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評者◆関大聡
ヴェルトフライハイトを知っていますか?――ナタリー・エニック、価値中立性のミリタント
No.3531 ・ 2022年02月19日




■新年早々の一月七日・八日、ソルボンヌ大学で開催されたシンポジウムが物議を醸した。「脱構築の後で:学問と文化を再構築する」と題された同集会は、ジェンダー、人種、植民地主義に関する理論を大学に蔓延するイデオロギーとして糾弾し、その知的テロリズムから学問の独立性を擁護する必要があると謳った。五〇を超す発表のすべてを確認したわけではないが、筆者の感想は「残念」の一語に尽きる。一人十五分程度の発表に多くを求めるのも筋が悪いが、片鱗でよいから刺激的な言論を期待したかった。内輪褒めやスローガンの言い合いに終始する、決起集会の様相ではなく。
 主催は「哲学コレージュ」、「共和国ライシテ委員会」、「デコロニアリズム監視委員会」の三団体で、これを「イスラム・左翼主義」批判でお馴染みの現・国民教育相ジャン=ミシェル・ブランケールが後援したためメディアの注目を集めた。集会から積極的な主張を取り出すのは難しいが、思想的には「共和国」、「ライシテ」、「普遍主義」の擁護、気分的にはフランスの自尊心回復を目指していると思われる。なお「監視委員会」の活動については、本連載(第十一回)の福島亮による批判的吟味も参照されたい。
 前々回(第十六回)の連載で私は、キャンセル・カルチャーに関する注目すべき論者として三人の名前を挙げた(ロール・ミュラ、ジゼル・サピロ、ナタリー・エニック)。今回扱うナタリー・エニックは「監視委員会」のメンバーであり、上記シンポジウムの学術委員でもある。つまりミュラやサピロと異なり、明確に批判者の立場から「ウォーキズム」や「キャンセル・カルチャー」を告発しているわけだ。彼女の立場の検討は、批判者たちが多少なりとも共有する価値観を示すことにも繋がるだろう。

 一九五五年生まれのナタリー・エニックは社会科学高等研究院で学び、ピエール・ブルデューのもとで博士論文を執筆した。芸術社会学を専門とし、主に現代アートの受容に関する研究で知られる。フランス国立科学研究センター(CNRS)の研究部長として地位を確立し、著作も四〇冊を超える。『ゴッホはなぜゴッホになったか』、『芸術家の誕生』、『物語のなかの女たち』の他、共著『だから母と娘はむずかしい』が日本語に翻訳されている。
 こうした専門的キャリアと彼女の政治的立場を結び付けることは可能だろうか? 答えはイエスでありノーだ。もちろん、政治的立場に関係なく学術書の意義を評価することはできる。だが、その学術的関心の核心をなす主張には、彼女を政治的選択に導いた動機のひとつが見出される。それは、学問(とりわけ社会学)は価値中立性を厳守すべし、という主張である。
 何を当たり前のことを、と言われるかもしれない。だが人文・社会科学における客観性・中立性の問題は、つねに複雑な論議の的である。まず研究対象との距離の置き方の問題がある。エニックが研究対象とするアートの世界を例にとると、そこには特殊な信念・価値体系が存在することが知られる。たとえば彼女が「ゴッホ効果」と呼ぶのは、芸術家の天才、孤独、狂気を世間の無理解と対照させ、一種の英雄、殉教者として聖別する現象である。芸術家の一大類型となったこのモデルの成立過程に興味をもつ研究者は、そこで共有される「芸術家とは世に理解されない天才である」という信念に距離を置き、中立の立場から、その価値づけの由来・機能を分析してゆく。だが、こうした中立的立場は、共通の信念・価値をもとに形成されたコミュニティの成員からすると、自分たちに冷や水を浴びせる余計者として映る。そのため、「どんな中立化もすでにそれ自体として立場選択である」と彼女ははっきり認める。しかし、そこから「だから中立的立場は存在しない」という結論は導かれない。彼女は断固として中立という「立場」を選択するのだ。
 『芸術が社会学にもたらすもの』(一九九八)では、この立場を「参加(アンガジェ)した中立性」と規定し、学者が社会的事象に対してとるべき態度にまで敷衍した。彼女によれば、諸価値に対して中立的であること、あるいは中立性を価値として奉ずることは、社会的事象への無関心、そこからの退却を意味するものではない。むしろ学者は中立的立場を選ぶことで、さまざまな価値観の違いで対立する人々の間に橋渡しを行ない、分断を越えたコンセンサスの形成に貢献することができる。それが学者の社会的役割だと彼女は言う。実際、『現代アート論争を決着させるために』(一九九九)などの著作には、現代アートの価値をめぐる争いを調停する意図が読みとれる。
 ところで、「諸価値に対して中立的であること」と「中立性を価値として奉ずること」の間には矛盾があると思われるかもしれない。エニックは、中立性という価値を、学者が遵守すべきメタ価値の地位にまで引き上げることでこの矛盾を回避する。だが、その代償は小さくない。中立性は、学者の不可侵的価値にまで仕立て上げられたため、その価値を裏切る学者に対し、彼女は中立的な立場を保つことができない。結果として彼女の著作には、コンセンサス形成への意欲もむなしく、学者や知識人への批判・攻撃の文言が散りばめられることになる。

