜した相互関係が存在しており、そのあり方が究明されなければならないからである。伊吹が明らかにしようとするラカン理論の焦点もこの相互関係にあるといってよいだろう。それは、自己と他者とが、そのどちらにおいても欠如を負いつつ不在的に現前しうるという、徹底的にポジティヴな現前を欠いた条件のもとで相互に関係しあう事態として捉えられねばならない。それはいってみれば、自己と他者のそれぞれにおけるポジティヴな同一性が成立しえず、したがって両者のあいだに原因と結果という因果関係も成立しえないような関係ともいえるであろう。伊吹は、それを表わすのにラカンのテーゼ「<他者>の<他者>は存在しない」を援用する(242頁)。自己が自己の原因ではありえぬように、他者もまた自己の原因であるとはいい切れないのだ。伊吹は次のようにいう。「たしかに主体は、〈他者〉に拘束された他律的な存在と言えるのかもしれない。主体の行為はすべて〈他者〉によって決定されているのかもしれない。だが、主体のすべてを決定し、説明しつくすことができる〈他者〉など、実際にはどこにも存在しないのである。/『〈他者〉の〈他者〉は存在しない』。ラカンはこのテーゼによって〈他者〉は完全ではなく、欠如の印を帯びていることを述べた。/主体が、もはや自分は自律的な存在でも自由な存在でもない、『『もう、どうでもいい』と言って自分を投げ出そうとするとき、カントはこの他者が隠し持つ『裂け目』を指し示し、そこに主体の自律性と自由を位置づけるのである』」(同前 傍点筆者)。引用文中の二重鍵かっこ内はジュパンチッチの文章だが、そこではカント的主体が行きつく奇妙な状況が浮び上ってくる。もしジュパンチッチのいう通りなら、主体(私)の同一性に「裂け目」が生じ、そこから深淵 ― カントの言葉を借りれば「無底(Abgrund)」― が覗くはずである。ところがカントは、この事態のうちに「主体の自律性と自由」を「位置付け」ようとするのである。この深淵から見えてくるものは「他者」であると断言出来るなら問題はある意味簡単なのだが、ジュパンチッチを介しながら伊吹の視点はさらに、もしかするとこれは、たんに「他者」というだけでは規定しきれないような何か得体のしれないものなのではないか、主体はじつはこのような得体の知れないものによってはじめて主体たりえているのではないか、とするならカントにおいてじつは「主体の自律と自由」と「他者」は矛盾するどころか、深く結びついているのではないか ― 「他者」としての「物自体」が、「主体の自律と自由」の根源である超越論的主観性の根拠となっているという逆説 ― という問いへと進んでいく。そこには同時に、先に見た「パトロジック」なものの問題が回帰してくる。主体が、ブルジョア近代的に範型化されることによって与えられる明晰な輪郭を失って、得体のしれないものに衝き動かされながら、それ自体としても何か得体のしれないものへと変容していく事態には、カント的主体を規定している自律=自由が成立し得なくなるということに加えて、じつは「パトロジック」なものにおける「因果法則」もまた成立不可能となるということが重ね合わされていくのである。逆にいえば主体が因果関係から解放されるなかで、主体へと関わる「パトロジック」なものを通して、明確な因果関係から解き放たれた欲動や無意識の次元・層が浮かび上がってくるのであり、それととともに、そこへとアプローチするための方途も浮上してくるということである。たいへん難解な、わかりにくい議論なのだが、どうやらここにラカン理論の核心的問題とアルチュセールの政治理論へ接合されていく環がありそうである。それは二人の理論に共通して含まれるエピステモロジックな要素、性格といってもよいかもしれない。ともあれ伊吹の文章をふたたびジュパンチッチの文章とともに引用しておこう。「カントは普遍的に善い行為を為すためには、パトロジックなものを完全に排させねばならない〔善の規範から生理的なものとつながっている欲動や無意識の契機は排除されなければならない〕としたが、現象の内部の世界に生きるわれわれ〔物自体=現実=ラカンの現実界の認識不可能性を負うがゆえに、真の意味で善を知るための叡知を持ち得ない=パトロジックな不確実性を不可避的に負わざるをえないわれわれ〕にはそれは不可能であり、感性的なものが必ず残る。しかしそれと同時に、〈他者〉〔シニフィアンの連鎖をもたらすことによって象徴界において主体を主体たらしめるものとしての他者=「一の印」〕は感性的なものをすべて説明し尽くせる、〈他者〉はこれらすべてを吸収していると言い切れる保証もない。『言い換えるなら他律性の場所としての〈他者〉それ自体の内に、それが完全な体系として閉じることを妨げるような異質なものが全く含まれていない、という保証はどこにもない。主体と〈他者〉の関係には、何か他のもの ― 主体にも〈他者〉にも属さない、どちらの内にも外-在する何か ― がある』」(246~7頁)。ジュパンチッチのいう「どちらの内にも外-在する何か」こそ「得体のしれないもの」に他ならない。ではそれは何なのか。
 伊吹はラカンに引きつけながら次のようにいう。「従属すべき権威として〈他者〉を選択したのは主体自身である。だが、この選択行為の担い手は主体の意識の『外部』に存在するものであるのだから、主体には属さない。こうした機能を果たすものをラカンは『対象a』と呼んだ〔「象徴界の不完全性を認識したそのとき、現れ出る何かがある。対象aである。『対象aは『他者とは誰か』という問いに答えるもの』、象徴秩序では捉えられないもの、そこから分離したものである。主体は言語的領野である象徴界に誕生するものであるが、シニフィアンの連鎖の中では主体の固有性は与えられない。そこに、対象aが言語構造の余剰として生み出されるのである」(152頁)〕。主体にも〈他者〉にも属さず、両者の間の関係を決定する、欲望の「原因としての対象」である。カント哲学において、この対象aの役割を果たすのが、現象のレベルにも『物自体』のレベルにも属さない超越論的主体である」(247頁 )。
