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評者◆石黒健治
ルビコンを渡る豊里友行④――沖縄写真特急便『OKINAWA』
豊里友行の沖縄写真特急便『OKINAWA』
No.3539 ・ 2022年04月16日




■1995年9月4日、12歳の女子小学生が沖縄駐留軍のアメリカ兵3名に拉致され、集団レイプされた。
 実行犯3人は基地内に逃げ、日米地位協定によって、日本側への引き渡しを拒否された。さらに被疑者と家族への人種差別的な発言があった。
 沖縄米兵少女暴行事件である。
 これ以前にも同様な事件はいくつもあって、屈辱の思いは沖縄全土に累積していた。
 少女は〈沖縄の娘〉だ。
 怒りで島が揺れた。10月21日、抗議の県民総決起大会に約8万9千人が参加した。
 この年豊里友行は19歳、宮沢賢治の「春と修羅」の一節、「おれはひとりの修羅なのだ」に陶酔して文学の世界にあこがれる俳人高校生だった。
 トンボ舞う
  ちぎり絵の中の通学路 
 この情緒豊かな句は、俳句コンクール「ろうたす賞」の秀逸賞を受賞。その賞金1万円に貯めていた小銭を足してオリンパスOM10の中古カメラを購入、豊里は俳句と写真を両手にした。
 が、得意の季節はすぐに挫折の時期を迎えてしまう。大学受験に失敗し、鬱々と図書館に通う浪人生活を送ることになった。
 その夏の終わりに、残忍冷酷な事件は起った。
 レイプの後、テープで口を塞がれて捨て去られた少女の前で、きれいな思い出の童画のような「ちぎり絵」は、ずたずたに千切られた。
 「……少女暴行事件によって俳人としての言葉への絶望。感情の舵取りがきかずに荒波の海に私は放りだされる。少女は、私みたいな犠牲者が出ないようにと訴えた。言葉にならない私の一滴の涙はカタルシス。」(写真集『オキナワンブルー――抗う海と集魂の唄』〔2015年、未來社〕の〈はしがき〉より)
 豊里にとって少女は「沖縄の妹」であった。「うむいぬ花」と題された〈はしがき〉は続く。「民衆の渦は荒波のように猛る。(中略)だが、その猛る海は、集会を終えるとわずかな水滴のように大地に吸い込まれていく。まるで猛る民衆蜂起でさえ私が流した涙の一滴のカタルシスのようだ。少女を生け贄にしてもなお立ち止まることのない日本や沖縄の社会に絶句する。」
 このあと豊里は、「沖縄の現実へのやむを得ない妥協の歴史」を嘆き、自分の「これまで温めてきた譲れない大切な夢をどうする?」と途方に暮れる。
 しかし、運命の銅鑼は2度鳴るというべきか、茫然自失の浪人学生が絶望しながら通う図書館で、土門拳全集第10巻『ヒロシマ』に出会うのだ。
 「僕は見ることに耐えきれず本を閉じて逃げ出した。好きになり始めていた写真とは異質なこの写真家の情熱に圧倒された。眠っている魂が呼び起こされる。」(沖縄タイムス「写真との出会い」)
 翌97年春、豊里は日本写真芸術専門学校へ入る。   

 「豊里友行という写真家の育ての親は、僕の両親や写真学校はもちろん、学費や生活費になる給料を払ってくれた新聞販売所である」と、豊里は折に触れて幾度も書く。
 「小学生の頃は、琉球新報の夕刊配達をして初めてCDダブルラジカセを初任給で購入した。中学生の頃は、沖縄タイムスの朝刊配達をしていた。」
 東京では、恵比寿の販売店に住み込んだ。が、奨学金制度は甘くない。
 「朝早くからの配達の後は、睡魔が僕らを襲う。仕事の業務が厳しすぎて挫折し、自分の夢を見失い断念する人もいた。」
 「毎週毎週各講師から出される課題の撮影、自分の選択したゼミの作品作り、暗室のプリント作業のため徹夜をしてそのまま朝刊の配達をする事も多多あった。見上げれば、東京の空にも星空が広がっていた。
 夢醒めるまで
  目眩みの釘の天辺
 あいにぃーきてぇあいにぃちゅーこれくーらいのわがままはっ!
 小学校新入生の時、眼わるーで、めがねが買えなかったので教室では一番前の席をお願いした。生きるために戦わなければならない状況ははじめからそこらじゅうにあった。」
* 
 少女暴行事件をきっかけに起こった普天間基地移設問題が、紆余曲折はあったが、辺野古に決まるのは10年を経た05年だ。
 「04年11月頃から僕は、名護市辺野古のボーリング調査阻止行動を取材する。防衛施設局側の作業員と調査の阻止行動を行う反対派住民との間に緊張が走っていていた。」
 先ず、なによりも「機動隊や警察官たちが、住民たちを力で、ごぼう抜きして行くのを私は、許せない」のだが、
 「正直、大山のゲート前の機動隊の護送車が並ぶ坂道を誰一人としてこじ開けようとする人がいないことに私は、失望とほっとする自分を隠しきれない。あれだけの人数が集まった大山において沖縄の基地の現状が、どう変わるのか。ちりちり私の心を焦がしていく。」
 枯れ木の私
  焼いて夢の火種 
 豊里は憑かれたように、〈心を焦がし〉に辺野古へ行く。
 「いま沖縄の写真家で最も現場へ足を運び続けているのは誰かと聞かれれば迷うことなく豊里友行の名を挙げる」と松本太郎氏が書かれたことはすでに紹介した。

