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評者◆凪一木
その141 どこか寒い冬
No.3542 ・ 2022年05月07日




■春は別れの季節と言う。実は、ビル管理の世界の人の出入りが多いのは冬だ。ボーナスを貰って辞めるとか、そういう実利的な話ではない。爺ばかりで、寒さで体調を急に悪化させる人間が多いからだ。気力までがしぼむ。だから辞める。春まで持たない。
 警備さんの中で、珍しくインテリ臭を感じさせる人がいた。褒めているわけではない。だが、多少の尊敬もある。世の中のあれやこれやについて、しっかりとした意見を持ち、仕事に対する姿勢もまたきっちりしていた。霧の中に佇む、深く根を張り、細くて倒れない白樺のような男だった。だが、彼は仕事が出来なかった。いや出来るのであろうけれども、どうにも警備には「合わない」。警備に関しては、「お荷物」となってしまう。レベルの高い人物の方が、逆に異端視される。
 或るとき白樺さんは、同僚の皆(設備も含め)に、「パティシエのりんごスティック」(青森ラグノオささき)という土産品を買ってきた。その品によって、その人間の風情やスタイルは結構わかる。ちょっと高級なのだ。私の妻は、三越百貨店の社員で「物産展の女王」と呼ばれていたから、そして私も、北海道スイーツや土産品について、著書にも書いているので、それらについて詳しいことは詳しい。白樺さんのそれは、他の警備員の土産品に比べ、少しだけお洒落なのだ。
 正論を吐く白樺さんは、この現場においては、「使えない男」となっている。横で話を聞いていて、正論が負けている世界であり、事故や事件が起きない限り、この現場も、社会も、日本も変わらないのであろうかと絶望的な気分となる。
 白樺さんは、いつもこれらのやり取りの後、納得のいかない表情で、次の作業に取り掛かり、納得がいかない分だけ浮かない態度や動きを他の隊員に悟られて、さらなる嫌味を言われ、もっと理不尽な目に遭う。身体によるしごきを受ける。
 白樺さんは仕事を大雑把に扱うことができない。何しろ、かつては社長で、子どもの一人は、早稲田大政経から電通入社というエリートだ。こういう道筋を用意するには、単に遺伝子だけではなく、環境もある。そういう環境を用意できた白樺さんは、ここにいる還暦過ぎても独身或いはバツイチの警備連中とは、そもそも物が違う。なのに、その違う「物」たちから、仕事が出来ないと見られてしまうおかしなパラドックスがある。適材適所、メジャーリーグ二刀流の大谷翔平が相撲を取っても横綱には成れない。
 『東大卒貧困ワーカー』(中沢彰吾/新潮新書)という本がある。東京大学を卒業して毎日放送に入社し、アナウンサーとなったまさにエリートコースの人間が、その道から外れ還暦となった時にどうなるか、書かれている。中沢さんは、血液検査の数値はすべて
正常で、裸眼視力が一・二で、一〇〇メートルを一二秒台で走ることが出来るという、なおもスーパーエリート継続中と言える人間である。その彼が、就職活動でのある一日を、以下のように記している。
 〈コールセンターの電話オペレーターに応募すると、「あんた何に応募したか分かってる?」と門前払い。水道の水質検査のためのサンプリングでは、「接客で高齢者は相手に不快感を与えるから紹介できない」と断られる。(中略)宅配トラックの同乗者では、「年寄りは偉ぶって運転手とトラブルになる」から乗せない。〉
 公営屋内プールの監視員も断られる。「過去に子供連れの母親から、あんなくたびれた人で大丈夫かとクレームがあった」のが理由だが、クレームは一件のみである。
 日本の社会とは、コースを外れると、過去の履歴が全く生きない仕組みであり、それゆえに、努力や向上心が年を取るごとに馬鹿らしくなる仕事の構造なのである。働き甲斐や社会貢献は、ビジネススキルのある者ほど、喪失していく。白樺さんの「最後の務め」の五年間ほどを現場で見てきて、警備会社は宝を捨てる業務なのかと呆れかえることの連続であった。それは設備も変わらない。
 白樺さんは、青森に帰るという。実家が青森なのかと言うと、生粋の清水っ子(静岡県)である。中学一年の時に、のち自殺する円谷幸吉が清水東高校にやってきた。陸上部員だった白樺さんも呼ばれ、一緒に着替えて、グラウンドを走った。草薙球場で、王貞治と長嶋茂雄を間近で見た。生涯で有名人を見たのは、その二回だけという。進んだのは清水商業だ。油絵が得意で、ピカソと言われた。描いた絵の全てが誰かに持って行かれるほどの人気だった。大学進学で上京し、デザインの会社を興し成功する。のち会社を畳む。上の息子が中二、下の息子が小学六年時に、奥さんが青森の実家の姉の経営するアパートに、三人で暮らし始める。田舎での生活の方が、子どものためになるという考えだ。白樺さんは、一人、船橋の持ち家で単身赴任となっての警備員生活であった。長男は県立弘前高校から早大、電通と進み、弟の方も有名大卒業。
 今度、絵を見せてくれると言った時の、非常に恥ずかしがった表情が印象的で、そんなに照れることなのか、と不思議だった。いや、この最も似つかわしくない現場で、最も悲哀を味わっている場所での会話に登場すべき話ではなかったのかもしれない。
 映画監督も、作家も、今途切れている状態は、現役監督、現役作家とは言えない。現役ではない。いかに元気でも、「元気な人」である。では職業の決め手は、商業行為であり、商品として売れるか、収入源となっているかどうかなのか。一枚も売れることのなかった絵を描き続けた人間は、画家ではないのか。「描いてくれ」と、たとえ下らぬ依頼であれ、お金を媒介として描いた人間は、画家である。絵を描く以外の仕事に費やす時間が大半を占めていて、日曜大工のように描く絵が、一応は売れるとする。生活できるほどの金額ではないとしても、一応は売れる。お金を取っているのだから、趣味としての日曜画家とは違う。そいつの絵は、果たして、どの程度の作品なのか。私は「描いてくれ」と頼んだ。
 映画『ゴンドラ』で男は、ネグレクト放置された子を連れ青森へと流離う。「死んじゃうと、生きてたことって、どこに行っちゃうのかなあ」。訊ねられた男は答える。「俺の田舎では、死んだら海の波になるって。生きてる者を守ってくれてるって」。
 白樺さんは、何十年かぶりに、青森で、絵筆を執ってみようと思うと言う。そこにこそ、彼がいる。「使えない男」の本領発揮する時だ。
 彼の絵を、私は未だ、夢想こそすれ、見ていない。
(建築物管理)







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