 「参加した中立性」のモデルに彼女が対置するのは、無参加・無関心のモデルだけでなく、伝統的な「参加的知識人」または「批判的知識人」のモデルでもある。かつての指導教官だったブルデューやその学派に対する彼女の対立は、部分的にはそこから説明される。九〇年代以降、知識人として積極的に政治に介入するようになったブルデューと、その「批判社会学」に距離を置くエニックとの間柄については『なぜブルデューか』(二〇〇七)に詳しい。さらに『社会学者笑話集』(二〇〇九)や論文「批判社会学の悲惨」(二〇一七)などを通して、攻撃の度合いはさらに増すことになる。
 彼女の立場は、以前本連載でも扱ったディディエ・エリボンやジョフロワ・ド・ラガヌリーのような「ブルデュー左派」の立場と対照的だ。後者にとって、ブルデューはサルトルやフーコーに連なる批判的思考の伝統の継承者である。批判的思考は、自らを取り巻く世界の自明性のベールを剥いで認識し、それを乗り越える手段を提供する。この発想は、学問には世界の記述的解明以上のことはできない(すべきでない)と考えるエニックの立場と鋭く対立する。とりわけラガヌリーは、彼女が『価値』(二〇一七)でペトラルカ賞を受賞したとき、彼女を反動的で同性愛嫌悪の立場に立つとして批判し、賞の撤回を求めて署名活動を行なった。両者は完全な敵対関係にある。
 ところでエニックが反フェミニズムや同性愛嫌悪として攻撃されるのは、彼女が著書やメディアを通して、男女同数法(パリテ法)や職業名の女性化、体外受精などの生殖補助医療(PMA)、そして同性婚の権利などに反対を主張してきたためである。もっとも彼女の名誉のために言うなら、これらの論点での反対は、すぐさま反フェミニズムや同性愛嫌悪を意味するものとはなるまい。フェミニストにも同性愛者にもさまざまな立場や価値観が存在する。異論のある人間同士で議論を戦わせればよいだけだ。
 私の疑問はむしろ、彼女がどのような資格でそれらの発言をしているのか、に関わる。そもそも中立性の原則はどこへ? という問いが浮かぶが、その答えは『活動家主義が学問にもたらすもの』(二〇二一)に見つかる。同書で彼女は「活動家学者」が学問と政治を混同し、学問を不毛にしていると厳しく批判する。この不毛こそ「活動家主義が学問にもたらすもの」というわけだ。他方、両者を截然と区別することは可能で、学者としての仕事の外で自分の意見を表明するのであれば、それは当然の権利だとも主張される。彼女はまさにその権利を行使しているわけで、そこでは中立を保つ必要もないことになる。なるほど、だが……。
 その場合、彼女の身振りは「参加的知識人」または「批判的知識人」のそれに奇妙にも似通うことになる。知識人とは、学者としての仕事の外で、自らの公的使命を果たそうとする人々を指すのだから。現在の彼女は、その種の知識人としての活動が目立つあまり、研究者としての「参加した中立性」の理念を自ら遠のかせているように見える。かつて彼女が研究者に必要な資質として挙げた、特定の立場に留まらず複数の立場を行き来するための「移動の能力」を、そこに認めることは難しい。
 それにしても、なぜ、中立的であることはかくも困難を引き起こしてしまうのか。