 豊里は、沖縄の写真集を出すまでに10年を要した。2010年、撮りためていた沖縄を吐き出すように、一気に『沖縄1999‐2010――戦世・普天間・辺野古』、14年『辺野古』(いずれも沖縄書房)を出す。そして、『オキナワンブルー――抗う海と集魂の唄』は、相模原新人写真賞を得た。
 受賞は喜びだったが、豊里は一連の仕事に納得していなかったように見える。2017年、情緒的なシーンが混じる『南風の根――沖縄1995‐2017』や18年の『おきなわ辺野古――怒り・抵抗・希望』(いずれも沖縄書房)には、不条理への抵抗と、状況の詠嘆的な表現とが入り交じっているように筆者には見える。
 「機動隊や警察官の存在を視ていたら私は、従来の団体の代表の言葉が空々しく聞こえてくる。」
 「オスプレイは沖縄県民の意識を踏みにじるように強行され、私たちの日常を飛び交う。」
 だが、日常を襲って飛び交うのはオスプレイばかりではない。
 「誰もが口をそろえて写真集は、売れないと言う。もちろん写真集販売は、たいへんな難儀だ。だけど私は、やりがいを見いだした。」「私の写真事務所で売れたCD1枚分の売り上げを持って行きながらオーシャンにクラブサンドとコーラ。今度のグラビアの原稿料などで出版費用を換算している。
 ウムサっさっさっさ~
 ウムサっさっさっさ~」 
 などとブログに書きながら豊里はしたたかだ。遺骨収集の國吉勇さんに同行して、『遺骨がよんでいる』(2018年)を出版したと思えば、一転カメラを翻して市井の暮らしに取材の目を向ける。19年の『市場んちゅ』(いずれも沖縄書房)には、うちなーんちゅの活力、生きる覚悟のようなものが写っている。この2作は、沖縄へのうむいと日常が豊里友行の中でせめぎ合った結果のように見える。
 「カメラではなく眼で撮れ、かな。残念ながら私は、眼わるーなので、細部は見えてませんが、熱量は感じている。
 光と熱。希望とか。情熱とか、ね。あとはカメラに愛を込めて、そっとシャッター・ボタンを押す。
 状況、環境、関係性、でんでん。
 写真によって時の果実をもぐ。
 批評性とは、意外とカメラマンには、毒だ。もいだ果実が毒リンゴだったりして。」

 21年6月、豊里友行の沖縄写真特急便の第2集『OKINAWA』が刊行された。
 日米の国旗を掲げた車のフロントの表紙を開けると、いきなり表紙裏の第1ページで、黒人青年が、フレンドリーな笑顔でお出迎えだ。隣ページは、星条旗を背にやはり黒人の2人が親しげに笑いを浮かべている。この見開きのアメリカ軍の駐留兵に違いない3人の青年が、なぜか印象的なのは、読者が95年のあの事件を知っているからだろうか。
 「正直、歌って踊る楽しいひと時だった。
 辺野古のキャンプ・シュワブのゲート前で毎週土曜日にピース・キャンドルをする人々。
 米兵たちだって彼らが、何をしているのか無関心であろうか。
 基地NO!
 軍隊NO!
 そこに人間がいる。無視することだってできないくらい米兵たちは、自らの存在を知っている。」
 写真集『OKINAWA』は、最終ページまでアメリカ兵とそのファミリーのナチュラルな日常の描写が続く。その徹底ぶりに驚かされる。
 「写真は楽しい。
 私の生まれ島・沖縄には、撮りたい衝動がこんこんと湧く。この島は、宝島だ。」 
 これは、9月17日、次回第3集『北谷のハロウイン』の編集が終わった時期の投稿である。
(つづく)
(写真家)







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