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評者◆相馬巧
作曲からの断絶――作品の歴史と批評(3)
No.3513 ・ 2021年09月25日




■音楽の演奏は作品の歴史認識によって規定されている。過去を記録する媒体である楽譜をいかに読解し、どのような奏法を用いるか。そうした一連の実践的な事柄は、音楽家の経験と技術に裏打ちされつつも、つねに歴史への問いかけとともに選択される。音楽史とは決して一様なものではないのだから、作品解釈にも普遍的な正解が用意されている訳はない。そのため、演奏によって作品の歴史認識に関する新たな視点がもたらされることもしばしば見受けられる。演奏は歴史の可能性に開かれているのであり、その意味で音楽家とはひとりの歴史家であるのだ。しかしながら、果たして従来の音楽史記述は、そうした演奏家の要求に応えるものであっただろうか。音楽史の概念それ自体が、いま一度構想され直さなくてはならない。
 イタリアの歴史家C・ギンズブルクは「たんなる問いからだけでもなければ、たんなる史料からだけでもなくて、両者の絡みあいのなかから、歴史家の仕事は生まれる」(『歴史を逆なでに読む』)と述べていた。周知のように、ヴィーコ、クローチェ、そしてベンヤミンの系譜に属するギンズブルクの仕事は、実証主義的な歴史記述に対する批判的な姿勢に貫かれている。実証主義者は、史料の客観的な分析を素朴に行い、そして統一的な歴史認識の完成を模索する。従来の音楽史記述もこれと同様の立場に与してきた。過去は過去として、現在においてもそのままに存在しているという前提がここで生まれる。
 こうした歴史記述においては、現在において行われる演奏家の判断の根拠、すなわち楽譜への「問い」に、十分な理論的な位置づけが与えられない。そこでは、「作曲されたもの」こそが作品であり、また客観性が保証されるがために、楽譜の分析こそが作品の構造を明らかにするものと仮定される。しかし、音楽が時間芸術である以上、そもそも楽譜と作品は同一のものとは言えない。誰の目にも明らかであるように、音楽作品は「作品の音」によって構成されているのだ。
 こうした歴史記述の欠損は偶然的に生まれたものではないだろう。近代主義的な芸術観において、作品と演奏の理想的な役割とは、作曲家の意図を伝達する透明な媒介の役割を果たすことであった。つまり、そこにおいて作品とは作曲家の営為の直接的な現前であり、また演奏は作品を可能な限り完全なかたちで実体化することが役割とされた。ラヴェルやストラヴィンスキーが演奏家の恣意的な操作を疎んだことは有名なエピソードであろう。だが、現在において紡がれる音の連続がすべて過去の人間の意のままにされることなど根本的に不可能である。作品は、単なる伝達手段ではあり得ない。こうした過去のイメージの直接的な伝達の理想とは、近代の形而上学的思考が生み出した倒錯にほかならないのだ。
 実証主義に付随するこうした歴史認識の倒錯が批判されるなかで、ギンズブルクは「史料」と「問い」を理論的に同等の価値を有するものとして扱い、絡みあう過去と現在のうちから歴史を叙述しようとする。すでに明らかな通り、従来の音楽史記述には、これに匹敵するような歴史哲学的な思考が全く欠如していた。
 だが一方で、ここで改めて注意を促すまでもなく、すでに多くの音楽家たちがこうした歴史記述の倒錯に気が付いている。彼らにとって演奏とは、断絶した過去と現在の両者を媒介し架橋する仕事である。断絶とは過去が現在から決定的に切り離されていることであり、また音楽家はこのことを経験的によく認識している。そうして彼らは、この過去と現在との距離のなかで楽譜に向き合い音を紡ぐ。これこそが、音楽という現象の根本的な性質にほかならない。
 では、具体的に音楽演奏において過去と現在はいかなるかたちで結びつくのか。そこで本稿が依拠するのがベンヤミンの歴史哲学であり、さらにはそのベンヤミンに甚大な影響を受けたアドルノの音楽論である。前回までに述べたように、ベンヤミンは『歴史の概念について』のなかで、現在と過去を無媒介に結び付ける「勝者」の歴史への徹底的な批判を行い、そうした歴史のあり方から排除される名もなき「敗者」たちの歴史を描こうとしていた。このことを先の議論と重ね合わせれば、「勝者」の歴史とは、過去の作曲家の活動にのみ定位する実証主義的な歴史記述であり、そして「敗者」の歴史とは、過去と現在との交錯から想起される過去の「作品の音」を叙述する歴史にほかならない。注意しなくてはならないこととして、ここで言う過去にあった「音」とは、決して実体論的に想定され得るものではなく、そのため、作曲家個人が想定していたであろう現実の音とは一線を画すものである。前回までに述べてきたように、ベンヤミンの言う想起とは、現在と衝突することによって起こる過去の再構成、すなわち彼の言う「救済」を指し示しているのだ。
 こうした思考は、明言されてはいないものの、アドルノの音楽論の根底のうちに明確に存在している。彼は『美学理論』にて、作品とは、音符が演奏によって音へと変換されて音楽を構成する過程それ自体を指すと定義し、作品の「過程的性格」を提唱している。つまり、彼にとって作品とは、予め作曲家によって完成されたものではなく、過去と現在の絡みあいのなかで生成されるものであるのだ。ここにベンヤミンの影響を見て取ることができるだろう。作曲家という「勝者」の歴史では、「楽譜に記された音=現在の音」という図式が前提とされるため、作品は作曲家の営為の直接的な現前として回収される。しかし、この過去と現在のあいだの断絶を架橋するものとしての作品の概念は、音楽作品を絶対的に未完成なものへと変える。この過程的性格から、作品の音という「敗者」を想起する音楽の歴史が構想されるだろう。