 この引用からは二つの問題を抽き出すことが出来る。そのうち重要なのは「対象a」とは何かという問題であるが、それに言及する前に引用の最後にある「カント哲学において、この対象aの役割を果たす(…)超越論的主体」の問題について触れておこう。というのも、この「対象a」としての「超越論的主体」は、カントにおいて主体=超越論的主観性を成立させる超越論的統覚に根ざしているのだが、すでにいったように超越論的主観性は現象世界しか知ることが出来ず、ついに「物自体」には到達しえないがゆえに、言い換えれば真の意味での現実に到達しえないがゆえに、もし物自体=現実だけが真の実在たりうるとするなら仮象でしかありえないもの、決して名づけることの出来ないものとなるのである。つまり超越論的主体は超越論的仮象として無=不在化されるのである。だが超越論的主体は仮象=無だからといって超越論的統覚の担い手として働きを遂行していないわけではない。それどころか超越論的主体抜きには理性の働きも認識も不可能となる。柄谷行人はこうしたカントの、仮象=不在でありながら作用としては厳然として存在する超越論的主体を「超越論的X」と呼び、かつそれをフロイトの「メタ心理学」と重ね合わせようとした。柄谷の議論もまた明らかにここで伊吹がカント-ラカンの理論的対照関係を通して捉えようとしている問題に光をあてようとしているのである。
 「フロイトの精神分析は経験的な心理学ではない。それは、彼自身がいうように、『メタ心理学』であり、いいかえると、超越論的な心理学である。その観点からみれば、カントが超越論的に見出す感性や悟性の働きが、フロイトのいう心的な構造と同型であり、どちらも『比喩』としてしか語りえない、しかも、在るとしていいようのない働きであることは明白なのである。そして、フロイトの超越論的心理学の意味を回復させようとしたラカンが想定した構造は、よりカント的である。仮象(想像的なもの)、形式(象徴的なもの)、物自体(リアルなもの〔現実的なもの〕)。むろん、私がいいたいのは、カントをフロイトの側から解釈することではない。その逆である。/(…)カントがなしたことは、人間の主観的な能力の限界を示し、形而上学をその限界を超えた『越権』行為として見ることであった〔これが「統整的」ということである。「統整的」であることによって主観の働きは経験的な可感性を超えることになり、その結果超越論的主観性に対して「先天的総合判断」が要請されるようになるのである〕。それは、個々人がどう考えるか、どのような立場に立つかではなく、彼らを規定している諸能力の構造において見ることである。カントにおいて、感性、悟性、理性といったものは、フロイトのエス、自我、超自我と同様に、経験的に存在するものではない。その意味では、それらは無である〔得体のしれないもの〕。しかし、それらは或る働きとして在る。超越論的統覚(主観)も同様であって、それらを一つの体系たらしめる働きとして在る。超越論的とは、無としての働き(存在)を見いだすという意味で、存在論的(ハイデガー)である。同時に、それは『意識されない』構造を見るという意味では、精神分析的あるいは構造主義的である〔「カントは、(…)自己は仮象であるが、超越論的統覚X〔超越論的X〕があるといった。このXを何らかの実体にしてしまうのが、形而上学である。とはいえ、われわれは、そのようなXを経験的な実体〔リアルなもの〕として捉えようとする欲動から逃れることができない。したがって、自己〔超越論的主体〕とは、たんなる仮象ではなく、超越論的な仮象である」『トランスクリティーク』23~4頁〕」(柄谷行人『トランスクリティーク』『定本柄谷行人集』3 岩波書店 59~60頁)。
 超越論的主体が無=不在でありながら「或る働き」を伴うこと、そうであるがゆえに「超越論的な仮象」であること、したがってそこには「超越論的統覚X」が存在すること ― 、このような柄谷の指摘は、先のジュパンチッチの引用部分にあった「主体にも〈他者〉にも属さない、どちらの内にも外-在する何か」といういい方と正確に照応していってよいだろう。そうだとすれば、柄谷の引用の最後にあった「Xを経験的な実体として捉えようとする欲動から逃れることができない」という言葉の意味が問われなければならないのであろう。「経験的な実体」が示しているのは「リアルなもの」、言い換えれば現実=現実界であるとするなら、それを目指す「欲動」の担い手である「超越論的主体」には、仮象でありつつ仮象を超えようとする、言い換えれば決して主体に対して現前し得ない不在=無としての現実界へと回帰しようとする志向がつねに伴っていることになる ― カントでいえば「物自体」へ回帰しようとする志向 ― 。とはいえこの欲動の対象が到達不能な無=不在である以上、この欲動が実体化されることはありえず、だからこそその欲動の主体である「超越論的主体」もまた経験的実体ではありえない。したがって「超越論的主体」は得体のしれない、名づけえない「X」となるのである。柄谷の指摘する「超越論的(統覚)X」と、伊吹のいう「欲望の『原因としての対象』である」、「剰余」としての「対象a」とが正確に対応しているのは明らかである。そして第二の問題である「対象a」とは何かについて考えようとするとき、この超越論的主体が帯びている、およそ因果関係にはそぐわない、むしろ矛盾というべき二重性、すなわち一方においていかなる実在性も持たない仮象として規定され、意味なきシニフィアンの連鎖によって徹底的に形式化されていながら、他方では現実界(物自体)への欲望を決して放棄しようとはしないという二重性が重要かつ決定的な意味を持つことになるのである。
 ではこの「対象a」とは何か、そしてそれに対する欲望 ― 柄谷は「欲動」といっているが ― はどのようなものなのか。それを知るためには伊吹の前の引用に続く文章が手がかりとなる。「人間が人間になる、つまり言語的存在になる過程を振り返ってみよう。それは主体が構成される過程である。前言語的存在である子供が母に対して要求し、それに対する母からの応答が一致しているとき、母=私という癒着関係が支配しているため、『私』という意識はまだ確立されていない。ラカンはこうした母子が癒着した状態を〈もの〉la choseと名づけた。〈もの〉は子供の中に満足体験として刻印されるが、しかしやがてそれらの不一致という事態が訪れてくる。そのとき子供は一つの問いを立てることを余儀なくされる。『〈他者〉は何を欲しているのか。』この問いによって主体は〈他者〉の次元、すなわち言語的領野へと導かれ、母を〈他者〉として位置づけることになる。そしてここで主体の欲望が構成される。/だが〈他者〉はこの問いにいつまでたっても返答してくれない。〈他者〉は不完全なのだ。〈他者〉の〈他者〉は存在しない〔原因の「原因」は存在しない。したがって経験的に他者を知ることは出来ないし、他者と自己のあいだに因果関係を想定することも出来ない〕。それゆえ主体はみずからの力で答えを導き出さねばならない。対象aこそ、その答えである。そのとき同時に『幻想』が生まれ、幻想において主体の欲望が〈他者〉の欲望に結びつけられる」(同前)。
