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評者◆福島亮
ヴァカボンの知恵――カリブ海の映画と文学の現在
No.3543 ・ 2022年05月21日




■大統領選挙の結果、現職のマクロン大統領が勝利した。一点注目しておきたいのは、第二回投票において仏領カリブ海地域の住民の六〇%以上が極右政党のル・ペンに投票したことである(なお、第一回投票で彼らが支持したのは、極左のジャン=リュック・メランションだった)。二〇一七年の大統領選挙ではマクロンの方が圧倒的に優勢であった。だが、今回の選挙でカリブ海地域の住民は、最終的にル・ペンを支持した。特にグアドループでは六九・六パーセントと高い支持率をル・ペンは得た。
 なぜ、カリブ海地域の住民はル・ペンを支持したのだろうか。旧植民地の右傾化? まさか。実際、太平洋のフランス領であるニューカレドニアでは六一・〇四%の住民がマクロンを支持している。この違いはどこにあるのだろうか。
 さまざまな分析がなされているが、社会学者ミシェル・ヴィヴィオルカは、カリブ海住民によるル・ペンへの投票を「怒り」の表れだと指摘する。この「怒り」を理解する鍵は、大統領選挙の直前になされたある報道に隠されている。
 三月二五日、パリ市高等裁判所は、とある農薬被害の調査終了を決定した。四月五日、この決定は大々的に報道され、カリブ海地域から怒りの声があがった。
 農薬の名は、クロルデコン。カリブ海地域に赴けば嫌でも耳に入ってくるのが、この残留性農薬の名である。クロルデコンがもたらした甚大な被害と環境汚染は、いまでもカリブ海地域にトラウマとして染み付いている。
 一九七二年、フランスでクロルデコンの使用が許可された。マルティニックとグアドループの主要農産物であるバナナをゾウムシの被害から守るためだった。マルティニックでこの農薬を導入したのはベケ(白人農園主)のイヴ・アヨットである(なお、クレマン美術館含め、マルティニックの産業や文化の至る所に影響力を持っているのがアヨット家である)。
 合衆国で「ケポン」という名で生産されていたこの農薬は、一九六〇年代からその強毒性が指摘されていた。実際、一九七〇年年代中頃には、合衆国でケポンの生産工場が閉鎖され、使用が禁止されている。また、一九七九年には世界保健機構によって発がん性も指摘されていた。
 だが、フランスでは、一九九〇年までこの農薬が使用されていた。さらに、一九九〇年に使用が中止された後も、カリブ海地域では一九九三年まで使用が続けられていたのである。言うまでもないことだが、バナナの大半はフランス本国で消費されるために作られている。
 畑に散布されたクロルデコンは樹上のバナナは汚染しない。だが、土壌と海は汚染する。サツマイモやヤムイモなど根菜類に加え、海産物を日常的に食べるカリブ海住民が被った汚染被害は著しく、ある調査では全住民の九〇%が何らかの汚染被害を被っているという。実際、昨年十二月二〇日に発せられた行政命令(デクレ)によって、アンティル諸島の農薬使用地域における前立腺癌は職業病に公式認定された。
 思えば二〇一九年二月一日、国民討論会の最中にマクロン大統領はクロルデコンを巡って「この農薬に発がん性があると言うべきではない」と述べ、強い批判を受けていた。この批判を今回ル・ペンはきちんと覚えていたようである。二〇二二年三月二六日、選挙活動の一環としてグアドループを訪問した彼女は、ツイッターでクロルデコンによる汚染被害に政府は取り組んでこなかった、としっかり書き込んでいた。
 どちらかを選ばねばならないなら、いっそル・ペンに。この「怒り」の背景にあるのは、今なおカリブ海の地中に残留する植民地的経済構造である。ル・ペンの得票数の伸びをフランスの右傾化、と呼ぶだけでは、この構造はまったく見えてこない。

