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評者◆稲賀繁美
「日光東照宮と桂離宮」再考――審美的対比の背後に潜む血脈の確執
No.3532 ・ 2022年02月26日
■徳川家康を「権現」すなわちavatarとして日光東照宮に祭り上げたのは、万願寺住職の天海。その裏には吉田神道との熾烈といってよい主導権争いがあった。1616年、駿府での家康の死から、翌年の日光での埋葬までには、二度の埋葬と、二度の神格化の儀礼が介在している。
その日光東照宮だが、「日光」にまつわる薬師如来を祀るには灯籠が用いられる。天海の没後、万願寺は輪王寺と改名されるが、そこには出島経由で奉納された阿蘭陀起源のシャンデリアも数機、今に残る──。対外国際関係から日本美術史の読み替えを図っているタイモン・スクリーチさんの最新研究の一端である。 そもそも家康は対外貿易には熱心であり、イギリス国王ジェイムズ一世宛の親書が今に知られる。仲介に尽力したひとり、ウィリアム・アダムスについては、フレデリック・クレインスさんが、未公刊一次資料に立脚した、優れた評伝を上梓している(『ウィリアム・アダムス──家康に愛された男・三浦按針』ちくま新書、2021年刊)。 阿蘭陀舶来の照明器具は、使い方がわからなかったとみえて、やがて上下逆さまに据えられ、あるいは鎖国政策の進展とともに、欧州起源ではなく、朝鮮・琉球からの献上品と表記を偽って登記されてきた。しかしそれでも、これらの遺品の来歴からは、東照宮一帯の絢爛たる意匠にも、桃山時代末期の異国趣味、その仄かな痕跡を辿ることが許されはしまいか。 近代を迎えると、日光は、欧米より派遣された外交官やお雇い外国人教師たちの避暑地として再認識され る。早くはアーネスト・サトウ、エミール・ギメ、ジョン・ラファージやヘンリー・アダムズ、大正年間にはポール・クローデルほかの著名な滞在者が知られる。井戸桂子さんの写真満載の好著『碧い眼に映った日光――外国人の日光発見』(下野新聞社、2015:改訂版)がその実相を伝える。 ここで問題にしたいのが、ブルーノ・タウト夫妻。1933年にナチス政権下のドイツを逃れ、日本に亡命した建築家は、日光東照宮を「威圧的」かつ「珍奇な骨董」と酷評し、その「キッチュ」な意匠とは対極をなすものとして、伊勢神宮から桂離宮に至る系譜に軍配をあげる。『日本美の再発見』(1939)で、東照宮はikamoniにしてinchikiと軽蔑され、反対に桂離宮にModerne Qualitatに通ずる「現代的品質」が称賛される。 ここで、ふたつの疑問が頭を擡げる。まずタウトは、東照宮にひそかに温存されていた蘭癖を含む異国臭さを、敏感にも感じ取り、その「異臭」に嫌悪を抱いたのではないか? だがさらに重要なのは、桂離宮と東照宮との対比の背後に隠されていた、禁じられた相克だろう。 同時代の建築として両者が「同根の異空間」であり、両者の造営には密接な人間関係のあることは、宮元健次『桂離宮と日光東照宮』(学芸出版社、1997)に譲ろう。だがさらにそこには宮家と徳川家との血脈をめぐる騒擾が隠蔽されていたのではないか。 そもそも桂離宮造営の当事者といえば、智仁親王だが、その造営は元来、叔父にあたる後水尾上皇の御幸のための設えとして計画されたものであった。周知のとおり後陽成天皇は弟の智仁親王に譲位する意思を表明したが、これに反対したひとりが家康である。その息・秀忠の娘・和子(まさこ)を女御として入内させる議が慶長19(1614)年にもちあがる。だが大阪の陣ほかの事情が加わり、入内は元和6(1620)年まで遅延する。後水尾と秀忠との間の緊張関係は、熊倉功夫『後水尾天皇』(1982)も詳述するが、後水尾と和子のあいだに生まれた子女七名のうち、男児は二名のみ、そのいずれもが夭折している。 紫衣事件ほかの騒擾の末、後水尾は憤怒のうちに譲位する。「葦原やしげればしげれおのがまヽとても道ある世とは思わず」の和歌が、戦前期には頻繁に引き合いに出された。後継は、中宮和子の生んだ「一宮」、女帝・明正天皇である。その裏には、細川三斎文書にいう「おしころし、または流し」がある。和子以外の女官の孕んだ皇子は、事前に殺害あるいは流産を強いられた、との噂である。 桂離宮の簡素の美と、豪奢な権勢を誇る東照宮との対比には、皇位継承の血腥い確執が直に反映されていた。果たしてブルーノ・タウトは、こうした背景を伝聞していたのだろうか。 *Timon Screech, “Thoughts on the cult of Tokugawa Ieyasu as the Great Avatar,\"Kyoto lectures, EFEO, ISEAS, Nov. 29th, 2021での筆者の即興のコメントを再録。同氏には近著、Tokyo Before Tokyo, Reaktion Books, 2020, The Shogun\'s Silver Telescope,Oxford,2020も上梓されている。 |
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