 ここまで来て伊吹が第2章、第3章で詳細に論じようとしたラカン理論の持つ意味が明らかになったといってよいだろう。根源にあるのは、母子の一体的「癒着」の段階 ― ラカンのいう鏡像段階以前の段階 ― 、言い換えれば子の欲望と母の欲望が一体化されている段階、いまだ自己と他者の分離も、現実界と想像界と象徴界の分離も始まっていない段階、したがって主体も言語も始まっていない段階から、そこへと「想像的ファルス」の「去勢」を通して介入してくる父=他者=シニフィアンによって母子の分離が始まり、母と子が不一致=分離へと追いやられ、子が主体として象徴界へと赴かねばならなくなる段階への推移の過程である。子=主体にとって母は無=不在化される。だがこのとき母は主体にとって、母が帰属する現実界とともに無=不在化されながらも消滅するわけではないのだ ― それは、神経症を引き起こす心的外傷が意識からは消えながら無意識を含む心的世界全体においては消滅しないのと同じである ― 。それどころか母は、象徴界に帰属する主体へとつねにまとわりつく過剰なものとして、逸脱として存在し続けるのである。それは、主体が無=不在化された現実界への欲動を抱き続けることを意味する。このとき主体は「超越論的仮象」として、現実界と象徴界の境界としての想像界に立ちつつ、双方へと引き裂かれていくことになる。そこで母は主体に対して〈もの〉として、「対象a」を介して現れるのである。この〈もの〉はいうまでもなくラカンにおいてはラ・ショズというフランス語によって表されるのだが、私はそれを、むしろ「もののけ・憑きもの」といった古い日本語の用法に現れている、妖怪や怨霊など霊力を持った不可思議な存在という語義と結びつけたいと思う。なぜならこの〈もの〉としての母(母子の癒着状態)」によって「対象a」という「幻想」の発生が促されるすとともに、主体も他者も、そして欲動=欲望もすべてこの「対象a」という「幻想」の成立する地平において分節化され了解されるようになるからである。〈もの〉は物にまとわりつきつつ、物の次元を超えてある何か得体のしれないものといってよいだろう。それが主体に憑くのである。このとき主体は「幻想」に包まれることになる。
 ここで一言述べておきたい。それは、この「幻想」を介して導かれたラカンにおける現実界・想像界・象徴界(自我・モノ・言語/仮象・物自体・現象)の三項構造が、吉本隆明の『共同幻想論』における自己幻想・対幻想・共同幻想の三項構造を読み解くための極めて有力な補助線となるということである。ラカンに即していえば、吉本の自己幻想は、現実界に対応する対幻想としての母子関係(その延長としての姉弟関係)からの分離(ラカンの「去勢」)を通して生まれるのだが、じつはそれだけでは不十分であり、その過程に全てに対して幻想の起源としての原型的な共同幻想が〈もの〉として関わってくるのである。ラカンに即していえば、その起源にあるのは、吉本における対幻想に相当する対象aである。ここから世界が総体として文字通り幻想性の水準に定位され、そこにおいて分節化されるということである。そして自己幻想と共同幻想の関わりにおいて〈もの〉としての原共同幻想の解体と再編が進行し、同時に対幻想(対象a)から分離された共同幻想の世界が、想像界における自己幻想の形成に対応するかたちで自らを象徴界として確立することによって、そこへと自己幻想を主体として迎え入れるのである。ちなみにラカンは、フロイトのエディプス・コンプレクスを、現実界(母)・想像界(子=主体)・象徴界(父)の関係というかたちで再解釈したと考えてよいであろう。これは、現実界(近親相姦)・想像界(子)・象徴界(近親相姦の禁止)と読み換えることも出来るからである。さらに主体(存在)・無意味・意味(〈他者〉)とも読み換えられるに違いない。
 そしてここからは、吉本の場合と同様に、ラカン/アルチュセールにおいても最終的な課題が国家(国家共同幻想)との対決となることが見えてくる。それは、階級闘争という課題が浮上してくるということでもある。そこでは、今見てきたような三つの項の絡み合いのなかで欠如、不在、過剰を負いながら非同一的かつ非因果的に現出する主体の分節線と、「イデオロギー装置」を通して主体を実定化(Positivierung)し自らへと同一化しようとする国家の支配秩序の分節線とのあいだの交差、ぶつかり合いが焦点となる。それがアルチュセールの「イデオロギー闘争」の意味に他ならない。
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 第5章「理論と実践をめぐって」において伊吹はアルチュセールのイデオロギーとの闘いを次のように概括する。
 「新しい科学理論の誕生はそれまでのイデオロギーをのりこえ、革命的な認識の地平を切り拓く、アルチュセールはつねにこの構図を基礎にして理論実践を展望してきた。だが、イデオロギーをのりこえた科学理論も、のりこえた途端にイデオロギー的汚染が待ち受けているのだから、たとえ理論革命が成し遂げられたとしても、結局、或るイデオロギーから別のイデオロギーへの移行にすぎない。だが、ここにこそ、イデオロギーからの離脱の可能性がある」(290頁)。
 科学とイデオロギーのあいだの闘いは永久に終わらない。その意味でアルチュセールは永久革命論者たらざるを得ないであろう、少なくとも理論=言説革命の次元においては。
 「もちろん、執拗にまとわりつくイデオロギー(一般)から逃れることは、われわれには不可能である。だが、個別のイデオロギーからの離脱の可能性はつねにあり、これを永続的に繰り返すこと、幾度も個別のイデオロギーをのりこえていくことである」(291頁)。
 伊吹が抽出するアルチュセールのこうした姿勢は、「限定された否定」のたえざる行使によって、「否定の否定」の論理が導くテロス=歴史の終わりを掲げるヘーゲル弁証法を否定し、永続的な否のラディカリズムを貫こうとするアドルノの「否定弁証法(Negative Dialektik)」の構えとたいへんよく似ている。アドルノもまたブルジョア近代の「主体」や「意識」が帯びる同一性に対する尖鋭な批判者であり、しかもその批判の根拠をマルクスとフロイトに見出そうとした思想家であった。アドルノの弟子であり、アルチュセールから強い影響を受けたアレックス・デミロヴィッチが、やはりアドルノの弟子でありながら同一性理論へと傾斜していったハーバーマスから離反したことは極めて象徴的な事態であったといえよう(『非体制順応型知識人』仲正昌樹他訳、御茶の水書房参照)。