 二〇二二年四月一〇日、マクロンとル・ペンが決選投票に進むことが決まると、学生たちは、「マクロンもだめ、ル・ペンもだめ」とスローガンを掲げ、抗議を始めた。ソルボンヌ大学をはじめとする複数の教育機関を占拠し、「ペストもコレラもいらない」と主張した彼らの行動は、「決まったことは仕方がない」と早々に隷従を決め込んだ人々には、駄々っ子のそれのように見えただろう。実際、十五日、マクロンはインタビューで、学生たちの行動を非難し、「規則にことごとく疑義を挟むようでは、アナーキーになる」と述べた。奇しくもその五日後、今度はル・ペンが「アナーキー」という語を第二回投票に向けた公開討論会で、移民政策をめぐって使用する。
 要するに、「アナーキー」というレッテル貼り、それが権力者の用語法なのである。ペストもコレラもやはり大差なかった、というわけだ。逆に言えば、学生たちが示したのは、ペストにつくでもなく、コレラにつくでもなく、どちらも批判する、「アナーキー」な思想、それも大統領お墨付きの「アナーキー」な思想だということになる。
 ちなみに、ソルボンヌ大学ではこの学生占拠を理由に校舎が一時閉鎖され、許可を得た一部の者しか入構できなくなった。これをどう捉えるかは様々な意見があろうが、一学生としては、学生による占拠さえなければ、とは決して考えないようにしたい。
 さて、カリブ海の人々はル・ペンに投票した。だが、カリブ海から発信される映画や文学を見ていくと、彼らの想像力のなかにもまた、この「アナーキー」な思想に接続しうる何かがあるかもしれない、と思うのである。

 マルティニックの映像作家、ジル・エリ=ディ=コザック(一九六八‐)は、二〇〇九年にカリブ海地域で起こった大規模ゼネストを題材としたドキュメンタリー『買い物リスト』(二〇一一年)など、一貫してカリブ海地域の社会に根ざした作品を作り続けてきた(ゼネストについては雑誌『思想』二〇一〇年九月号の特集「高度必需とは何か」を参照されたい)。
 二〇〇八年の「ゼトワル」は、ロベールという名の謎のマルティニック人男性を追った、一見ドキュメンタリー風の映像作品である。マルティニックの住民にインタビューするなかで徐々に浮き彫りになってくるのは、ロベールが七〇年代に月へ行こうと独りロケット作りに勤しんでいた、という知られざる「事実」である。
 知られていないのも無理はない。ロベールは架空の人物だからである。だが、実名で登場する住民たちのインタビューを通して浮かび上がってくるロベールの姿には、単なる作り物に収まらないところがある。
 七〇年代のカリブ海地域において、まさしくロケットを飛ばすような大事を成し遂げようとしていた者たちがいた。独立を掲げた者たちである。一見荒唐無稽にも見えるドキュメンタリーは、終盤に近づくに従って、徐々にカリブ海における独立闘争のパロディとしての顔をのぞかせてゆく。
 そんなエリ=ディ=コザックの新作が、四月六日にモンパルナスの小さな映画館で公開された。『ゼポン』(二〇二一年)である。ゼポンとは鶏の蹴爪、とくに軍鶏の蹴爪につける刃物を意味する。というのも、この映画の見せ場は闘鶏なのである。
 老父ヴィエゾは娘のヴィクトリーヌと二人で暮らしている。ヴィクトリーヌはすでに成人しており、まじない人形や薬草を売って生計を立てている。娘の他に、ヴィエゾには相棒がいる。軍鶏である。
 ある日、娘の反対を押し切って出場した闘鶏で、ヴィエゾは見事勝利し、名声を得る。負かした相手はヴィクトリーヌにつきまとう金持ちの若者シャバンだった。シャバンは、酒場で気持ちよく酒を呑んでいるヴィエゾを見つけると、酒をしこたま飲ませ、もう一回戦交わすことを承諾させる。賞品としてシャバンが要求したのは、なんとヴィクトリーヌだった。
 以上があらすじであるが、島をめぐる想像力と闘鶏はどこかで密接につながっているようだ。闘鶏を軸に世界地図を描いてみたら面白いかもしれない。例えば目取真俊の「軍鶏(タウチー)」(一九九八年、『魂込め』所収)や水原涼『蹴爪(ボラン)』(二〇一八年)などを挙げることができる。前者は沖縄を、後者はフィリピンを舞台とする。あるいは、ちょうど一年前に本連載(三四九六号)で紹介したネエミー・ピエール=ダオメイ(一九八六‐)の小説『決闘』(二〇二一年)を加えても良いだろう。こちらの舞台はハイチである。
