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評者◆相馬巧
「読み替え以後」のオペラの見え方――オペラの物語の設定を移し替えること、現代風の舞台を作ることそれ自体は、決して重要な意味を持たない
No.3520 ・ 2021年11月20日




■読み替え演出の名手として知られるドイツのオペラ演出家ペーター・コンヴィチュニーの70歳を記念して、2015年に彼の演出技法にまつわる論集が出版されている。そのドイツ語の著作のタイトルはMensch,Mensch,Mensch!。日本語なら『ひと、ひと、ひと!』と訳すことができる。おそらくコンヴィチュニー自身が決めたタイトルなのだろう。2014年にびわ湖ホールで行われた《トラヴィアータ》の公開稽古の場において、彼は「Mensch(人間)」という言葉を連呼していた。この言葉には、コンヴィチュニーの演出家としての根本的な思想が含意されている。現代のオペラハウスで行われ続けている慣習が、作品の本質的なメッセージならびに登場人物たちの生を汚している、と彼は強く主張し続けてきた。そのため彼の演出には、一般的に行われているような、きれいな衣装を着た歌手が美しい歌を披露するオペラ上演とは一線を画す複雑な舞台が必要となる。そして彼は、観客に登場人物の生と向き合わせることをオペラという芸術の使命とみなしていた。言うなれば、「Mensch(人間)」とは彼の演出の仕事におけるスローガンである。演劇的な効果がオペラで全面的に押し出されるために、従来の演出とは異なるオペラの鑑賞態度がここでは要求される。
 コンヴィチュニーは稽古のなかで、「私は賢い観客のためにしか舞台を作れない」という言葉を何度か口にしていた。彼にとっての「蒙昧な観客」とは、先ほど述べたように舞台装置や衣装、さらには歌に表面的な美しさや技巧を求める人々を指す。また一方で、自らと同じように作品の個々のセリフや音符を細部まで追いかけ、単なるセンチメンタルな感情にとらわれることなく登場人物の生に向き合い、自らの生き方を悔い改めるような人物を彼は「賢い観客」と呼んでいる。それがあまりに過度な要求であることは明らかであろう。しかし、これまでの慣習的なオペラの鑑賞態度では、彼の舞台が単なる複雑奇怪なものとしてしか消費され得ないことも確かである。では、コンヴィチュニーが要求するような鑑賞態度とはいかにして可能となるのか。
 従来のオペラの鑑賞態度には、これまで行われてきた音楽批評の性質と相重なる点が多い。批評は、オーソドックスな作品解釈との比較検討によって、目の前の舞台で実践される演出アイデアがいかなる妥当性や優越性を有するかを整合的に判断し、さらに作品が固有に持っている魅力をどこまで発揮できたかの判定を行ってきた。整合的な思考に全面的に身をゆだねつつ客観的な立場に与している点で、先ほどのコンヴィチュニーの「Mensch(人間)」のスローガンとは相反するものである。しかし、この両者のあいだにはそもそも、オペラ作品という概念の解釈に重要な相違が存在している。前者において作品は、あくまで作曲家や演奏家の技量を示すためのメディア(媒体)とみなされる。これは、過去の作者から現在の受け手への一方向的に伝達を行う近代主義的なモデルに依拠していることの証左にほかならない。過去から現在へと続く歴史の線が一本でつながれ、また作品の本質はいかなる時代や場所においても不動のものであり続ける。
 一方でコンヴィチュニーは、作曲家から受容者への単線的な伝達をつねに疑うことから自身の演出プランを構築している。というのも、一般通念や劇場の舞台機構など、さまざまな要素が時代によって変化するのであり、このことを盛り込んだうえで舞台を作らなくては、作曲家が本来意図していた効果が得られない、彼は考えるためだ。そのため、台本に書かれていることをそのまま舞台に移しても、それは現代人の感覚からすればおとぎ話に過ぎないものになることもある。例えば、ベーラ・バルトークのオペラ《青ひげ公の城》には、舞台上のドアから赤い光が漏れることによって観客の恐怖心をあおるシーンがある。コンヴィチュニーによれば、この赤い光は20世紀初頭の舞台機構の性能を基に書かれたト書きであったという。つまり、当時は舞台上に赤い光を燈すということはまだ誰も見たことのない技術であって、それが観客たちにとって大きな衝撃を与えるものであった。しかし当然、現在において台本に書かれた通りに赤い光を舞台に燈したところで誰も驚きはしない。そのため、このシーンが本来意図された効果を上げるためには、現代の人々に同等の衝撃を与えるものへとこの赤い光を置き換えなければならない。