 また一九七〇年代から出てきたシングルイシュー型市民運動(公害、行政訴訟など)や人種、ジェンダー/セクシュアリティ、障害者など集団帰属をめぐって社会に存在する差別や排除を告発するいわゆる「アイデンティティ・ポリティックス(既成観念告発)」型社会運動 ― 両者は重なりあうところが多い ― もまたこうした「個別のイデオロギー〔たとえば世界中の中高年男性に蔓延している男性優位/女性蔑視・嫌悪 イデオロギー〕からの離脱の可能性」をめぐる闘いのかたちといえるかもしれない。いずれにせよイデオロギーとの闘いは、たとえば「唯物史観」のような一つの固定された立場からする世界観闘争ではありえないし、またあってはならないのである。ではこうした闘いの原動力、推進力となるものは何か。それは「矛盾」である。「矛盾はつねに特殊・個別的で」あり、「単一ではない。起源も方向も水準も同一ではない異質なものの諸要素が融合し、集積され、統一された破壊力として一体となって活動しはじめるとき、革命を呼び込む爆発的な力となる」(294頁)。これがあの「構造因果性」と並んで、アルチュセール理論を代表する概念といってよい「重層的決定」の意味になる。「矛盾は、原理的に言って重層的に決定されると言うことができる」(同前)。
 こうしたことから見えてくるアルチュセールの闘いに向けた姿勢にとって大切なことは、伊吹のいい方に従うならば、あの「徴候的読解」に潜む、ふつうの読み方では捉えることの出来ない問題を捉えることを、より正確にいえば問いを、さらにいえばその問いによる「はじまり」を可能にする視線 ― 柄谷に即していえば、視差(パララックス・ヴュー)を読み取る視線 ― である。「日常意識では見えないものを見ようとすること、関係がない諸要素を連関させること、こうした鋭い洞察と力動的な大胆さこそ、革命を招きよせようとする革命家には必要なのだ」(295頁)。
 ところでアルチュセールのイデオロギー論をめぐっては繰り返し言及されてきた問題点、というより限界が存在する。それは、「アルチュセールのイデオロギー論はイデオロギーの閉鎖性と頑強さを必要以上に示す結果を招いてしまった。アルチュセールにとって問題だったのは、そこから脱することであったにもかかわらず」(134頁)という問題であった。これに対して伊吹は、「クッションの綴じ目の相関物、主体の出現と同時に生み出されるものがある。対象aである。対象aはイメージや意味、言語では捉えられない現実界のものである。この対象aという概念を導入することではじめてイデオロギーの秘密を解明することができる」(135頁)という。本書における最大のテーマというべきアルチュセールのイデオロギー論をめぐって、伊吹が最終的に見出した問題の閾値点が「対象a」であった。そしてこの閾値点が見出された後では、伊吹の議論からアルチュセールへの言及は消えていくことになる。なぜそうなるのか、その閾値点を表わす文章であり、同時に本書全体の議論、とりわけ欲望理論としてのラカン理論の、伊吹自身による最良の要約となっている文章をここで引用しておくことにしよう。かなり長いがあえて全文を引いておく。
 「アルチュセールの理論からまさにこぼれ落ちているがゆえに『見えなくなっている』もの、それは対象aである。ラカン精神分析理論の概念である対象aとは、イメージや意味、言語では捉えられない現実界のものである。人間がイメージや意味の領野である想像界から言語的領野である象徴界へと飛躍を遂げるとき、余剰物としてこぼれ落ちるもの、それが対象aである。私が何者であるのか、その答えは、言語の領野である〈他者〉〔父〕からもたらされるはずなのだが、しかし〈他者〉はいつまでたっても返答してくれない。言語は一般的なことがらについては語ってくれるが、比類なき存在である『私』については語る能力を持たないからだ。そのとき主体は象徴界を抜け出て、自力で答えをつかもうとする。その答えが対象aである。それゆえ、対象aは言語では捉えられず、意味を持たない。だから無意味なのだ。/われわれは日々欲望を抱きながら生を送り、生そのものは欲望がないかぎり成立しない。この欲望の原因としての対象と言われるのが対象aである。欲望とは『欠如』あるいは『欠如を満たすこと』であり、欲望を根底からかきたてる要因となっているのが対象aなのだ。対象aは私の固有性を示すものであると主体が想定したものであり、言語によって織りなされた世界(〈他者〉)において言語が欠如した場に暫定的に置かれるものである。だが、それはあくまで暫定的であり、その答えを求めつ透けることが、すなわち欲望すること、欠如を満たそうとすることである。しかし言語によっては完全に捉えられないがゆえに、それは生が途絶えるまで永遠に続けられる。/この対象aによって幻想が生起する。精神分析的概念である幻想の典型が性的幻想である。対象aが主体の固有性を示すものであるなら、性的幻想もまた私秘的なものであり、それを抱く者ごとに内容を異にする。こうした幻想という物語を抱くことで主体はおのれの独自性を獲得し、主体の欲望は支えられる。しかも幻想はわれわれの『現実性』をも創出する。『幻想の枠が崩壊すると、主体は『現実味の喪失』を感じ、現実を『非現実的な』確固とした存在論的基礎が何もない悪夢のような宇宙として知覚する』。これは精神分析でいう『不安』の状態である。不安は対象aを見失うことで生起する。幻想は、主体の精神を安定させると同時に、精神の病の原因ともなる。ヒステリーの原因としてフロイトがつきとめた『性的誘惑』も幻想である。また、しかし健常者の心的構造の基礎にあるエディプス・コンプレックス、あるいはそれを継承する超自我の命令もまた幻想なのだ。/ジジェクはイデオロギーの根幹を形成しているものが幻想であると指摘する。われわれがイデオロギー的存在であるのは、幻想が人間にとって必然的なものであるからだ。『イデオロギーは夢のようなものだと決めつけてしまうと、事物の現実の状態、すなわち現実そのものが見えなくなってしまう。イデオロギーの眼鏡をはずし、『しっかり目を見開いて、現実そのものを見るように努める』ことによって、イデオロギーの夢から抜け出そうとしても、それはできない』。愚かにも特定のイデオロギーを信奉することで、自分だけではなく多くの者を不幸へと巻き込んでしまう悲劇を目の当たりにして、『目覚めよ!イデオロギーから離脱せよ!』と叫んでも、その叫びは虚空にこだまし無力感だけが漂うなどという事態を、これまでわれわれはどれほど見てきたことか」(287~8頁)。
 アルチュセールのイデオロギー論はそこからの脱却の道を示さなかった。しかし伊吹はいう。「新しい科学理論の誕生はそれまでのイデオロギーをのりこえ、革命的な認識の地平を切り拓く。アルチュセールはつねにこの構図を基礎にして理論実践を展望してきた。だが、イデオロギーをのりこえた科学理論も、のりこえた途端にイデオロギー的汚染が待ち受けているのだから、たとえ理論革命が成し遂げられたとしても、結局、或るイデオロギーから別のイデオロギーへの移行に過ぎない。だが、ここにこそ、イデオロギーからの離脱の可能性がある」(290頁)。ではそれはどのような可能性なのか。伊吹は続ける。「もちろん、執拗にまとわりつくイデオロギー(一般)から逃れることは,われわれには不可能である。だが個別のイデオロギーからの離脱の可能性はつねにあり、これを永続的に繰り返すこと、幾度も個別のイデオロギーをのりこえていくことである」(291頁)。