 ただ、エリ=ディ=コザックの映画で強調されるのは、力と力のぶつかり合う場としての闘鶏ではない。その証拠に、映画のラストでヴィクトリーヌは闘鶏場に乗り込み、賞品が自分自身であることを演説する。それを聞いたシャバンは決着がつく前にリングにタオルを投げ込んでしまうのである。どうやらシャバンは、ヴィクトリーヌに特別な感情を抱いているらしい。予想外の演説にシャバンは勝って力づくで彼女をものにするより、負けることを選んだのだ。ヴィクトリーヌもヴィクトリーヌで、演説をしたのは単に父を勝たせるためだったのか、と問われると、実はそうとも言えず……。
 エリ=ディ=コザックの最新作に読み取れるのは、力と力の応酬ではなく、角逐を逸らす知恵である。ヴィクトリーヌは自らが賭けられた闘鶏を演説によって盛り立てることで、くだらない男同士の闘争を挫折させるのである。おそらく同様の知恵が、カリブ海の創造力の根幹にはある。そのことを教えてくれたのは、この春出版されたあるアンソロジーだった。
 クレオール文学の旗印のもと、九〇年代にカリブ海文学が世界的な注目を集めた際、『クレオール礼賛』(一九八九年、邦訳九七年)と共に多くの読者を得た本の一つとして、言語学者ラルフ・ルートヴィッヒが編纂した『「夜の言葉」を書く』(一九九四年)と題されたアンソロジーがある。夜の言葉、それは奴隷たちが唯一労働から解放された時間帯である夜、語り部の周りに人々が集まって紡ぎ出された言葉。明晰さやシステム的な思考に対抗する不透明性の言葉である。
 今年の春、ラルフ・ルートヴィッヒによって新たなアンソロジーが編まれた。『彷徨と笑い』(二〇二二年)と題された一冊である。「彷徨と笑い」をテーマにした新作テクストやエッセイが収められている。前作にも参加していたラファエル・コンフィアン(一九五一‐)、ジゼル・ピノー(一九五六‐)、そしてエクトル・プーレ(一九三八‐)の三名のほか、先ほど名前が出たピエール=ダオメイや、去年一一月にゴンクール賞最終候補に名前のあがったルイ=フィリップ・ダランベール(一九六二‐、三五一九号の本連載参照)など総勢十五名の作家が集った。
 わけても注目すべきは、カリブ海文学の新世代の登場である。ハイチの作家メリッサ・ベラリュス(一九九五‐)や、同じくハイチの詩人ジャン・ダメリック(一九九四‐)の作品は、文字通り「カリブ海文学の新たな息吹」(本書の副題)を伝えてくれる。
 メリッサ・ベラリュスはハイチ国立美術学校で学んだ後、教師をしながら、詩人、作家、画家として活躍している。ベラリュスの執筆を特徴づけるのは、クレオール語へのこだわりである。『彷徨と笑い』にベラリュスは短編小説と評論をそれぞれ一作ずつ寄せているが、それらはフランス語とクレオール語の二言語で収録されている。
 短編小説「パピ・ジョーの家」は、ニューヨークに移民労働者として渡ったパピ・ジョーの人生を、本人の語りも交えつつ、ジョーの子どもが綴っていく作品である。大きな事件や悲惨な生活が描かれるわけではなく、何気ないパピ・ジョーの驚きや悲しみが短い言葉で描かれる。この短編の最後の言葉はこうだ。「滑稽さが人を殺したことは一度もない。」
 彷徨と笑い。そこには権力者の語彙を無効化する力が秘められている。編者のルートヴィッヒが言うように、「彷徨」を意味するクレオール語「ヴァカボン」には「ろくでなし」という意味がある。ここに、「アナーキー」な思想に接続しうる何かがあるのではないだろうか。
 ペストにもコレラにも否を言うこと。それも笑いを込めて否を言い、ヴァカボンであることを積極的に肯定すること。それに対してアナーキーだと言う人間がいるなら、それならそれでいい。「滑稽さが人を殺したことは一度もない」のだから。
(フランス語圏文学)







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