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評者◆稲賀繁美
「資本主義一神教」の無限軌道を、「外部」から解体する「永続革命」はいかに可能か?――白井聡著『未完のレーニン――〈力〉の思想を読む』(講談社学術文庫)再読
No.3539 ・ 2022年04月16日




■白井聡氏の『未完のレーニン』(2007)が講談社学術文庫に収められた。それを機会に、いくつか備忘録を記して置きたい。本書の明晰とは裏腹の、過度に圧縮した難文、ほぼ意味不明の悪文となることを、事前にお断りする。
 ロシア革命とは、政治権力の移行、「被抑圧者が抑圧者から権力を奪取すること」、ではない。もしそれが単なる権力の暴力的な簒奪にすぎないならば、それはレーニンの『国家と革命』の誤読である。これが白井の基本的な提案だろう。
 ウィリアム・ブレイクにはThe iron hand crush\'d the Tyrant\'s head / And became a Tyrant in his steadという詩句が知られる(The Grey Monk, stanze 9)。巧妙な脚韻が意味の皮肉をいや増しに増幅させているが、「暴君を鉄腕が砕いて、自らが暴君に成り代わる」、というわけで、うっかりするとプロレタリアート革命も、同じ轍を踏むこととなりかねまい。『平家物語』冒頭を捩(もじ)るなら「勝者必敗の理を現わす」といってもよい。
 レーニンがこれらの詩句に通じていたか否か、詳らかにしないが、この稀代の理論=実践家が、革命に必然のこうしたアポリアに妄かったはずはない。この桎梏を逃れるには、「万国のプロレタリアートは団結せよ」を、当為ではなく必然としなければならない。だがこの条件はいかにして満たすことができるのか。
 ここで無産者階級とは何か、を問う必要が生まれる。被抑圧者である限り、プロレタリアートたりうる可能性は、普遍的に開かれている。だが「階級意識」に目覚めない限り、政治的行為者としてのプロレタリアートたりうることはできまい。この意識の覚醒に至らない主体subject=隷属者は、あるべき無産者階級からは、自動的に脱落する。
 開放への可能性において平等であるはずの人間たちは、実際にその本来達成さ
れるべき開放を実現できるか否かの能力においては、およそ不平等このうえない。ここに必然的に、秩序回復論者や無政府主義者との路線分岐が生ずる。
 同様の論理は、ナチズムとの親和性も云々されたエルンスト・ユンガーが明晰に語ったところであり、また他ならぬマルティン・ハイデガーが『存在と時間』において「決断」に込めた訓戒でもあったはずだ(ピエール・ブルデュー『話すということ』拙訳、藤原書店、224頁)。そしてこの決断の瞬時においてのみ、プロレタリアートの連帯は「当為」ではなく「現実」となり、「革命」は祝祭の相のもとに開花する。
 だが「現実界」はそれとしては把握しがたい。「現実」は、あらまほしき夢想たる「想像界」にも、言語秩序の支配する「象徴界」にも回収不能だからだ。さらにこの「革命」状況で発生する事態は、ゼーレン・キルケゴールの言う意味での「未知への跳躍」とも踵を接する。周知のとおり、逼迫する政治情勢の下、『国家と革命』は未完のまま、1917年9月段階で途中放棄される。白井は、ここに現実界の象徴界への浸潤を捉え、一種必然の予定調和を確認する。だが、評者としてはこの結末に、想像界の過剰な楽天的侵入、現実に対する「あらかじめの剽窃」を見ぬわけにはゆかぬ。
 ここには時間軸における詭計が潜む。「未来の先取り」(文庫版:215頁)と白井が呼ぶ計略だが、その機構はレーニン(1870‐1924)と同時代を経験した精神分析の祖、ジークムント・フロイト(1854‐1939)との相互照射から摘出できよう。未来の先行奪取は、トラウマの発現と同様に、時間軸を遡及する。外傷は、あくまで事後の言語化を過去に投射することによって、それとして認知される。原初において抹殺された傷は、事後の修復によって、はじめてその痕跡を顕にする。太古の記憶痕跡は、個体発生が反復する系統発生のうちに、変更と圧縮の印とともに露呈する。
 ほかならぬ美術史家のアビ・ヴァールブルク(1866‐1929)がルネサンスに見た、古代の「死後の生」Nachlebenとしての情念形象Pathosformel。それは、創造主からの原初の啓示を喪失した流狼の民、ユダヤ教徒の信仰の原点をなす。ヴァルター・ベンヤミンは、これを裏読みして、歴史哲学を構想した。すなわち、継承すべき過去は、断絶の傷口を晒す不連続線の裡に感知するほかない、と。それはまたジャック・デリダがバベルの塔の幾多の残骸群の最中に残る空隙に幻視した「不在」、「どこにもない」ユートピアの姿でもあった。
 レーニンにおいて革命とは、「未来の先取り」すなわち外傷発現の機構を未来に滑らせ、「未知への跳躍」という時間軸のまたぎ越しに託して、「必要条件」を事前に「十分条件」へと巧みに「転化」する魔術であり、そこにはマウリツ・エッシャーの《描く手》(1948:文庫版141頁挿絵)の巧緻、すなわち、ふたつの手が互いに相互に描くことで成立する円環の循環論法が、chronopolitics――時間軸上の政治学として、戦略的に仕込まれていた。
 中国の「文化大革命」を経ては、もはやrevolution culturelleは唱え得ず、revolution symboliqueを提唱したのがピエール・ブルデューだったが、彼が説いた「象徴革命」即ち「藝術の自律」は、皮肉にも資本主義の無限軌道=経済一神教の前に敗退を余儀なくされた。だが「資本主義の外部」という「非‐場所」の確保は、本書初版刊行以来15年を経て、「永続革命」の理路にとって、さらに一層喫緊の課題となった。未来を現在に重ね合わせに侵入させるレーニンの「狂気」は、なお「未完」である。もとよりそれは完了を許さない、永続する過程passage continuなのだから。







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