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評者◆凪一木
その137 最後のページ、時間泥棒。
No.3538 ・ 2022年04月09日




■会社の上層部と、さらに派遣先のゼネコンと喧嘩の結果、強力な力関係が働き、同僚たちも、我が身可愛さの保身のため、世の流れに逆らえず、私に冷たい。
 一人だけ現場で「浮く」ような仕組みが出来上がり、ミスを誘い、やる気を失くさせ、厄介者扱いが定着していく。この現場自体が、私にとっては、行く前にして「追い出し部屋」化している。はっきり言って、今、会社にいて、何一つ全く面白くない上に、不愉快で、全てにうんざりする。ならばなぜいるのか。
 それは、最後のページを読むためだ。ラストシーンを観納めし、観届けるためだ。本の最後まで読まないから、サラリーマンは作品ができないのだ。
 たとえ仕事ができても、サラリーマンの中で「有能」と言われる「時間泥棒」が、どこか嫌なのは、多くの場合、「人間性が最悪」だけの問題ではなく、彼らは、たとえばビル管なら「設備」という鋳型にぴったりと嵌まって、そのことで生き生きとしているからだ。いわゆる「感動」させない仕事を嬉々としてやっているからだ。それは、AIやコンピュータができる程度の仕事であって、そんなものに人は驚嘆したり感動したりはしない。
 それは、目の前の親分や社長、ボス、天皇を喜ばせるだけの仕事であって、その先の「大向こう」を感動させることがない。その点で、芸術家やスポーツ選手、運動家などとは違う。画家や俳優などに鋳型はない。定義自体がつねに変わり続ける自由さがある。
 だが、「設備」であれ、「事務」であれ、「営業」であれ、それらの鋳型は、究極、軍隊や学校の体育に向かっていくような、親分や統治者に都合の良い、奴隷の表彰制度である。彼らは、他人の作品作りの葦でしかなく、自らの作品を作ることのできない人間たちだ。自分を表現しない、出さない、抑えるそのことによって、誉められ、表彰されるのである。
 「会社に貢献している」とか、「使われるタイプ」などと煽てられて、自らの作品を遺さずに、部品の一部として死んでいく。その仲間入りをする、元カメラマンのフェラーリが切ない。
 鋳型に嵌まるということは、たとえば、かつて存在した大日本帝国という物語に乗っかった者共を容認し、追随する、いわゆるネトウヨなどを、後押しする勢力として十二分に機能している。だから、選挙では功績もない与党の大勝という結果になるし、その「仕事」のできる人たち、もっと言うとそうさせている「自分の仕事ができない人たち」が嫌いなのである。
 私を追い出すという、その仕事は、いったい誰の仕事なのか。自分の歌を歌わない者のそれは、所詮カラオケの疑似ステージだ。友だちのいない、ただの同僚しかできない人生と似ている。結果として、サラリーマンの世界は、感動的な瞬間がほとんどない。人間がナマでぶつかり合わない。
 会社を辞めてもらえば成功。しかし本気でクビにはできない。己を賭けていないからだ。人を幸せにしようなどと思う人間なら、派遣させる会社はやらない。人を利用しようと考えている人だけがやるわけであり、そんな奴の本気度など、高が知れている。ある時代から、人を将棋の駒ぐらいにしか思わずに、活用することばかり考えて、人の時間をかき集めて、お金に変えることが、尊敬されたりするが、彼らは何も産み出さず、建設的でも生産的でもない。
 私は、ささやかでも完結する人生を生きたいのだ。
 プロ野球日本ハムファイターズのビッグボスとなった新庄剛志が、時間節約のために、トレーニング後のマッサージを二人つけているという。一人で二時間一万円のところを二人に五〇〇〇円ずつで一時間で終わる。同じ場所をマッサージするわけではないから、トータルで同じ効果だ。いや、身体の別の部位をそれぞれ同時にマッサージするから、さらに効果がある場合がある。確かにそうかなと思った。
 ファスト動画というものがある。一二〇分前後の映画を一〇分に縮めた、結末入りの長い粗筋のようなものだ。
 書くということは、私にとっては人を追悼することだと思っている。作品であり、仕事である。それは、私にとっての仕事でなく、人間にとっての仕事である。これを疎かにして、他に時間を使用して行う仕事など、ミヒャエル・エンデの『モモ』のいう時間泥棒に人生を奪われている奴隷の所業に過ぎない。
 なぜ、一番必要なそれを抜きにして、他のどうでもいい「仕事」で、人生の大切な時間を埋めてしまうのか。
 二時間の映画を、最初の三〇分だけ観ても、もちろん観たことにはならない。一〇〇本の映画をどれも最初の三〇分しか観ていないとしたら、はっきり言えば、一本も観たことにはならない。二時間の映画を五本観た人がいれば、その人間は、しっかりと味わっていることになる。少なくとも「観た」わけだ。
 だが、人生の時間としては、最初の三〇分を一〇〇本観た人は五〇時間を費やしている。一方の五本の映画を観た人は、一〇時間だけである。五〇時間費やしても、ろくに映画を観たことにはならず、一〇時間でも、しっかりと味わい、人生を生きている。それは、読書にしても同じだ。途中までしか読まない一〇〇冊と、一〇冊を最後まで読んだ人とでは、生き方が違う。
 世の中の人をみて、同じ時間を生きているのに、何故あれほどの差が付くのかを考えると、その使い方、過ごし方、読み方の違いによるとも言える。転職を繰り返すのも、一芸に秀でることはない。せめて、その世界で、何某かを掴みたい。最後のページまでを読みたい。
 この「途中まで」を繰り返す人生は、サラリーマンにのみ起こることなのか。違う。作家であれ、ちょっとした売れ線に乗って、やりたくもない企画を続ける地獄も似たようなものだ。価値のない時間を積み重ねることになる。自分のための人生ではなく、お金のための奴隷となる。今生きる時間を、自分用にどう作り替えるか。
 社長であろうと国家首席であろうと、思い通りになるとは限らない。雁字搦めの末端の人間でも、自由に生きる場合がある。それは、どんな下らない本であれ映画であれ、その最後まで観ることである。読むことである。
 この下請けパワハラ物語を、派遣差別物語を、ビル管でたらめ物語を、見届けることである。
 ただそのために、今日も最後の地獄を味わいに、朝六時に家を出る。
 自分の時間を獲得する最後のページのために。
(建築物管理)







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