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評者◆稲賀繁美
「前途遥かなり 筆ふたつ」から「帰り来て 聞かせよ旅の歌を」まで――趙怡著『二人旅 上海からパリへ――金子光晴・森三千代の海外体験と異郷文学』(本体五八〇〇円・関西学院大学出版会)を読む
No.3518 ・ 2021年11月06日




■詩人の金子光晴は、晩年の1971年に『どくろ杯』を刊行した。上海事変を跨ぐ時期の「東洋の魔都」体験は、『ねむれ巴里』『西ひがし』に引き継がれ、これらは三部作をなした。趙怡さんの博士論文に基づく著書『二人旅 上海からパリへ』はこの金子光晴の行状を、その妻であった森三千代の視点と縒り合わせ、虚実交々の両者の関係を立体的に浮き彫りにする。ふたりの同棲から離婚や復縁を繰り返す人生行路が経糸となり、戦前期の欧州航路を経由して欧亜諸都市を遍歴する行状が緯糸をなす。副題に「海外体験と異郷文学」とあるが、同時代に、ここまで数奇な境涯を閲した日本人男女は、ほかにあるまい。「異郷文学」とは聞き慣れぬ表現だが、ふたりの閲歴は、およそ列島に閉塞した「日本文学」には収まらない。
 文人や藝術家にとっては、日々の生活がそのまま作品と化したとても、さして珍しくはあるまい。だがふたりの道は、お仕着せの大名旅行からは程遠く、各地で金策に翻弄されつつ、行く先々で突発事故よろしく、次々と恋愛騒動を巻き起こす。自由恋愛は、辛亥革命後の中国でも流行し、魯迅、田漢、郭沫若、郁達夫ら、光晴と三千代が親交を結んだ多くの「留日組」文化人たちの生涯にも刻印を残す。著者は日中の遺族のもとに残された幾多の未刊行の日記を閲覧する僥倖を得て、綿密な追跡調査から状況を復元する。三千代と白薔(1894‐1987)の女流同志の交友、画家でもあった光晴と陳抱一(1893‐1945)夫妻との交際からは、戦前期の国境を越えた「真の友情」と、それが戦禍を超えた信頼へと継承される姿が蘇る。
 森三千代の奔放な恋愛遍歴については、欧州での土方定一や戦時下の武田麟太郎との関係はよく知られる。だが本書は、日本による華北占領期の天津を舞台とした小説『あけぼの街』(1940)に登場する「柳剣鳴」に着目する。モデルは、モンゴルの血を引き、民国陸軍の軍人であった鈕先銘(1912‐96)。三千代は戦後に鈕との再会も果たすが、著者は両者の遺族とも連絡を付け、鈕先銘の『剣鳴閣詩集』に収められた漢詩に、三千代が付した訓読を添わせる。戦時下では「日本文化使節」として「仏印」に派遣された三千代だが、その文業に明らかな中国への理解には、鈕先銘との恋愛や友情も預かって、見事に形象化されていた。
 仏印派遣記録にはフランス語で刊行された三千代の詩集も含まれる。本書は未刊行の日記との照合から、公式任務が求める「皇軍」や「東亜新秩序」礼賛と、ヴェトナム現地に接する三千代の内心との落差も、克明に腑分けする。「大東亜共栄圏文学」では「単一民族」意識に縛られた日本人が、とかく図式的な善悪二分法の「他者認識」に陥りがちな傾向が摘出される(本書350頁)。それは同時期日本に滞在した外交官夫人、キャサリン・サンソムの『東京に暮らす』(1937、大久保美春訳)も認めた「島国根性」の見識の狭さだった。同様の傾向は、この時期の文学作品を「反戦抵抗」か「戦争協力」かの二分法で裁断しがちな、この国の近代文学研究にも残存する。だが自らも文化大革命の動乱を幼少時に経験した著者は、男女の視線を交錯させる三点測量を駆使しつつ、こうした陥穽を回避した。自伝と創作との虚実の間隙――本書はそこに、波乱に富んだ一組の連理の枝の振幅を鮮やかに育む、同時代史の舞台を見出した。そして、葛藤や確執に満ちたふたりの人生行路の相互照射の裡に、自らの生涯を作品へと彫琢した格闘の軌跡を確認する。
 没後出版となった共著自選随筆集『相棒』(1975)には、上海の友人・謝六逸が巴里行のふたりに寄せた送別の詩が付されていた。その詩は「前程万里筆双枝」に始まり、「帰来争誦紀遊詩」と閉じられている。







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