 だからこそすでに述べたように、シングルイシュー型市民運動や、アイデンティティ・ポリティックス型社会運動がイデオロギーからの離脱を求める闘争の形態として要請されることになる。だがじつはさらにその先があるのである。それは何なのだろうか。
                  *
 それを探るために、第6章「いま、ここにあるコミュニズム」を見ていこう。おそらく伊吹がいちばん読者に伝えたい内容がこの章には含まれているはずである。
 まず伊吹が言及するのは、マルクスもエンゲルスもレーニンも等しく革命の範型として称揚したパリ・コミューンの意味についてである。伊吹は、『パリ・コミューン』という著作のあるアンリ・ルフェーブルに依拠しつつ次のようにいう。「アンリ・ルフェーブルは『パリ・コミューンとは何か』と問いかけ、みずから答える。『巨大で雄大な祭りであった』と」(299頁)。そこで問題になるのは、「歴史的に大衆叛乱-蜂起が巻き起こるとき」出現する「コミューン的なもの」であり「祝祭空間」(301頁)である。
 そしてここから伊吹のコミュニズムをめぐるユニークな議論が始まる。伊吹はこの「コミューン的なもの」「祝祭空間」の意味を明らかにするためにジョルジュ・バタイユを援用するのである。「しかし、なぜひとは祝祭に魅惑されてしまうのか。そもそも祝祭とは何か。こうした問題に深く切り込んだのがバタイユである」(同前)。そしてバタイユが祝祭の本質として見出したのが「供儀〔sacrifice〕」(同前)であった。
 ではこの供儀から見えてくるものとは何か。供儀儀礼の中心に位置するのは「供食という儀礼」だが、それは「同じ血と肉を分かち合い〔キリストの最後の晩餐を想起せよ〕、互いの絆をたしかめ合い、一体感を生み出すこと」であった。ではなぜこうした供儀儀礼は必要になったのか。ここから伊吹の議論は興味深さを増していく。
 伊吹が注目するのは、供儀に含まれている、およそ祝祭のイメージにはそぐわない「死」の問題である。人間は動物の中で唯一死を意識する存在である。そしてその結果死に対して恐怖や絶望感を抱くようになる。そして生のうちにある存在として、この生からもっとも遠いところにあるもの、というより、生の対極にあるものである死を出来るだけ遠ざけておきたい、触れたくないという禁忌の意識を抱くようになる。墓を作るのは、死者を生者のいる空間から遠ざけ触れないようにするためであった。そして重要なのは、こうした死への禁忌の意識が人間と動物の区別の指標となる「精神的存在」としての人間を生み出したということである。言い換えれば、死、正確にいえば死への意識を通して人間は「精神的存在」となるのである。そして死を忌避し禁忌とする存在となることによって精神 ― これはおそらく自己意識と言い換えてもよいはずである ― を獲得した人間は、道具を作り、道具を使った労働を通して、時間の観念を作り出していく。それはまさに人間が知性を使って自然=世界を対象化することを可能にする瞬間である。バタイユは次のようにいう。「動物に欠けているのは、行動と結果、現在と未来を区別し、現在を、獲得すべき結果に従属させつつ、待つことなしに即座に与えられるものの代わりに、何か別なものを待機する方向に向かう基本的な知性の作用である」(305頁)。
 この「行動と結果、現在と未来」を分離する時間の構造において重要なのは、引用箇所のすぐ前で伊吹がいっている「いまここでの享受を一時断念し、現在を未来のために従属させる」(同前)という事態である。これによって現在と未来を明確に分離する時間の構造が可能となるからである。そしてこのことは、ヘーゲルが初期の『イェーナ草稿』のなかでいっている、労働によってもたらされる「道具を介することによって生産と享受のあいだを延期する」という事態にもつながっていく。そこに出現するのは、現在を犠牲にして未来のより大きな利得を目指すというエコノミカルな合目的性の構図である。時間の構造によって人間の活動は、利得を極大化しようとするエコノミカルな合目的性のもとに包摂されるのである。ここで注目すべきなのは、享受が延期される労働が、ヘーゲルの文脈のなかで、決して明示的には語られているわけではないものの、普遍的な労働一般というより、ブルジョア近代社会(市民社会=産業社会)の歴史性によって規定された労働、言い換えればマルクスが「社会的労働」と呼んだ労働として捉えられていることである。もしそうだとするなら、この現在と未来を分離=延期する時間の構造の誕生は、私たち人類の歴史における、太古の道具=労働の誕生から一九世紀の産業社会の誕生にまでを丸ごと包含する長いプロセスの起点となる画期的な出来事に他ならなかった。そしてこの歴史の巨大な振幅のうちには、伊吹が指摘する次のような契機、事態がはらまれているのである。「人間は、食べる動物をまずは『対象』として措定する。自己(主体)に対立する『客体=対象』と据えるところに人間の人間たるゆえんがある。あらゆるものを対象として措定するのが超越的な立場であり、動物はこの場に立たないし、立てない。/超越的な場に立つことを人間に許したのが道具の使用である。人間は所与の自然をそのまま受け入れるのではなく、そこから切断されたものとして自然を据えた上で受容する。これに対して動物はまさに自然と一体化し、そこにとどまり続ける。『道具はある一つの世界の中に、外部性というものを導入する。つまり主体はそこではみずからが区別している諸要素の性質を分かち持ち、また世界の性質を分有しつつ、『ちょうど水が水の中にあるように』とどまっている世界の内に、外部性を導き入れるのである』。動物たちがとどまる世界は『ちょうど水が水の中にあるように』内外の区別がない。まさに『内在性』のみが支配する世界である。この動物的世界、いわば『根源的な』自然界に『外部』を導入するのが道具である。人間は道具によって内在性の世界から超出し、それとは別な世界を切り拓いた。自然とは異なる、媒介された世界、文化的世界、人間的世界である」(307頁)。