 このようにコンヴィチュニーの演出アイデアは、作曲された過去と上演される現在のあいだの決定的な断絶を認識することから生まれる。言わば、そこでオペラ作品とは過去と現在を架橋する歴史の場となるのであり、また一方でその両者の微妙なバランスのなかで構築される舞台によって、作品は歴史的に変化をし続ける。さらに、ここでオペラの登場人物たちは、不変の作品の本質という枠組みから解放され、この歴史の場へと投げ込まれることになる。観客もまたそこに参画し、登場人物の生と死に立ち会うことによって、各々の生の見直しを促される。客観的な立場から整合的に舞台を観るような態度では、コンヴィチュニーの要求を満足させることはできない理由がここにある。彼がそうした舞台を作る動機は、決して恣意的に作品を改変しようとするためではなく、作品自体がその読み替えを要求しているがためである。その意味で、観客もまたその作品の動的な変化のなかに関与する必要がある。コンヴィチュニーの考えに与するならば、批評の価値判断はその段階において行われるべきであろう。
 以上のような特徴は、読み替え演出を世界中に広めたシンボル的な舞台である、1976年にバイロイト劇場で初演されたパトリス・シェロー演出の《ニーベルンクの指環》において、すでに見て取ることができる。シェローは、ゲルマン神話を題材にとるこの作品を、ワーグナーと同時代の産業資本主義の発達した19世紀後半のヨーロッパに舞台を移している。例えば神々の長であるヴォータンはここで、権力的な大ブルジョワジーとしてフロックコートを着て登場する。また、第一作の《ラインの黄金》の冒頭にあるライン川の水底で三人の乙女たちが登場するシーンは、巨大なコンクリートのダムに娼婦のような恰好をした三人の女性が登場するものとなっている。
 シェローが言うところによると、《指環》は太古の神話を題材に取っているものの、決して神話の世界を直接的にオペラに移し替えたものではない。19世紀のヨーロッパという特殊な環境に生きた人間の感覚を持って、ワーグナーはゲルマン神話を読み解き、さらにオペラにした。そのため《指環》には決定的に資本主義に基づいた人間の発想や欲望が入り込んでいると言う。たしかに巨人や小人、さらにヴォータンなど多くの登場人物たちが、権力の奪取や経済的な損得勘定を行動の原理としている。そのため、太古の神話と資本主義社会のふたつが入り混じった世界を舞台にすることは決して恣意的なものではない、とシェローは主張する(パトリス・シェロー「思い切った舞台上の寓意によって明白さを」、『音楽の手帖 ワーグナー』所収)。
 いわば、この舞台においてシェローは、ワーグナーの創作の段階において見て取ることのできる太古のゲルマン神話と19世紀のオペラとが断絶を含みながら結びついている状況を、オペラ演出へと移行させたのである。ここに《指環》を現代的な舞台で上演する必然があった。だが、その見た目以上にさらに重要なこととして、シェローは読み替えという手法を使うことでオペラ作品を歴史の場へと変化させたのである。
 この点において、コンヴィチュニーとシェローのオペラ演出の技法は通底している。そして、オペラの物語の設定を移し替えること、現代風の舞台を作ることそれ自体は、決して重要な意味を持たないことが明らかになる。つまり、演出のアイデアを作品の歴史の要求を基に組み立て、「Mensch(人間)」をその歴史の場へと投げ込むことこそが重要なのであって、もはや読み替えを行うか行わないかは重要な問題ではなくなったのだ。すでにオペラは「読み替え以後」の時代へと移行している。
(東京大学大学院博士課程)







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