通俗精神科学が執拗に語るような、「歴史とは〔作品の〕重要性を決定する審級である」というクリシェのように、〔作品の〕重要性が歴史と相互依存の関係にあるなどと思い描いてはならない。(……)ベンヤミンの言葉によるならば、重要な芸術作品に目を向ける際、歴史の歩みは逆なでにされなくてはいけないのだ。(『美学理論』)

 『歴史の概念について』の第Ⅶテーゼにあるこの「歴史を逆なでにする」という有名な言葉は、ベンヤミンの歴史哲学において極めて重要な役割を果たしている。このテーゼでは、史的唯物論者である歴史家が「勝者」にとって都合よく書かれた歴史の歩みを、逆なでするように読み返すことによって、それまで忘れ去られていた「敗者」の歴史を叙述しようとする。たとえばベンヤミンは、このテーゼのなかで祝勝記念パレードを比喩として用いていた。その行進に引き出される戦利品は、「勝者」たちにとっては文化財と呼ばれるが、しかし同時に史的唯物論の冷ややかな目からすれば(逆なでにすれば)、その文化財は戦争という野蛮の記録でもありうる。史料を前にして、そこにある「勝者」の倒錯を凝視することによって、歴史の「敗者」を想起する契機が獲得される。
 ここで歴史家と呼ばれる人物がマルクス主義的な史的唯物論者に設定されていることに注目しよう。ベンヤミンは、歴史記述の根拠を用意された観念ではなく、現実にある物質に設定し、歴史を逆なでにする可能性を見て取る。アドルノはこれを音楽論に転用する。すなわち、そこで彼は、作曲↓作品↓受容という過去から現在へと向かう直接的な歴史の歩みを逆なでにする。現在から過去への遡行、演奏された音からの作品の再構成、さらに言えば過去にあった「作品の音」の想起こそを、彼は自らの音楽哲学の中心的なモティーフとした。そこで改めて検討されるのが楽曲分析の意味である。アドルノは楽曲分析を、単に客観性が保証されたなかでの手続きとみなすのではなく、合理性の枠組みの認識によって、逆説的にそれでは捉えることの出来ない感性的な音へと知覚を開かせる迂回路とみなす。そして、こうした一連の歴史哲学的な思考を、彼の音楽論のなかで最も理論的に展開させたものが、『新音楽の哲学』のシェーンベルク論であった。
(東京大学大学院博士課程)







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