 この記述は、アドルノの出発点となった著作『啓蒙の弁証法』(ホルクハイマーとの共著)における啓蒙の起源を想起させる。ここで伊吹は後で彼が「俗なる世界」(310頁)と呼ぶことになる世界、すなわちホモ・エコノミクス/ホモ・ファーベルとしての人間によって形成される根源的な意味でエコノミカルな世界を見すえているのである。そして重要なのは、そのもっとも核心的な契機が自然を「道具の使用」を通じて人間にとって有用な対象とすること、つまり自然を対象化することにあるといっていることである。労働だけでない。じつは意識も精神も理性もすべてこの人間の対象化行為と結びついている。そしてそれは道具による支配、ホルクハイマーの言葉を使えば「道具的理性」による支配につながっていく。これが伊吹のいう「超越的立場」の意味ということになる。『啓蒙の弁証法』においてアドルノとホルクハイマーはこの支配の対象が自然だけでなく人間にも及ぶとき人類の歴史に支配-被支配の関係が生まれ、それがナチズムに代表されるような国家による暴力的支配へとつながっていくという。つまり彼らが啓蒙という言葉によって示そうとした人間の対象化能力こそが、ナチズム(全体主義)に行きつく人類史の残忍な暴力の起源に他ならないのである。
 少し先走った議論になってしまったが、決して伊吹の議論と無関係ではない。そのことについて考える上で興味深い議論が展開されている。
 伊吹はこうした対象化を可能にする「道具の使用の根底にあるのが『死の意識』である」(308頁)という。上記にあった「媒介された世界、文化的世界、人間的世界」のすべてを支えているのがこの「死の意識」だというのである。どういうことだろうか。
 伊吹は「言葉は物の殺害である」ともいう。なぜなら言葉はその指示作用によって、物になり代わり、物が実在しなくても言葉、つまり有意味な記号が存在すれば差し支えない状況を生み出すからである。言葉によって表現されるとき物は対象化される。その瞬間対象化されたものは実在を失って「殺害」され、たんなる「シンボル」に置き換えられてしまう。伊吹によれば、バタイユは「この言語能力を人間にもたらしたのが、『死の意識』である」(309頁)と考えるのである。この後に続く伊吹の文章は印象深い。「生きたものを物体(=屍体corps)と化してしまう。この恐るべき力を有する死を前にして、人間は戦慄する。その前ではただ恐怖するしかない死がいつの日かおのれに及んでくることにおののきながらも、しかし逃れられない必然として死は自己のもとに訪れてくる。この不条理をつきつけられ悲痛な叫びをあげながらも、しかしこの事態を甘受する態勢を人間は整えていく。/死を自己の中に取り込むのだ。あらゆるものを『無化』し、破壊してしまう力をみずからの中に内面化させるのである。この死の内面化によって人間の中に生み出されたのが言語能力である」(同前)。
 ここで伊吹が「死の内面化」と呼んでいる事態こそ、対象化=超越化によって規定されるホモ・エコノミクス/ホモ・ファーベルとしての人間の本質的契機である。内面化された死が、対象に死=破壊をもたらし「屍体」にしてしまう原動力となるのである。もともと死は破壊であり無化であり人間と動物(自然)との区別をなくしてしまうものである。そして時間の構造を解体しすべてを今-ここという刹那に還元してしまう。ではこの死の破壊力にどう対抗するのか。人間自らがこの死の破壊力を身につければよいのだ。ではどのようにしてか。死の刹那性を持続性に、一度限りの出来事性を反復可能性に、純粋な内在を対象化可能な超越性に変えるのである。そしてそれを人間自らが身につけるのである。この瞬間死は「不死の死」となる。たとえば言語は実在するものがなくてもその意味を限りなく反復指示することが出来る。人間の意識は過ぎゆく現在を持続のうちに留めおくことが出来る。カミの創造も同じ原理に基づいている。不死の観念の創出と投射によって人間は自らのうちにカミというかたちで不死の観念を所有することが出来るようになるのである。文化や伝統も同様だが、ここでその極めつきとして挙げておきたいのが資本である。とマルクスは資本と労働の交換を「死んだ労働と生きた労働の交換」と呼んだが、字面に惑わされることなくマルクスのいわんとすることを正確につかむ必要がある。それは、「不死と化して死ねなくなった労働=対象化された労働(=貨幣)としての資本」と、「有限な、死ぬことが出来る一回限りの生=自然のうちにある労働」との交換、より正確にいえば、すでに死んでしまっているためにもはや死ねなくなった労働としての資本がゾンビのように生きた労働の生命を吸い取る事態として捉えることが出来るのである。このゾンビとしての死(=不死の死)によって生が吸い取られることこそ「死の内面化」の真相に他ならない。その結果吸い取られた生は屍体化する。この「死の内面化」こそ道具の使用から始まり産業社会にまで至る人類の歴史を支配してきた原理そのものといってよいだろう。文明化、脱魔術化、世俗化…いろいろないい方がこれまでされてきたが、その本質をなしているのはこの「死の内面化」=対象の屍体化に他ならない。ちなみに今村仁司はこれを、見るものすべてを石に変える女神メデューサにちなんで「メデューサ効果」と呼んでいる(『暴力のオントロギー』参照)。
 伊吹はこの「死の内面化」の原理を通して形成される世界を「有用性」の支配する世界として捉える。まさしくエコノミカルな世界である。そして伊吹はすでにいったように、この世界をバタイユにならって「俗なる世界」と呼ぶのである。「所与の自然を直接享受する動物性を拒否することで拓かれるのが、『俗なる世界』である」(311頁)。
 伊吹によれば、この「俗なる世界」においては、死の禁忌と並んで性への禁忌も生じる。
なぜなら性もまた、死と同様に人間を限りなく動物へと近づける破壊的な要素となるからである。では「死の内面化」によって死の破壊力を克服した人間は、性の破壊力をどのように克服するのか。伊吹は「近親相姦の禁止」がその手段であるという。「近親相姦の禁忌は絶対的である。荒ぶる性の力を制御しようとしてきた人間たちの営みは、みずからの精神と肉体の中に刻み込まれているのだ」(313頁)。私たちはここで、『トーテムとタブー』におけるフロイトの議論、『共同幻想論』のなかの「禁制論」における吉本の議論と並んで、近親相姦の禁止を野生から文明への転換点と考えたレヴィ=ストロースの議論を想起してもよいだろう。
