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評者◆凪一木
その131 マタギの男、菊一
No.3532 ・ 2022年02月26日




■入社してすぐの頃である。当時まだ、「嘘つきキツネ」だという実態を知らなかった、K部長に対して、私は、こう言った。
 「給与明細に有給残日数という欄がありますよね。空欄なのですが、私の場合は、0と記入されるべきじゃないでしょうか」
 「ああ、あれはまだ整備されていなくて、記入されていないのですよ。経理に電話すればわかります」
 このときから、五年半以上経っているが、もう何十回と交渉して、その都度、経理も含めて、「分かった」「次回から入れる」「入れることは簡単なことだ」「今月から記入する」。その繰り返しで未だ、日数が入ったためしがない。
 それは良いとして、そのK部長と私のやりとりを、横で見ていた男がいる。これこそがマタギこと菊一(仮名)だ。
 やり取りを見ている間中、「そういう話は辞めろ」とでも言いたげな、妙な態度で、変に歪めた顔をしていた。K部長が本社に帰ると、マタギはいきなり、こう怒鳴ってきた。
 「おんめえ、すったらアンベエ(危ない)こと言ってんと、クビになっどお~」
 要は、当たり前の疑問を尋ねる行為さえ、上の者に対する歯向かった行動であり、たかが有給残日数の未記入についての質問が、このマタギにとっては、ふとどきな許されない危険行為に匹敵するというわけだ。
 ところが、この男こそ、こちらの常識からすると、いや、多くの常識的な人間からすると、非常識極まりない行動の最右翼人物である。
 まずは、この直後のことである。二階の会議室で、時間割によって、少しの(せいぜい一~二分間)時間があった。一五時で交代のところ、前の時間がギリギリ、私の時計では一四時五三分だった。まだマイクをもって、着席中の三〇人くらいの聴衆に向かって話していた。この司会者から、無理矢理「もう時間なんで」とマイクを取り上げたのだ。
 もちろんクレームが来る。その電話で、上司であるこのマタギの代わりに、平謝りに謝ったのは私だ。その横で、例によって歪んだ変な顔で、身振り手振りをしている。やっと苦情の電話を治めると、「おんめえ、謝る必要なんてねんど~」。
 「だったら、菊一さんが、電話を替わってくれたら良かったじゃないですか」「すったらこと、できねえ。人の取った電話に出るなんてことは、おんれはしねえべ」
 実際は、ことさら話をするのが苦手なのである。コミュニケーションができない男で、電話を含めて、説明を要するような話や、事情をまとめることや配慮が、頭の中も、身体行動としても備わっていない。
 夜中に、やる必要のない作業で、樵さんが駆り出された。この手のマタギの残業代稼ぎのために、決まって誘われるのが、私と樵さんであった。その日は樵さんで、床の位置から、床下に向かって、三〇キロもある機械を運ぶのに、ロクな指示も与えないで、上から落としてきた。足に当たって怪我をする。
 「おんめえ、ちゃんと見てねえから、そうなるんだべ」
 私も似たようなことをされた。そのときは、夜中でも地下でもなく、昼の七階での作業で、ビルの社員さんが複数見ている中で、その「恫喝」が行われた。
 「おんめえ、抑えとけって言ってたべえ」。女性社員たちが、少しの歓声を挙げると、我に返って、赤い顔をしていたマタギ。立場が上と感じる者に対しては極力弱い。
 ほどなくして、事件が起き、マタギは現場を飛ばされた。いずれ書くつもりだが、清掃のチーフに対して、言葉に詰まって「クソばんばあ」と叫び、去っていった。会話の出来ない男であった。
 さて、二〇二一年一〇月七日二二時四一分、千葉県北西部を震源とする深さ八〇キロの、関東で最大震度五強の地震が起きた。
 私の同僚も、ビル管学校の仲間も、多数、当日に宿直勤務の者がおり、当たりか外れかはともかく、各ビルで、不具合が起きた。私のビルでは、防火戸の開閉により、天井の「とある装置」が壊れ、また壁にヒビが入ったりしたが、軽度と言えば言える。
 つい先日(平常時)の九月に、清掃のチーフと、社員の計二人がエレベーターに閉じ込められる事故が起きたばかりで、その直後の地震であったゆえ、その心配があった。退社時刻を過ぎ、二三時近い時間と遅かったので、社員はいたが、エレベーターには乗っていなかった。
 この地震で首都圏でのエレベーター停止による閉じ込め事故は二八件。NHKニュースでは、「国土交通省によると、首都圏で七万五七三八台のエレベーターが停止した」と報道。この国土交通省も実は、私のいるT工業が、設備管理の下請けとして入っている。そして、別のある、霞が関の大手省庁である。
 よりによって、ここに、私と同僚であった、というよりも責任者であったが、不祥事により飛ばされたマタギこと菊一が、配属されていた。そして運悪く、その日は、マタギが宿直であった。挨拶もロクにできない男であることは既に書いた。しかし、いっぱしのことは言う。
 菊一を、熊の狩猟などを生業とするマタギと呼ぶのは、マタギで有名な阿仁町の出身というのもあるが、風体も、しゃべり方も、妙な威圧感があり、マタギの人たちについての知識はないが、イメージとしてはこうではないか、と菊一に代表させて皆、そう呼んでいる。
 マタギは、私や樵さんといった接しやすい相手を選んでは乱暴に扱い、深夜作業を手伝わせるが、皆興味がなく、その無駄な作業をだんだんと断るようになり、孤立していく。ホテルに飛ばされ、そしてまた飛ばされ、いよいよ官庁勤務となっていた。
 なにしろ、交代の時間だと言って、二階会議室で話し中の司会者から、マイクを奪い取った男であり、何をやらかすか分からない。ネジがずれている。
 私は、『ビルメンテナンススタッフになるには』(ぺりかん社)という本を書いたとき、現場のマタギ宛にも送った。マタギは受け取って、怪訝そうな顔をしていたという。しかし、その後、私に対して、「ありがとう」はもちろん、その話題には一言も触れず、夜中に、こんな独り言を聞かせてきた。
 「物書きってのは、あんれは能書きばかりでダメだっぺ。理屈こねるだけで、あれはダメだ」
 官庁でも、当たり前の対応ができない。秋田の土木建築業のそのままを霞が関に持ち込んでいる。せめて、会社員としての対応は出来るかと思っていたが、そうではなかった。自分のことのように田中角栄の自慢話を何回も聞かされた。学歴と地方(田舎者)、そして方言のコンプレックスがあった。
 そして事件は起きたのである。(建築物管理)







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