 社会科学における「価値中立性」の概念は、ドイツの社会学者マックス・ウェーバーによって導入された。『職業(仕事)としての学問』を始め、この方面での彼の議論は、今日でも色褪せない。もちろんエニックも、価値中立性の話をするときウェーバーに依拠している。
 ところで「価値中立性」の概念は、逆説的なことだが、それ自体が党派的論争の道具にされてきた経緯がある。フランスで『職業としての学問』が最初に訳されたのは一九五九年とかなり遅く、哲学者・社会学者のレイモン・アロンによる長大な序文を付して刊行された。そして冷戦下の文脈のなかで、「価値中立性」の議論は、左派の言論活動・社
会参加を批判する道具として利用されることになった。原語のWertfreiheitは、日本語だと「価値自由」と訳されるのがもっぱらだが、仏語訳者はNeutralite axiologique(価値中立性)と訳した。この「中立性」は、学者は価値判断や社会的発言を行なうべきでない、という要請の根拠として援用されたのである。
 だが、二〇〇五年に同書の新訳・解説を務めたイザベル・カリノウスキは、以上のような経緯を指摘しながら、ウェーバーが「ヴェルトフライハイト」という語で論じたのは、「学者は価値判断を停止せよ」ではなく、「学者が自分の価値を教室で学生に押し付けてはならない」だと指摘する。そこで彼女は、この語は「価値の非‐押しつけ」(non‐imposition des valeurs)と訳すのが適切だろうと提案している。意識するとしないとにかかわらず、価値は誰の考えにも宿るもので、それは研究対象に接する際も例外でない。問題は、そうした価値に基づく判断を事実のように装い、それを権力関係にある学生に強制することにある。そのような押しつけの最たる例が、自分の議論を「中立的」だと称す、価値の隠蔽に他ならない。これをウェーバーは「不誠実」と告発したのだった。
 教師‐学生の権力関係を問題視する姿勢は、現代のアカハラ議論に通ずるものがある。もちろん、価値を他人に押しつけないためには、自らの内なる価値を炙り出す必要があるだろうし、そうして炙り出された価値観に距離を置いて接する訓練も要求される。教師が学生に施すべき指導も、究極的にはこうした価値の炙り出しに関わるもので、そのため教師は学生に「不都合な事実の存在を認めることを教える」必要がある、とウェーバーは述べていた。もし事実の試練を乗り越えることができないなら、そのひとは自らの立場に絡めとられていることになるからだ。
 駆け足の検討で議論を尽くすことは望めないが、以上のように考えるなら、「価値に対して自由である」とは、「価値をもたない」ことではなく、「価値を自覚する」ことに他なるまい。そしてジェンダーや人種、植民地主義に関する批判理論は、まさにそのような価値の炙り出しの手助けをすることができるはずだ。それは人々が無意識裡に前提にしている、性や人種、国にまつわる価値判断を問い直す作業であり、「価値自由」の実現に不可欠なものとさえ言えるのだから。もっとも、そうした理論が不都合な事実に直面するときもしばしば訪れることだろう。そんなとき、理論は自らの価値を問い直してみるべきだろうし、それは理論の深化のために有益なものに違いない。
 いずれにせよ、もし「中立的」という形容詞を、無関心の別名としてでも、単なる価値判断の停止としてでもなく維持しようと試みるのであれば、それは参加と距離化の間での、絶えざる往復運動を指すものでしかありえないだろう。
(フランス文学・思想)







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