 ただここで私はこの「近親相姦の禁止」の問題もまた、あらためてあの主体をめぐる錯綜した弁証法の観点から捉え返されなければならないと考える。その観点に立つなら、近親相姦の禁止は、現実界に位置する母の実在および母への/の欲望が想像的ファルスの去勢を通して無=不在化され、子=主体が象徴界へと送付されることそのもの、あるいはそれを促す起動力といってよいだろう。そうだとするならばこのとき同時に、〈もの〉として、「欲望の原因としての対象」である「対象a」として回帰して来る母(無=不在化・欠如として回帰して来る近親相姦の対象)の存在が問われなければならなくなるはずである。そしてこの瞬間、じつは根源的かつ強烈な転回が生じることになる。なぜなら〈もの〉として、「対象a」を介して回帰してくる母の存在は、「死の内面化」と「近親相姦の禁止」によって形成される「俗なる世界」とは別な世界、むしろそれを否定し超克しようとするもう一つの世界を開示することへとつながるからである。それは、伊吹がバタイユに倣って「聖なるもの」と呼んでいる世界に他ならない。ではこの「聖なるもの」の世界の形成にはどのような機制が働いているのだろうか。ここにこそ伊吹がまずバタイユに着目した理由があるのである。それは、〈もの〉としての母の回帰をめぐる主体の弁証法に正確に対応する、「禁止と侵犯」の弁証法の問題に他ならない。伊吹の文章を引いておこう。
 「俗なる世界が築かれると、今度はこの世界が直接的な所与とみなされるようになる。生存の維持を可能にするために生産と蓄積を合理的・効率的に行う俗なる世界〔エコノミー原理の支配する世界〕に依存し、服従しているおのれのあり様に対し、死を内面化すること獲得された否定する力が蠢き、姿を現し、標的を定める。今度は、俗なる世界を否定し、拒否するのだ。何ものにも依存しない自律性を求めて、所与の自然に依存する動物性を拒否する力が、今度は俗なる世界に依存することの拒否となって現れる。そのとき、最初拒否された動物性が今度は魅惑するものとして人間の前に立ち現れる。/『聖なるもの』 ― 俗なる世界を否定することで現れる人間たちを魅惑し引き寄せるものをバタイユはこう呼んだ」(315頁)。
 一言つけ加えておくと、バタイユはその著作『呪われた部分』で「一般経済学」と「限定経済学」という区別を行っている。極めて単純化したいい方をするならば、「一般経済学」は「聖なるもの」の世界を表わし、「限定経済学」はエコノミー原理の支配する「俗なる世界」を表わしている。そしてバタイユが前者に「一般」という形容を、後者に「限定」という形容を付しているのは、前者の世界の方が人類の歴史にとってより根源的な意味を持っていると考えているからである。にもかかわらずそれはずっと「呪われた部分」と見なされてきた。この根源性と「呪われた部分」の両義性が、この後展開される「資本主義的欲望を超える欲望」の実現態としてのコミュニズムを考える上で重要な意味を持つことになるのである。
 伊吹の文章に戻ると、そこで注目すべきなのは、「聖なるもの」が「最初拒否された動物性が今度は魅惑するものとして人間の前に立ち現れる」という事態である。そこでは禁忌の対象であったものが魅惑の対象へと反転するのである。近親相姦もまた禁忌の対象から魅惑の対象となる。「聖なるもの」は、「俗なる世界」を支配する「死の内面化」と「近親相姦の禁止」という原理を覆す対抗原理となる。これが禁忌に対する侵犯行為を意味するのはいうまでもない。「拒否の拒否、否定の否定、俗なる世界が拒否されるとき、禁止されていたものが一挙に羨望のまなざしで見つめられる対象となる。禁止を侵犯し、その向こう側へと突き進む衝動が人間を襲う。理性的な世界を破壊しかねないにもかかわらず、禁止をのりこえる侵犯行為が魅惑的なこととして感じられる」(316頁)のだ。こうして禁止=禁忌の彼方、向こう側にその侵犯を通して新たな世界が開ける。それは、性の禁忌の侵犯に即していえば、バタイユが「エロティシズム」という言葉で呼んだ領域、世界に他ならない。そしてその本質が「呪われた部分」であることも。
 ここで想起されるのがフロイトの「死の欲動」である。なぜ人間は自らを破壊と無へと追いやる死への欲動を抱くのか。それは、私たちが不動で自明なものと考えている現実がじつはもろいものでしかなく、戦争や災害、突発的な暴力などによってあっというまに崩れ去るものでしかないからではないのか。少なくともそのことを私たちは直感的に知っているのではないだろうか。私たちはじつはつねに所与の現実の裏側に皮膜一枚を隔てて別な世界が存在することを、存在することを感じているのである。もちろんそれが怖るべき破壊や破局の支配する世界かもしれないことも知っている。だが、少なくともこの現実がある日突然覆るかもしれないことを知っているとするならば、このもう一つの世界が私たちにとって切実な意味を持たざるを得ないこともまた知っているはずである。私自身はそのことを二〇一一年三月一一日の事態のなかでとりわけ強く感じた。そして重要なのは、たとえそれが表面的には破壊や死への恐れだけにしか見えないとしても、その根底には自分の生きる世界の禁忌や秩序を侵犯し破壊したいという根源的な欲求が潜んでいる=いるかもしれない、少なくともそうした欲求とどこかで深くつながっているかもしれないということである。だからこそ「死の欲動」は母=〈もの〉と、近親相姦への欲望と結びつくのであり、本質的な意味でエロティックなものとなるのである。そのことをもっともよく知っていたのがバタイユだった。伊吹がバタイユに導かれつつ次のように書くことはある意味必然的であるといわねばならない。「勤勉と理性的なふるまいが推奨される俗なる世界の秩序を維持するために、死や性などの『呪われた部分』は封じ込められてきた。にもかかわらず、人間はこの世界を拒否し、封印を解き、禁止されていた領域に手を突っ込み、まさぐり、取り出そうとする。この行為自体が社会秩序を壊乱し、社会を顛覆しかねない危険な行為であることは十分わかってはいても、否、そうであるがゆえに、ひとはこれに惹きつけられてしまう。拒否の拒否、否定の否定はまさに社会に対する反抗と不服従として現出する。/だが、これを実践に移したとき、ひとは聖なるものに包まれ、エロティシズムに陶酔する。これが爆発する場が祝祭である」(317頁)。そして禁忌への侵犯の欲求がこの世界を覆したいと欲求と結びつくとき、祝祭は革命へとつながっていくのである。
 「聖なるもの」=「呪われた部分」は、「俗なる世界」を支配するエコノミー原理を拒否する。蓄積、所有が、利得の拡大を促す有用性が否定される。代わりに出現するのは、バタイユがいう蕩尽、すなわち富の濫費、一挙的な費消である。このことは、文化人類学や経済人類学の成果を踏まえていえば、「俗なる世界」へと収斂する「限定経済学」においては等価交換の原理が支配的であるのに対し、「聖なるもの」=「呪われた部分」に対応する「一般経済学」においては、気前の良さや大盤振る舞いとして現れるような一方的贈与、富の破壊が支配原理となることを意味する。「死の欲動」に象徴されるような禁忌への侵犯に対応するのが蕩尽や贈与による蓄積、所有の、有用性の否定なのである。ここで蓄積や所有が否定されていることに注目したい。それは、資本主義経済のシステムへと凝縮する「俗なる世界」のエコノミー原理を根底から覆す契機となるからである。つまりそれこそが資本主義の彼岸に向かって構想される「コミュニズム」の起点、初発的契機となるのである。次のように伊吹がいうことは、まさに「コミュニズム」へのつながりにおいて理解されなければならない。「ポトラッチ〔富の消尽、贈与の儀礼〕においては富が破壊される。なぜ富は破壊されるのか。/富はまさに有用なものであり、事物の有用性は人間に利益をもたらす。富が有するこの有用性こそ、破壊者たちが狙いを定めるものである。有用性は交換のエコノミーを産み出す。有用性を求め、生産活動に従事し、合理的に思考するようになることでわれわれは人間となり、俗なる世界が築かれた。破壊者たちが目指すのは、俗なる世界を超出することである」(320頁)。この「破壊者たち」こそが「コミュニズム」を目指す者たちに他ならない。逆にいえば、新たなコミュニズムはこうした視点から定義されなければならないということである。それは、伊吹が「資本主義的欲望を超える欲望」と呼ぶ欲望に向かうことに他ならない。そしてコミュニズムが所有原理の否定の上に築かれねばならないとすれば、この欲望について次のように伊吹がいうのは当然のことといわねばならない。「しかし人間の欲望は所有欲をときに凌駕することがある。理性的な思考〔啓蒙〕を超脱し、後先のことも考えずに、その場その瞬間に全てを蕩尽してしまおうとする欲望、自己を失うことで至高性の高みへと上昇していこうとする欲望である。これが体現されるのが祝祭である」(324頁)。繰り返しいうようにこの「祝祭」が革命であり、コミュニズムの実現となるのである。
                   *
 この後伊吹は具体的な情勢分析に入っていく。伊吹は、冷戦終焉後の「国民」概念も「戦争」概念も変容していく世界秩序のなかで、私たちが「四つの鎖」につながれているという。『帝国』の著者ネグリとハートによれば、「四つの鎖」とは、「現代の危機の中でわれわれがまとっている四つの主体的形象」(341頁)のことである。それは、「借金を負わされた者」「メディアに繋ぎとめられた者」「セキュリティに縛りつけられた者」「代表された者」である。これらの形象から見えてくるのは、冷戦終焉後の新自由主義=グローバル資本主義の支配する世界において、かつてなら例外状態というべき状態、端的にいえば戦争下の非常事態が常態化し、雇用の安定も、個人のプライヴァシ―も、身分や人権の保障も、代表制民主主義も、すべて「セキュリティ」という大義名分の下で事実上失われてしまっているということである。安倍・菅政権の下で行われた恐るべき情報の隠蔽と改竄や恣意的な権力行使、とくに行政権力による警察・司法権力の勝手気ままな行使 ― 安倍・菅政権の事実上の権力行使者が治安警察のトップであった杉田官房副長官であったことを想起せよ ― を思い起こしてほしい。
 ところでもう一点ここで、あのカール・シュミットの「例外状態」についての議論を思い起こしてほしい。ベンヤミンはシュミットを踏まえながら、法が停止され、日常が停止される「例外状態」をもたらすのは戦争だけではなく、革命もまたそうであることを明らかにした(ベンヤミン「暴力批判論」参照)。「例外状態」は国家が自らの支配の正当性に、言い換えればイデオロギーの正当性にもはや頼ることが出来なくなった状況を意味する。戦争も戒厳令も治安警察による弾圧も情報・メディア統制も、すべて国家の正当性喪失状態、言い換えれば国家が後ろめたく疚しい状態に陥って自信を喪失している状態の現われに他ならないのである ― 現在のロシアや中国を見よ ― 。だからこそこの状況は、大衆蜂起や占拠運動の多発する状況と表裏一体とならざるをえなくなる。それが革命というもう一つの「例外状況」への前段となりうるのはいうまでもない。そこで重要なのが、そうした現代の例外状況において蜂起する民衆側に残るほとんど唯一といってよい ― と同時に決して無視することの出来ない重さを持った ― 弱点である「分断」の問題である。それを克服するためには〈共〉を、「共にあること」を創出しなければならない。それはまさにコミュニズムの「co=共に」である。「孤立していることをやめ、自分自身を他者との関係の中で再建し、自分を〈共〉的な言語に対して開かねばならない。例えば、デモにおいて政治スローガンを創造し、拡散することである。占拠運動で生まれた『私たちは九九%だ』というスローガンは、社会的不平等という現実を白日の下にさらし、公的な議論のやりとりを劇的に転換させた」(350頁)。
 コミュニズムとは、「呪われた部分」へと「俗なる世界」によって貶められきた「聖なるもの」=「至高性」の領域を、今-ここにある私たちの生活のなかで、〈共(コ)〉にある他者たちと ― ひょっとすると無=不在化されながら「もの」「対象a」として回帰してくる「母」やもう帰ってくることのない無=不在化された死者たちとさえも ― 連帯しつつ獲得しようとする試みといえるであろう。ラカンとバタイユの議論は、主体が帯びている現実界‐想像界‐象徴界の弁証法を衝き動かしている「他者(もの)の欲望」が、そして「呪われた部分」において働く所有を突き破る蕩尽と贈与のエネルギーが、じつはこのコミュニズムへの原動力となりうることを私たちに教えてくれる。伊吹のこの著作の最大の功績ははそのことを明確に教示してくれたことにある。このコミュニズムは間違っても「マルクス=レーニン主義」型の「共産主義」と混同されてはならない。終わりにデリダの『マルクスの亡霊たち』のなかのテクストを引用しておこう。それは伊吹の考えるコミュニズムがいかなるものかを理解する鍵になるはずである。「われわれには、未来へおもむくこと、あのわれわれとして節合することが求められ(もしかすると厳命され)ているのだ。特異な、概念も限定の保証もない、知もない、接続[conjonction]あるいは分離[disjonction]の総合的な併合[jonction]もない。もしくはその併合以前のある節合へと不揃いが赴く所で。これこそが、共同者=配偶者[conjoint]、組織、政党、国民、国家、所有を持たぬ合流=節合[rejoindre]という同盟関係なのである(すなわち、われわれがもっと先で〈新しいインターナショナル〉という異名をつけている『共産主義』なのだ)」(デリダ『亡霊たち』増田一夫訳、藤原書店、76頁)。
 〈他者〉ではない他者との「共」へ、他者との交感・交響としてのコミュニズムへ。(引用原文のルビと傍点は省略)
(思想史)







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